スティーブ・ブルーマー

概略

国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 1874年1月20日
出身地 ウェスト・ミッドランズ
没年月日 1938年4月16日(64歳没)

身長173cm、体重65kg

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

ジミー・グリーブスに次ぐフットボールリーグ歴代2位の得点記録を保持しており、生涯で650試合に出場して400得点を記録した。

 

ダービー・カウンティFCの伝説的な選手であり、クラブの公式アンセム(Steve Bloomer’s Watchin’)のタイトルにもその名が使用されているほか、ホームスタジアムであるプライド・パーク・スタジアムには胸像が設置されている。

 

2008年、イングランドサッカー殿堂に選出された。

 

獲得タイトル

代表

イングランドの旗 イングランド代表

  • ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ : 8回 1895, 1898, 1899, 1901, 1903, 1904, 1905, 1906

クラブ

イングランドの旗 ダービー・カウンティ

  • 2部リーグ : 1回 1911-12

イングランドの旗 ダービー・カウンティ・ベースボール・クラブ

  • イギリスチャンピオン : 3回 1895, 1897, 1898

 

経歴

 

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1892-1906
1906-1910
1910-1914
ダービー・カウンティFC
ミドルズブラFC
ダービー・カウンティFC
375 (238)
125 (61)
98 (53)
代表歴
1895-1907 イングランドの旗 イングランド 23 (28)

 

クラブ

 

1892年9月3日、ストーク・シティFC戦でダービー・カウンティFCのトップチームデビューし、9月24日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦で公式戦初得点を挙げた。

 

兄弟であるフィリップもダービー・カウンティに所属していたが、1896年に腹膜炎によって死亡。

 

トップチームでのプレーは1試合にとどまった。

 

ダービー・カウンティでの14シーズンで17度ハットトリックを記録し、5度得点王に輝いた。

 

1886-87シーズンには、5度のハットトリックを含む31得点を挙げた。

 

その輝かしい個人成績とは対照的にクラブタイトルには恵まれず、1895-96シーズンにリーグ2位、1898年、1899年、1903年と3度FAカップ決勝まで進出したものの、14シーズンでタイトルを獲得することはなかった。

 

1906年に750ポンドでミドルズブラFCに加入。

 

1906-07シーズン、1907-08シーズンと2年連続でクラブ得点王となった。

 

1907年1月5日のウーリッジ・アーセナル戦では1試合4得点を記録した。

 

その後ダービー・カウンティへと戻り、1911-12シーズンの2部リーグ優勝に貢献。

 

1914年1月31日、バーンリーFC戦を以って現役を引退した。

 

代表

 

1895年9月3日のアイルランド戦でイングランド代表デビュー。

 

ブルーマーの2得点を含む9-0というスコアで大勝した。

 

その後、アイルランド戦を含む最初の10試合全てでゴールを奪い、10試合で19得点を記録した。

 

1896年3月16日のウェールズ戦では4得点を挙げた。

 

8度のブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ優勝に大きく貢献。

 

ブルーマーは、イングランド代表で初めて2度ハットトリックを記録した選手となり、また2度4得点を挙げた初めての選手となった。

 

エピソード

ダービー・カウンティでは野球チームにも所属しており、3度英国王者に輝いている。

 

引退後の1914年7月にドイツのクラブであるブリタニア・ベルリン92の監督に就任するが、第一次世界大戦勃発によってベルリン、シュパンダウ区に拘留されたため、わずか3週間でクラブを離れることとなった。

 

第一次世界大戦時、ドイツのルフレーベン収容所ではルフレーベンFAが結成されている。

 

この収容所の4000人の中に、スティーブ・ブルーマーがいた。

 

ブルーマーは対抗戦が行われたルフレーベン収容所で大活躍したわけだが、サッカーだけでなくクリケットでもスターだったという。

 

引退後にコーチとしてドイツに渡ったら戦争になって収容所に入れられてしまった。

 

戦争終結後、短期間のみオランダのブラウ・ウィット・アムステルダムの監督を務めた。

 

1923年にレアル・ウニオンの監督に就任。

 

1924年のコパ・デル・レイ優勝に導いた。

 

イングランドに戻った後はダービー・カウンティのリザーブチームにてプレイヤーコーチに就いたほか、新聞のコラムニストや野球場の管理人などの業務を行った。

 

1937年、ダービー・カウンティはブルーマーにオーストラリアやニュージーランドへの漫遊を与えた。

 

翌年4月、旅から帰ってきた3週間後に死去。

 

プレースタイル

 

パワフルで強烈かつ正確なシュートでゴールを量産したストライカー。
ゴールへの嗅覚があり、ポジショニングに優れていた。
小柄ながらヘディングも上手い。
スピードも武器のひとつでドリブル突破やパスも水準以上だった。
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