概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1980年12月7日(39歳) | ||
出身地 | ロンドン バーキング・アンド・ダゲナム区 | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 90kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
2000年代イングランドを代表するセンターバック。
チェルシーなどで活躍した。
FIFPro年間最優秀選手賞の守備部門に創設された2005年度から4年連続で名を列ね、UEFAチャンピオンズリーグの最優秀DF賞を2005年と2008年に2度獲得、PFA年間最優秀選手賞を2005年に獲得などの実績がある。
獲得タイトル
クラブ
チェルシー
- Premier League: 2004–05, 2005–06, 2009–10, 2014–15, 2016–17
- FA Cup: 1999–2000, 2006–07, 2008–09, 2009–10, 2011–12; runner-up: 2001–02, 2016–17
- Football League Cup: 2004–05, 2006–07, 2014–15; runner-up: 2007–08
- FA Community Shield: 2005, 2009
- UEFA Champions League: 2011–12; runner-up: 2007–08
- UEFA Europa League: 2012–13
個人
- Chelsea Player of the Year: 2000–01, 2005–06
- Premier League Player of the Month: January 2005
- Alan Hardaker Trophy: 2005, 2015
- PFA Players’ Player of the Year: 2004–05
- PFA Team of the Year: 2003–04 Premier League, 2004–05 Premier League, 2005–06 Premier League, 2014–15 Premier League
- FIFA FIFPro World XI: 2004–05, 2005–06, 2006–07, 2007–08,2008–09
- ESM Team of the Year: 2004–05, 2008–09, 2009–10
- UEFA Club Defender of the Year: 2005, 2008, 2009
- UEFA Team of the Year: 2005, 2007, 2008, 2009
- FIFA World Cup All-Star Team: 2006
- PFA Team of the Century (1997–2007): 2007
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1998-2017 | ![]() |
492 | (41) |
2000 | →![]() |
6 | (0) |
2017-2018 | ![]() |
32 | (1) |
通算 | 530 | (42) | |
代表歴 | |||
2003-2012 | ![]() |
78 | (6) |
クラブ
少年時代からチェルシーFCのアカデミー(下部組織)に所属した。
トップチームに昇格したての頃は同じポジションにマルセル・デサイーやフランク・ルバフがいたため出場機会はほとんどなかったが、ノッティンガム・フォレストFCへのレンタル移籍を経て2000-01シーズン、当時の監督だったクラウディオ・ラニエリに重用され出場機会が増加。
2003-04シーズンには衰えが隠せなくなったマルセル・デサイーに代わりディフェンスラインを統率した。
2004年にジョゼ・モウリーニョが監督に就任するとチームのキャプテンに指名される。
モウリーニョがフランク・ランパードらイングランド人と共に主将テリーに託した「率先してチームを引っ張ってほしい」という言葉通りに抜群のキャプテンシーを発揮。
守っては、そのモウリーニョと共にやって来た新加入のディフェンダー・リカルド・カルヴァーリョと共にリーグ最少失点の堅陣を築いた。
守備だけにはとどまらず攻撃の場面では得意のヘディングでゴールを量産した。
中でもUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント一回戦FCバルセロナ戦でのヘディングゴールはチームを救う一撃となった。
