概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1967年1月25日(53歳) | ||
出身地 | ガッサン | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 83kg |
ポジションはフォワード(左ウイング)、ミッドフィールダー(左サイドハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ニーノ」、「Le Magnifique(偉大な男)」。
90年代前半に活躍したフランス代表の左ウインガー。
パパン、カントナと共に強力な攻撃陣を形成した。
獲得タイトル
クラブ
- パリ・サンジェルマン
- クープ・ドゥ・フランス:1992–93、1994–95
- リーグ・アン:1993–94
- クープ・ドゥ・ラ・リーグ:1995
- トッテナム・ホットスパー
- フットボールリーグカップ:1998-99
アストン・ヴィラ
- UEFAインタートトカップ:2001
代表
- U-21 フランス代表
- トゥーロン国際大会:1987
個人
- トゥーロン国際大会最優秀選手:1987
- フランス年間最優秀選手賞:1993
- リーグ・アン年間最優秀選手賞:1993-94
- プレミアリーグ月間最優秀選手:1995年8月、1998年12月
- PFA年間ベストイレブン:1995–96、1998–99
- トッテナム・ホットスパー年間最優秀選手:1997-98
- PFA年間最優秀選手賞:1998-99
- FWA年間最優秀選手賞:1998-99
経歴
85/86シーズン、18歳でトップデビューを果たし、翌86/87シーズンからはレギュラーとして活躍するようになった。
その後RCパリに移籍し、90/91シーズンにはブレストに移籍。
すでに得意のドリブルでフランスでも有名な存在になっていたジノラは、ブレストでさらに見事なパフォーマンスを披露。
チームは低迷するが、ジノラのドリブルは冴えに冴え、このシーズンの途中には代表デビューを果たす。
しかし、チームはこのシーズン1部残留することはできなかった。
ジノラはすぐには移籍せずに、半シーズン2部でプレーしたのち、名門パリSGに引き抜かれることになる。
パリSGに移籍しても臆することなくプレー、すぐにチームの中心として活躍するようになる。
翌92/93シーズン、パリSGにはウェアやゲランという有能なタレントが加入し、その恵まれた環境の中で才能を伸ばす。
93/94シーズンには、本来のウイングやサイドハーフのポジションではなく、FWに近い位置でプレー。
シーズンが始まると、その起用に応えウェアとのコンビで圧倒的なパフォーマンスを見せ、チームは8シーズンぶりの優勝を果たす。
優勝の原動力となったジノラは、このシーズンに最優秀選手にも選ばれ、フランスを代表するタレントとなった。
順風満帆に見えたジノラのサッカー人生だが、94年のW杯予選に落とし穴があった。
ヨーロッパ予選の最終戦、ホームのパリにブルガリアを迎えて、引き分け以上の条件でW杯出場が決まっていた。
フランスは先制するが、すぐにブルガリアに追いつかれる。
しかし、引き分けでもいいフランスにそれほど焦りはなかった。
そのまま時間は経ち、試合終了間際の89分、ジノラはドリブルで攻め上がり、時間稼ぎをすればいい状況であったが、センタリングを上げてしまう。
このボールを奪ったブルガリアは電光石火のカウンターでコスタディノフにボールを渡し、豪快に放ったシュートはフランスのゴールネットを揺らしたのである。
W杯出場が目の前にあったフランスは、この「パリの悲劇」によって2大会連続で本戦出場を逃したのである。
フランス国民はジノラを犯罪者のように批判した。
94/95シーズンは、ナントの驚異的な強さでリーグ優勝は逃したが、CLでは準決勝まで勝ち進む、しかし王者ACミランの前に惜しくも敗れた。
このシーズンも素晴らしいプレーを見せたが、94年W杯予選の件で、フランスに自分の居場所がないと悟ったジノラは海外移籍を決意する。
FCバルセロナへの噂もあったが、イングランドのニューカッスル・Uへ移籍。
95/96シーズン、イングランドの地に降り立った天才は、その才能を存分に発揮することになる。
ドリブルで次々とDFを抜き去り、ファーディナンドのゴールラッシュを演出し、すぐにプレミアリーグ屈指の選手となった。
96/97シーズンには、シアラーが加入。
