概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1965年11月19日(54歳) | ||
出身地 | アレス | ||
身長 | 190cm |
ポジションはディフェンダー(リベロ、センターバック)。
利き足は右。
ロロ(Lolo)の愛称を持つ。
また、プレジデント(大統領)とも称される。
マンチェスター・ユナイテッド時代は「ローラン・ブラン」を英語風に変換した「ラリー・ホワイト」という愛称もつけられた。
90年代フランス代表のディフェンスリーダー。
1998年ワールドカップ優勝メンバーの一人。
獲得タイトル
クラブ
モンペリエ
- Coupe de France: 1989–90
オセール
- Division 1: 1995–96
- Coupe de France: 1995–96
バルセロナ
- Copa del Rey: 1996–97
- Supercopa de España: 1996
- UEFA Cup Winners’ Cup: 1996–97
マンチェスター・ユナイテッド
- Premier League: 2002–03
代表
フランス代表 U21
- UEFA European Under-21 Championship: 1988
フランス代表
- FIFA World Cup: 1998
- UEFA European Championship: 2000
個人
- UEFA European Under-21 Championship Golden Player: 1988
- French Player of the Year: 1990
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1992, 1996, 2000
- ESM Team of the Year: 1995–96, 1997–98, 1998–99
- Pirata d’Oro (Inter Milan Player of the Year): 2000
- Trophée d’honneur UNFP: 2004
- Équipe type spéciale 20 ans des trophées UNFP: 2011
- 4th French Player of the Century
経歴
クラブ
83/84シーズン、当時2部のモンペリエにて18歳でプロデビューします。
攻撃的MFでプレーしていましたが、後の代表監督ジャケによってCBにコンバートされます。
86/87シーズンはカメルーン代表ミラと並ぶ18得点を挙げて昇格に大きく貢献し、翌シーズンの8月17日トゥールーズ戦でリーグアンデビューします。
チームはJ・セーザルの加入などで層が厚くなりますが、3年連続2ケタ得点や国内カップ制覇と足跡を残しました。
ナポリではフェラーラとのコンビで4位になりますが、1年で退団しました。
ニームやサンテティエンヌでは活躍がチームの成績につながりませんでした。
95/96シーズンのオセールでは満足な活躍ができませんでしたが、クラブ初のリーグと国内カップの2冠を達成しました。
バルセロナではカップウィナーズ杯を獲りましたが、国内リーグでは2位に終わりました。
また、ポペスク、ナダル、フェルナンド・コウトと競争が激しく出番は30試合に届きませんでした。
マルセイユでは11得点を挙げて11位だったチームを4位に、2年目には2位に押し上げました。
99/00シーズンにインテルに入団します。
ベルゴミの引退もあって最終ラインで不動の存在となりますが、タイトルには手が届きませんでした。
01/02シーズン途中にスタムを放出したマンチェスター・Uへ移籍します。
2年目はファーディナンドの加入でサブに回りましたが、リーグ優勝で有終の美を飾りました。
代表
1988年のU-21欧州選手権を制し、翌年の2月7日アイルランド戦で代表デビュー。
1992年欧州選手権ではボリやカソニと3バックを組みますが、グループリーグで敗退しました。
1996年大会ではブルガリア戦でPKを決めますが、準決勝で姿を消しました。
1998年W杯では、決勝トーナメント初戦パラグアイ戦でW杯初のゴールデンゴールを挙げるなど5試合プレー、準決勝クロアチア戦で相手DFビリッチにひじ打ちを与えたとしてレッドカードをもらい決勝の舞台を踏むことはできませんでしたが、デサイー、テュラム、リザラズと組んだ4バックは抜群の安定感を見せ、わずか2失点で母国初の世界制覇を果たしたのです。
2000年欧州選手権では5試合戦います。
初戦のデンマーク戦でチーム初得点を挙げるなど、W杯との連覇を果たして黄金時代の中心的存在となりました。
エピソード
代表とマンチェスター・ユナイテッドの同僚GKバルテズのスキンヘッドに試合前にキスをすることが、勝利の儀式として定着していました。
引退後、2007年6月、リーグ・アンに所属するFCジロンダン・ボルドーの監督に就任した。
1年目より優れた手腕を発揮し、フェルナンド・カベナギの才能を開花させ、攻撃的なチーム作りでチームを2位に導いた。
2008-2009シーズンは、ヨアン・グルキュフの加入でチーム力をさらに上げ、リーグ・カップとリーグ・アンの二冠達成を果たし、オリンピック・リヨンの連覇を7で止めた。
2009-10シーズンも出だしから好調で、2009年末の時点で2位に勝ち点9差をつけ、29節終了時まで首位をキープしていたが、2010 FIFAワールドカップ後のフランス代表監督に就任する噂が立ったことなどからチームの成績が悪化し、最終的には欧州カップ戦出場圏外の6位でシーズンを終えた。
2010年5月16日、2010 FIFAワールドカップ後にフランス代表監督に就任するためにFCジロンダン・ボルドーの監督を辞任することを発表した。
同年7月、正式に代表監督に就任した。UEFA EURO 2012準々決勝敗退後、責任を取って辞任した。
2013年6月25日、レアル・マドリード監督就任のため退任したカルロ・アンチェロッティの後任としてパリ・サンジェルマンの監督就任が決定。
契約は2年間。2014-15シーズン、2015-16シーズンと2年連続国内三冠を達成、2013-14シーズンから三連覇と国内では無敵を誇るも、UEFAチャンピオンズリーグではベスト8どまりであった。
2015-16シーズン終了後、辞任が決定。
プレースタイル
192cm、88kgの大柄な体で対人プレーに強いのは言うまでも無いが、鋭い読みでパスカットやカバーリングも超一流の実力を持ち、「青い壁」と称された。
敏捷性には欠けるが、ボールテクニックに優れ、最終ラインから鋭いパスでチャンスを作った。
また、高度な技術、正確なパス、ヘディングなど攻撃力もあり、ボランチやDFとしては得点力も高かった。
スピードこそ劣るものの恵まれた体格を持ち、的確なポジショニングや状況判断などのインテリジェンス、リーダーシップで最終ラインで中心となります。
「プレジデント」の異名をとるフランス史上屈指のリベロです。