なお、このシーズンで自身初となるUEFAチャンピオンズリーグ最優秀ディフェンダーに選出されている。
2006年10月14日のレディング戦では、GKのペトル・チェフが試合開始早々に相手MFのスティーヴン・ハントの膝が頭に直撃し負傷退場となった上に、代わりに出場した控えGKのカルロ・クディチーニも後半ロスタイムに相手DFと接触し負傷退場となってしまった。
交代枠を使い切っていたため、テリーがわずかな時間ながら代役GKとしてゴールマウスを守ることになり、自らのポジションであったセンターバックはFWのドログバが入ることになった。
2006年末から2007年の2月にかけて、腰の手術のためにチームを離脱。
モウリーニョ監督はその間パウロ・フェレイラやマイケル・エッシェンをセンターバックに起用していたが、リヴァプールとのアウェー戦では0-2で完敗するなど守備の安定感を欠き、テリーの偉大さを証明する結果となった。
2月3日に行われたチャールトン・アスレティックとのアウェー戦で終了間際に交代でピッチに登場し、約一ヶ月ぶりの復帰を果たす。
翌週のミドルズブラ戦ではスターティングメンバーに復帰し、以前と変わらぬ安定したプレーを見せた。
2007-08シーズンのチェルシーは、プレミアリーグにおいて首位のマンチェスター・ユナイテッドと同勝ち点の84ポイントで最終節を迎えた。
優勝のために少なくとも引き分け以上が必要な最終節ボルトン戦だったが、テリーは開始10分でチームメイトのペトル・チェフと接触し左ひじを脱臼。
無念の負傷退場となった。結局、他会場のマンチェスター・ユナイテッドが勝利し、チェルシーは引き分けたため2位でプレミアリーグを終えた。
自身の脱臼は軽傷だったため、10日後の因縁のマンチェスター・ユナイテッドとのUEFAチャンピオンズリーグの決勝にはスタメンで出場。
この試合では両チーム譲らずPK戦に突入した。
マンチェスター・ユナイテッドで三番目のキッカーを務めたクリスティアーノ・ロナウドのキックをペトル・チェフが止め、決めれば優勝という状況で5番目のキッカーであったテリーに順番が回ってくる。
しかし降りしきる雨によってぬかるんだピッチに足をとられたテリーは、ボールをポストに当ててしまい失敗。
その後チェルシーで7番目のキッカーを務めたニコラ・アネルカのキックをエトヴィン・ファン・デル・サールが止め、結局マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。
テリーは涙を流し悲嘆にくれ、その後チームのホームページ内で謝罪をした。
しかし「彼が居なければ我々は決勝に勝ち進むことは出来なかっただろう」とランパードが語るように擁護の声も多かった。
それを裏付けるように、このシーズンで自身二度目となるUEFAチャンピオンズリーグ最優秀ディフェンダーに選出された。
2011-12シーズンのチャンピオンズリーグでは、準決勝でのバルセロナ戦で退場処分を受け、ファイナル出場はならなかったものの、チームは因縁のPK戦でバイエルン・ミュンヘンに勝利し、ついに悲願のチャンピオンズリーグ制覇を果たした。
2014-15シーズン、10月18日クリスタル・パレス戦では、チェルシーのキャプテンとして500試合出場を達成した。
リーグカップファイナルでは、マンオブザマッチに選ばれる活躍で、優勝に貢献した。
2016-17年シーズン、コンテ監督就任後、開幕戦から数試合はセンターバックのレギュラーを務めたが、怪我により離脱、レギュラーポジションを失い、4月17日今シーズン限りでチェルシーからの退団を発表した。
ワットホード戦では、先発出場を果たしゴールを決めた。
シーズン最終節ホームゲームのサンダーランド戦では、先発出場し背番号と同じ前半26分までプレー、スタンディングオベーションでケーヒルと交代し、チェルシーでのプレーを終えた。
2017年7月3日、イングランド2部のアストン・ヴィラFCにフリーで加入した。
背番号はチェルシー時代と同じ26番。移籍の際、イングランドの1部リーグからもオファーがあったが、テリーは「(1部リーグで)チェルシーと対戦することは精神的に乗り越えられない。」と新天地に2部リーグのチームを選んだ理由を説明した。
2018年夏に契約満了し、退団した。
2018年10月7日、自身のSNSで現役引退を表明した。
代表
代表初出場は、2003年6月のセルビア・モンテネグロとの親善試合。
EURO2004にも代表入りし、出場停止中だったリオ・ファーディナンドに代わり3試合に出場した。
2006 FIFAワールドカップではソル・キャンベルに代わりレギュラーに定着、リオ・ファーディナンドとともにイングランドの堅守を支えた。