サイドからの崩しで、シアラー、ファーディナンドの2トップを支え、チームの2位という好成績に大きく貢献した。
97/98シーズンには、トットナムに移籍する。
翌98/99シーズンには、おそらくサッカー人生で最高であろうパフォーマンスを見せる。
開幕から絶好調、とにかくドリブルはキレまくり、DFを簡単にひっくり返してしまう。
チームの成績は全くであったが、そのジノラの華麗なるドリブルはイングランド中のサッカーファンを釘付けにした。
このシーズン、マンチェスター・Uが伝説の3冠を達成している。
コール、ヨーク、ベッカム、キーンなどが素晴らしい活躍を見せたにも関わらず、このシーズンの最優秀選手に選ばれたのは、リーグの優勝争いに絡む事すらなかったトットナムのジノラであった。
その後も華麗なるプレーを見せたが、何故かビッククラブでプレーすることはなかった。
01/02シーズン、エバートンでのプレーを最後にピッチを去った。
代表では17試合で3ゴールの成績を残している。
ブレスト時代に初代表となりましたが、その後のチームの2部降格により、一時期代表から外れてしまい、その影響で92年の欧州選手権には出場できませんでした。
その後代表に復帰するも、「パリの悲劇」の戦犯となってしまったため、代表から排除されるという悲惨な目にあう。
エピソード
容姿端麗な事から女性の人気も高く、引退後はCM出演や俳優としても活躍している。
ジノラは元フランス代表でフランスが94年のW杯に出れなかったのは彼のせいともいわれている。(パリの悲劇)
その当時のフランスはといえばそれはそれは凄かった。
まず3トップがカントナ、パパン、ジノラだ。
凄い面子なんだけど、ジノラとカントナは折り合いが悪く永遠のライバル関係だった。
二人ともフランス代表でキャリアを始めてともにプレミアにわたり、そして二人ともリーグ最優秀選手に輝いたことがあり、二人とも個性と我が強すぎるがためにEURO96年を前に代表からシャットアウトされ、二人ともが引退後俳優となっている。
この関係を見るだけで面白いし実際カントナとジノラの2トップで臨む試合も多くこの二人からは異様なオーラが出ていた。
ジノラは度々首脳陣に「カントナやパパンを出すより自分を出した方が代表にとってプラスになる。」などといった歯に衣着せない発言が多いのだが、実際彼の左サイドでのプレーを見ると口だけではないのは明らかである。
パリの悲劇(パリのひげき)とは、1993年11月17日、フランス・パリのパルク・デ・プランスで行われたFIFAワールドカップアメリカ大会のヨーロッパ地区予選最終戦、フランス代表とブルガリア代表の試合で、ブルガリアが試合終了間際の決勝ゴールにより出場権を獲得し、ホームのフランスが予選敗退した事を指す日本での通称である。
スタジアムの名前から「パルク・デ・プランスの悲劇」とも呼ばれる。
ジェラール・ウリエ率いるフランス代表チームは、当時の有名スターをずらりと揃えた強力チームとしてかなり前評判は高く、予選グループ突破の最有力候補に挙げられていた。
特にプレイヤーとして絶頂期にあったジャン=ピエール・パパン、エリック・カントナの2トップは当時世界最強と評された。
中盤を厚くしたオフェンシブなフォーメーションで、典型的な「3-5-2」システムだった。
今回のヨーロッパ地区予選でフランスはスウェーデン、ブルガリア、オーストリア、フィンランド、イスラエルが同居するグループ6に組み入れられる。
この6ヶ国がホーム&アウェーによる総当たり戦で10試合を行ない、その中の上位2ヶ国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。
フランス代表は、いきなり初戦のブルガリア戦(アウェー)を落とし、波乱含みのスタートとなったが、その後はすぐに持ち直して第7戦のスウェーデン戦(アウェー)に引き分けた以外は全勝して、第8戦までを終える。
この時点でフランスは6勝1敗1分の勝点13と、予選グループの首位を走っており、「残り2試合のどちらかに勝利(勝点2)か、ブルガリアが2連勝しなければ本大会出場が決まる」という圧倒的なアドバンテージを有していた。
残すはどちらもホームゲームで相手はイスラエルとブルガリア。
イスラエルにはアウェーで大勝しており、ホームでも大勝して余裕で出場を決めるかに見えた。
ところが、雨天のパルク・デ・プランスで行なわれた1993年10月13日のイスラエル戦は、前半21分に先制を許す。
