概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年1月1日(48歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 185cm | ||
体重 | 79kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック、右サイドバック)。
利き足は右。
愛称は「テュテュ」、「哲人」。
1998年ワールドカップ・フランス大会優勝の立役者。
1990年代から2000年代のフランスを代表するディフェンダー。
フランス代表の歴代最多出場の記録保持者。
獲得タイトル
クラブ
モナコ
- Coupe de France: 1990–91
パルマ
- Coppa Italia: 1998–99
- Supercoppa Italiana: 1999
- UEFA Cup: 1998–99
ユヴェントス
- Serie A: 2001–02, 2002–03
- Supercoppa Italiana: 2002, 2003
バルセロナ
- Supercopa de España: 2006
代表
フランス代表
- FIFA World Cup: 1998
- UEFA European Championship: 2000
- FIFA Confederations Cup: 2003
個人
- French Player of the Year: 1997
- Guerin d’Oro: 1997
- FIFA World Cup Bronze Ball: 1998
- FIFA World Cup All-Star Team: 1998, 2006
- ESM Team of the Year: 1998–99, 2002–03
- UEFA Euro Team of the Tournament: 2000
- FIFA 100: 2004
- FIFPro World XI: 2006
- Trophée d’honneur UNFP: 2009
- Équipe type spéciale 20 ans des trophées UNFP: 2011
- Chevalier of the Légion d’honneur: 1998
- Officier of the Légion d’honneur: 2013
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1991-1996 | ![]() |
155 | (8) |
1996-2001 | ![]() |
164 | (1) |
2001-2006 | ![]() |
144 | (1) |
2006-2008 | ![]() |
41 | (0) |
通算 | 504 | (10) | |
代表歴 | |||
1994-2008 | ![]() |
142 | (2) |
クラブ
1972年1月1日、グアドループの漁業の拠点となるグランド・テール島の港町ポワンタピートルに生まれた。
ちなみにテュラムの誕生は新年を迎えてわずか20秒後のことで、72年に生まれた最初の子供としてメディアが取材に訪れ、新聞記事に掲載されたという。
幼少期はピアノにも親しみ、夢はカトリックの神父になることであった。
1981年、フランス本土パリ郊外にあるフォンテーヌブローに移り住み、サッカーを始める。
1988年、フランスのASモナコにスカウトされた。
1990年に同クラブでプロデビュー。
同シーズンにはこのクラブ在籍時に唯一の獲得タイトルとなった国内カップの優勝を経験する。
翌91-92シーズンの後半にはレギュラーに定着し、92-93シーズンにはリーグ戦37試合に出場。
またブレーメンに敗れたものの、カップウィナーズ・カップの決勝にも進出した。
当時の監督アーセン・ベンゲルの指導の下、次第に身体能力の高さと1対1の場面での勝負強さが注目され始めた。
1996年にセリエA・パルマACへ移籍し活躍。
イタリア代表GKジャンルイジ・ブッフォンとDFファビオ・カンナバーロとのトリオは世界最高の守備トリオと呼ばれた。
カルチョ1年目で公式戦37試合に出場し、ユベントスに次ぐ2位というクラブ史上最高順位を得るのに貢献し、98-99シーズンにはコッパ・イタリア、UEFAカップという国内・欧州のダブルタイトル制覇を成し遂げる。
テュラムの価値は高まる一方だったが、パルマは財政難が表面化して徐々にチーム力が低下。
主力選手が年々、チームを去るなかで、テュラムも2001年に新天地を求めることとなった。
2001年、同僚ジャンルイジ・ブッフォンとともにユヴェントスFCへ移籍し、2001-02シーズンと2002-03シーズンの連覇を果たす。
2004年、パルマでコンビを組んだファビオ・カンナバーロが加入し、パルマ時代のトリオ再結成となった。
彼らとともに鉄壁の守備陣を形成し、01-02シーズンからセリエA連覇を達成。