その後32分にソゼー、43分にジノラのゴールで2-1と一度は逆転に成功するも、後半38分に再び追いつかれた上、ロスタイムに決勝ゴールを決められ2-3の再逆転負け。
グループ最下位のイスラエルに地区予選唯一の勝ち星をプレゼントするという結果となった。
同日にはブルガリアがホームでオーストリアに勝利し、勝点を12に伸ばした。
11月10日にスウェーデンが引き分けて勝点を15に伸ばし、他チームの結果に関わらず本大会出場を決めた。
グループ6を通過するもう1カ国は、11月17日にパリで行われる最終戦、フランスとブルガリアの直接対決で決まることになった。
フランスはブルガリアにアウェーでは不覚を取ったものの、ホームである上に「引き分けでも本大会出場」というアドバンテージは依然として生きていた。
一方のブルガリアが出場を決めるためには、最終戦に勝つしか道は残されていなかった。
1993年11月17日、パルク・デ・プランスへ詰めかけた4万人を超えるフランスサポーターの大声援の中、キックオフ。
前半32分にクロスボールをパパンがヘディングで落とし、カントナが豪快に蹴り込んでフランスが先制する。
しかしブルガリアもすぐさま反撃し、直後の37分にエミル・コスタディノフのヘディングシュートで同点に追いつき振り出しに戻す。
後半も同点のまま時間が経過し、引き分けでフランスが何とか本大会の出場権を得るかに見えた。
観客は勝利を確信し歌い、時間稼ぎの時間に入っていた。
後半44分、ジノラが敵陣右コーナー付近で倒され、フリーキックを得る。
ヴァンサン・ゲランがこれをチョコンと蹴り、パスを受けたジノラは当然ボールキープによる時間稼ぎに入るかと思われた。
しかし、ジノラはそれをせず、いきなりゴール前へセンタリングを上げる。
しかしそのボールは、一人ゴール前に残っていたカントナの頭上を遥かに越えていき、逆サイドにいたブルガリアのエミル・クレメンリエフへと渡った。
その後、ブルガリアがパスを繋いでカウンターに入り、リュボスラフ・ペネフのポストプレーから前線のコスタディノフへ、浮き球のスルーパスが通る。
コスタディノフがゴール右のあまり角度がない位置で思い切りよく右足を振り抜くと、強烈なシュートがGKベルナール・ラマの頭上を抜き、バーに当たってからゴールに飛び込んだ(89分59秒)。
フランス人が「悪魔のような」と形容したシュートにより、一瞬にしてスタジアムは静まり返り凍りついた。
このゴールでフランスは1-2で逆転負けし、土壇場でブルガリアに出場権を奪われるという幕切れとなった。
後半44分の敵陣サイド際のフリーキックで、時間稼ぎをせずに安易なセンタリングを放り込むという致命的なミスを犯したFWのダビド・ジノラは、家族をも巻き込む凄まじい非難と中傷を受けた。
さらには、ジェラール・ウリエ監督もジノラを痛烈に批判し、彼は失意の末に批判から逃れるようにFAプレミアリーグへ渡った。
ジノラは後を引き継いだエメ・ジャケ監督の構想からも外れ、1995年を最後に現役を退くまで代表に招集されることはなかった。
プレースタイル
フランスの生んだ天才ドリブラー。
華麗のテクニックとスピードを兼ね備え、そのドリブルは観る者を魅了する。
主な戦場は左サイドであるが、右左関係なくプレーすることができ、パスの精度も非常に高く、強烈なシュートも持っている。
サイドからの巧みなドリブル突破を得意とし、カントナ、パパン等と共に、90年代前半のフランス攻撃陣を担ったウインガー。
美しい容姿と、エレガントなプレースタイルから、ヨハン・クライフに世界で最も魅力的なプレーヤーと称された事でも知られる。
ドリブルをすれば鮮やかなステップで簡単に2、3人は軽く抜き去り、サイドからは両足関係なく正確なクロスをゴール前に供給。
前線に効果的なパスを出しては、シュートも積極的に狙う。
そのシュートもまた強烈で正確。
ロッベンやオーフェルマルスのようにスピードで勝負するわけでもなく、フィーゴやC.ロナウドのように何回もまたがない、せいぜいなまたいでも一回である。
ただこのテクニシャンと対峙する右サイドバックには最大の脅威を与え、彼らは切り落とされた木の如く倒れていく。
胸トラップ、ヒールパス、クライフターン、ダブルタッチといった基本的なテクニックもジノラがやると美技に変わる。
ジノラの腰の高いエレガントなドリブル、両足からのクロス、中への優雅なカットインからの強烈なシュートやシルクのようなボールタッチを見ていると確かにあの彼が敵対していたカントナをも食ってる感すらあり全盛期のギグスですら霞んでしまう。