さらに1シーズンおいて再び2年連続でスクデットを獲得するなど、キャリアにおいても最も充実の時を過ごしていた。
2004-05シーズン、2005-06シーズンと連覇を果たすものの、2006年、カルチョーポリにおける審判買収でユヴェントスが降格した。
これにより、ファビオ・カペッロ監督やカンナバーロらがレアル・マドリーへ、パトリック・ヴィエラやズラタン・イブラヒモビッチはインテルへ移籍し、一方でアレッサンドロ・デル・ピエロ、パベル・ネドベド、ブッフォンらは残留を決意した。
テュラム本人は現役引退も視野に入れていたようだが、最終的に同僚ジャンルカ・ザンブロッタとともにFCバルセロナへ移籍した。
フランク・ライカール体制下のチームで2シーズンを過ごしたが、当時のバルサは過渡期にあり、この間の獲得タイトルは06年のスーペルコパひとつに止まった。
EURO2008後、パリ・サンジェルマン移籍が確実視されていたが、メディカルチェックにて心臓の奇形が発覚した。
再検査を行った結果、最初の診断は誤りで、彼の心臓は正常であったことがわかったが、彼の実兄はかつてバスケットボールの試合中に心臓発作で亡くなっており、テュラムにも同じことが起こるのではと常日頃から心配していた母親を安心させるため、現役引退を2008年8月1日に正式に表明した。
代表
「レ・ブルー」のユニホームを初めて身に纏ったのは1994年8月17日のチェコ戦。
この試合では、あのジネディーヌ・ジダンも代表デビューを飾り、こちらはいきなり2ゴールを挙げて、大きな注目を集めることとなった。
エメ・ジャケの下で、右SBとして早々に代表でのポジションを確立していったテュラム。
身体能力に恵まれていたものの、これに頼り切るのではなく、読みの良さと判断力の高さ、インテリジェンスを活かし、相手のあらゆる攻撃に対応し、世界の攻撃の猛者どもを封じ込めていった。
初めてのメジャーイベントとなったEURO1996で、フランスは準決勝進出という好結果を残すとともに、5試合で失点わずか2と堅守の印象を与え、ここでテュラムは全試合に出場した(先発出場は4試合)。
2年後、迎えた自国でのワールドカップ。
初の大舞台にも、テュラムは全く冷静さを失うことなく、パワーとスピード、そして的確なプレーで対戦相手を苦しめていく。
フランスはこの大会でも、抜群の守備力を誇り、準々決勝(5試合)を終えた段階で1失点を喫しただけだった。
そして準決勝でフランスは、初出場でここまで駒を進めてきたクロアチアと対戦したが、この一戦はテュラムにとって永遠に忘れられないものとなった。
試合は46分にダボル・シュケルのゴールでクロアチアが先制。
ここでテュラムがポジションを上げられなかったことで、シュケルをオフサイドにできず、フリーでのシュートを許してしまった。
これはフランスにとって、痛い失点になるかと思われたが、その直後にチームを救う同点ゴールを挙げたのがテュラムだった。
敵陣ペナルティーエリアの右前でボールを奪ってユーリ・ジョルカエフに預け、ゴール前に走り込んだ彼は、リターンパスを受けると体勢を崩しながら押し込んだのだ。
さらに69分には、右サイドをドリブルで上がり、味方との壁パスをいったんは相手選手にカットされるも、強引に奪い取って左足を一振り。
ボールはゴール左隅に突き刺さり、ホームの大観衆を狂喜乱舞させた。
そしてこの逆転ゴールが決勝点となり、テュラムは一躍、フランスのヒーローとなった。
フランスはブラジルとの決勝戦では危なげなく90分間を過ごし、ジダンのヘッド2発などで3-0の完勝、7番目の王者として黄金のトロフィーを掲げた。
この大会6試合でプレーしたテュラムは、全てを兼ね備えた完全無欠な存在と評価され、大会ベストDFのひとりに挙げられたのである。
さらにその2年後、フランスは監督をロジェ・ルメールに代えてより成熟した集団となり、オランダとベルギーで開催されたEUROでメジャーイベント2連覇を達成。
テュラムは絶大な存在感を発揮し、守備では相変わらずの安定感を見せる一方で、攻撃面の進歩を見せ、選手としての価値をさらに高めた。
その後、2002年日韓W杯では大会直前にジダンが怪我に倒れたこともあり、フランスは完全に歯車が狂って無得点でのグループリーグ敗退を喫し、その2年後のEURO2004では準々決勝で伏兵ギリシャ(後に優勝)の堅守を破れずに敗北。
ここでテュラムは、ジダンらとともに代表引退を宣言した。
しかし、これは後に撤回。
2005年、ドイツW杯欧州予選に苦しむフランス代表の救世主として、モンペリエで行われた国際親善試合コートジボワール戦にてジネディーヌ・ジダン、クロード・マケレレと共に代表復帰した。
自身は負傷交代したものの、チームは3-0で勝利。
その後、苦しんでいたフランス代表は息を吹き返し、予選を1位で通過した。
2006年、ドイツW杯グループリーグ・トーゴ戦において、かつての盟友マルセル・デサイーの持つ代表出場記録を塗り替え、歴代1位となった。
チームは決勝で敗れたものの、守備の要として全試合に出場した。
スイス・オーストリア共催で開かれたEURO2008の初戦、ルーマニア戦に出場した事によりEURO出場試合数を15とし、歴代1位となった。
大会を最後にフランス代表からの引退を発表。
代表出場142試合はフランスの歴代最多である。
そして代表での通算得点は2。
このことからも、あのクロアチア戦が、いかに彼にとって(フランスにとっても)特別なものとなったかが分かるだろう。
エピソード
ピッチ外でも、同化推進委員会に属するなど、頭脳明晰な面も持ち合わせる。
2005年、パリ郊外を中心として発生した暴動に対し一定の理解を示す発言をするなど、フランス国内において一定の影響力を有している。
レキップ紙によれば、フランス人のスポーツ選手で6番目、サッカー選手ではアンリに次ぐ、2番目に人気がある選手という結果が出ている。
息子のマルクス・テュラムもプロサッカー選手であり、U-20フランス代表にして2019年現在はボルシア・メンヒェングラートバッハに所属している。
またスタンダール・リエージュに所属しているGKヨアン・テュラム=ユリアンは従兄弟に当たる。
テュラムのキャリアでは人種差別がよくあった。
それで、彼は引退後にこの問題に立ち向かうことにした。
「イタリアでプレーしている時、あるコーチが私のところに来て、『お前ら黒人同士でいつも一緒にいるのは滑稽だ』と、言ったんだ」と、1998年W杯優勝20周年記念のレキップによるインタビューで明かしている。
「私は彼を見てこう言った、『黒人同士で一緒にいるのは変だとしても、あれを見ろ、白人達も同じことをしている、けど何か言われるのはこっちだけだ』ってね」
このような出来事によってテュラムの正義感に火がつき、1998年に生まれた最初の息子は、黒人民族主義の著名な指導者であるマーカス・ガーベイにちなんで名付けられた。
そして1998年、彼は多民族チームであるフランス代表が、本国の地でW杯を制覇するのに中心的な役割を担った。
彼は代表戦で通算2ゴールしか挙げていないが、2つとも最も大事なときにチームを救った。
レ・ブルーは準決勝でクロアチアを0-1で追う展開であり、ローラン・ブランの不本意な退場により10人で戦っていた。
それは、代表で最も意外なヒーローが必要とされる時だった。
後半に入って2分後、彼はボックス外でディフェンダーからボールを奪い、ジネディーヌ・ジダンとパスを交わしてセンターフォワードさながらの動きでゴールを決めた。
後半の中盤に、彼は再び高い位置でボールを奪い、左足を振り抜いてゴール隅に決めた。
決勝点になったこのゴールでホームの観衆は大いに湧き、チームメイトが歓喜で詰め寄ったが、彼はひざまずいて深い思考に耽るようなポーズをとった。
そのポーズがトミー・スミスとジョン・カーロスを連想させるものだったのかという問いに対して、「特に意味は込められていなかった」と、答えている。
彼らは、1968年メキシコシティオリンピックでの200メートル走メダル表彰式において「ブラックパワー・サリュート」を行ったことで有名だ。
しかし、テュラムのポーズが意味のないものだったとしたら、彼は他のみんなと同じようにフランスの勝利を味わっていなかったということだ。
「最初は、それが政治的な行動になるかは確かではなかった」と、彼は明かす。
「けれども同時に、これはポジティブなものになるだろうと自分に言い聞かせた」
「あのポーズは、フランスが多民族であり、代表チームがそれを完璧に反映していることを再確認させるだろう。もっとも、アジア系フランス人がいることも忘れてはいけない」
「とにかく、我々が強い象徴を欲している重要な瞬間だった」
1998年の優勝がフランスの人種差別問題の気付け薬だったとしても、治療薬ではなかったことは確かだ。
これはテュラムが今でも人種問題に取り組んでいることを見れば分かる。
実際、代表としてのキャリアを終える前にも、チームがうまくいかなかったら批判をする右翼の政治家に立ち向かわなければならなかった。
「団結の気持ちはすぐに薄れていったよ」と、2018年のW杯の前にティエリ・アンリはレキップに明かした。
代表戦の最高得点記録保持者で、テュラムと同じグアドループ出身だ。
「悲しいのは、肌の色に関係なくみんなフランス人だという雰囲気があったのは一瞬だけだったということだ。そして、それはかけがえのないものだった」
それから8年後、テュラムがまだチームにいた2006年ドイツW杯のとき、一見まとまっていたチームはジャン=マリー・ル・ペンの標的にされた。
彼は、フランス代表が「国を反映していない」と述べ、さらに「監督は有色人種の選手を重用しすぎており、人選にはもっと慎重にならければならない」とまで述べたのだ。
テュラムはすぐに応酬した。
「彼は明らかに、フランス人には黒人や白人や褐色人種がいることを理解していない。大統領になりたい男が、フランスの歴史や社会について全く知らないということが明らかだ」
「ピッチに入るとき、我々はフランス人としてピッチに入る。みんなそうだ。人々が我々の勝利を祝うとき、我々を黒人や白人としてではなく、フランス人として祝っている。黒人であるかどうかは関係ない。なぜなら我々は皆フランス人だからだ」
「ジャン=マリー・ル・ペンに言いたいことが一つだけある。フランス代表は、フランス人でいることにとても誇りを感じている。彼が我々に問題があると思うのは彼の勝手だが、我々はこの国を代表することに誇りを感じている。だから、フランスに栄光あれ。それも真のフランスのことであって、彼の望むフランスではない」
レ・ブルーはW杯決勝まで進出したが、決勝戦では惜しくもPK戦でイタリア代表に敗れた。
そして、テュラムはその後も2年間は代表としてプレーした。
選手生活を終えた後は、彼の政治的な活動はより活発になり、格差やLGBTの権利などについて意見を表明し続けている。
しかし、彼が主張してもっとも反響を呼ぶのは、人種問題についてだ。
2010年、彼はリリアン・テュラム財団を立ち上げた。
目標は、教育によって人種差別を克服することだ。
「バルセロナでプレーしていたとき、フランス領事館で夕食を食べることがあって、ある紳士が『将来は何をやりたい?』と聞いてきた」と、テュラムは財団を立ち上げた経緯を振り返った。
「私は少年っぽく答えた。『私は世界を変えるつもりだ。学校に行って人種差別は自然的なものではなく、文化的状況によるものだということを説明したい』ってね」
「我々は生まれながらに人種差別主義ではなくて、そうなっていくんだ」
47歳のテュラムに越えられない壁はない。
彼は、2018年の初めにトランプ大統領がエルサルバドルやハイチなどの中央アメリカの国を「汚い国」と呼んだことに対して強く非難した。
彼はいつものように率直に応酬した。
「トランプはいつも黒人、白人、非白人の対立を望んでいる。いい国と悪い国とに分けたがる。彼は人種の間に線を引いた。彼らと私たち、という風に。これは人種差別だ」
実際、彼は教育や啓蒙をするには、今も大変な努力が必要であることを認識している。
「ユヴェントスのブレーズ・マテュイディがカリアリ戦で侮辱されたのは、もっぱら彼の肌色が原因だ」と、テュラムは説明する。
「私は1996年にイタリアでプレーしているときに、猿の鳴き真似をするファンがいた。これはつまり、20年経っても教育の成果はあまり芳しくないということだ」
「物事を変えるには、人種差別を受けていない人が率先して取り組むべきだ。つまり、白人選手や白人指導者や白人サポーターのことだ」
ピッチでのプレーが几帳面で厳格で効果的だったテュラムは、ピッチ外でも同じ能力を示している。
ただ、今回のゴールはもっと大きなものだ。
カリブから移住して英雄に昇り詰めたテュラムは、社会的にも大きな影響力を持ち、ニコラ・サルコジ大統領(当時)から内閣入りを懇願されたこともあるという。
小さい頃はカトリックの神父になることを望んでいたという彼は今、偉大な父と同じ道を歩もうとする息子マルクス、ケフランを見守りながら、サッカー界に提言を送り続けている。
プレースタイル
強靭なフィジカルとスピードを兼備した完全無欠のディフェンダー。
代表、クラブの活躍から右サイドバックのイメージが強かったが、本人は「センターバックが一番力を発揮できる」と公言し続けている。
テュラムの超絶能力は、実は身体能力ではなく、頭脳的な読みの力にある。
かなりのインテリとして知られており、戦術眼も優れているため、戦術大国であるイタリアの中でも屈指の読みの力を持つ選手として認識されている。
テュラムのプレーを見ていると、圧倒的な身体能力を生かして無理矢理奪うプレーは少なく、相手のプレーを見透かして予めより良いポジショニングを取ったり、心理面で相手より優位に立って自らのペースに引込む様な形が多い。
しかし、だからといってその他の能力が低いわけではなく、当然、カリブならではのしなやかな肉体を生かしたフィジカルコンタクトにも優れた点を見せる。
欧州やアフリカのパワーとは異なり、カリブというのはどこかゴムの様な不思議な体質を持っている様で、テュラムは細身に見えるのだが、相手を抑え吸収してしまうかの様なフィジカルの強さと柔らかさを同居させている。
また、代表では右サイドを務めていることからわかる様に、攻撃面でも高いセンスを持っており(元々攻撃選手)、攻撃参加のタイミングと安定したボールさばきで、チームのアクセントになることもしばしばある。
本職はセンターバックであるのに、当時ブラジルのカフーと並んで世界トップレベルの右サイドバックとしても認識されている程、非常にオールマイティーな能力を持っている。
センターとサイドをここまで高いレベルでこなせるのは、パオロ・マルディーニとテュラムくらいだろう。
攻撃面のセンスがあることも、守備のセンスの良さに一役買っているのかもしれない。
あのカンナバーロが『別の惑星から来た選手』と言う程の高い能力と安定度を持っており、カンナバーロ、マルディーニ、ネスタの3大イタリアDFと並んで世界トップのディフェンスプレーヤーとして認知されている。
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