この後、デビッド・ベッカムに代わってイングランド代表のキャプテンを務めていたが、2010年2月、不倫疑惑が浮上し、ファビオ・カペッロは、テリーを主将から解任した。
2010 FIFAワールドカップのグループリーグ第3節におけるスロベニア戦において、後半67分に、相手FWのミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチのシュートをスライディングでブロックした直後、なおもゴールに迫るズラトコ・デディッチのシュートに対し、頭部からダイブしてのブロックを試みる。
結果的に自身のブロックは失敗したもののチームの失点を免れ、この勇敢なプレーは高い評価を受けた。
2011年3月にカペッロにより再び主将に任命された。
2012年2月3日、前年10月23日の対クイーンズ・パーク・レンジャーズFC戦でアントン・ファーディナンドに対して人種差別的な発言をしたという疑惑により、FAによって主将をはく奪された。
これに対してカペッロが不満を示し、代表監督を辞任するという事態に発展した。
その後、2012年7月に行われた人種差別発言容疑の裁判では無罪となった。
2012年9月23日、代表引退を表明した。
エピソード
本人曰く、練習を欠席することはまずなく、練習もまじめにやっていたからキャプテンを任されたことがあると語っている。
敵味方関係なく臆しない一面があり、新人の頃に、不甲斐無いプレーをしたジャンフランコ・ゾラに怒鳴ったことがある。
テリーは17歳の頃、トップチームの練習に呼ばれると、必ずチームメイトを削ったという。
それがアピールの手段と思ったからだ。
だが、無名の若手に削られる選手はたまったものではない。
ダン・ペトレスクなどは、血気盛んな若者の無茶なプレーに腹を立てて蹴り返したことがあるという。
そんなとき、「若手に文句があるなら俺が相手になる」とかばってくれたのが、当時のキャプテン、デニス・ワイズだった。
テリーは若手の頃にワイズのスパイク磨きを任されていたため、彼に可愛がられたのだ。
兄貴的な性分はそうやって育んだのだろう。
もう一人、テリーが影響を受けたリーダーはマルセル・デサイーだ。
テリーは18~20歳の頃から、折に触れてチームメイトのデサイーに戦術やポジショニングの指南を仰ぐと、自分の意見もぶつけたという。
すでにフランス代表として世界王者に輝いていたデサイーは、「生意気だったが、どこか特別だった」とテリーについて振り返ったことがある。
そうやってテリーは、35歳まで代表選手として活躍したデサイーからプロの姿勢を学んだのだ。
だからこそテリーは、人一倍キャプテンに対する思いが強かった。
過去に着用してきた腕章のコレクションをSNSで披露し、「誇らしい」と書き込んだことがある。
2010年には、ウェイン・ブリッジのガールフレンドとの不倫問題で代表キャプテンの座を剥奪され、直後のリーグ戦では大ブーイングを浴びた。
しかし、ゴールを決めたあとにチェルシーの腕章を指差した。
「腕章はかけがえないものだ」と。
ピッチ外でも、テリーはリーダーシップを発揮した。
チェルシーの女子チームが予算を削られると、身銭を切って資金を提供。
チームメイトにも寄付を呼び掛けた。
女子チームだけでなく、時間を見つけてはユースチームの練習にも顔を出した。
“スター選手”として若手にアドバイスするだけではない。
一緒にチェスをして遊ぶような交友関係も築いた。
現ファーストチームの一員であるDFアンドレアス・クリステンセンは、ユース時代に家まで車で送ってもらったことがあるという。
世話好きなリーダー、それがテリーなのだ。選手時代から指導者の資質を兼ね備えていたのだ。
またテリーは現役時代プレイステーション2でしばしば遊んだという。
その熱中ぶりはチームメイトを家に招き、自身がイメージキャラクターにもなった、コナミのウイニングイレブンのパーティーを開くほど(しかもトロフィーまで作っている)。
因みにこのパーティではチームメイトだったグレン・ジョンソンとジョー・コールがそれぞれ優勝した。
テリーは、チェルシーとアストンビラでは愛されたが、それ以外のファンには好かれていない。
拒絶されていると言っても過言ではない。
前述通り、テリーは選手時代に不倫問題で代表の腕章を剥奪された。
1年後にはキャプテンに復帰したが、次はリオ・ファーディナンドの弟(アントン・ファーディナンド)への人種差別問題で二度目の剥奪を受け、それがきっかけで代表を引退した。
さらにCLやELを制した際には、決勝戦を欠場しながらも試合後にユニフォーム姿になって我が物顔でトロフィーを掲げ、他クラブのファンから酷評された。
今も、チャリティーマッチや友人の引退試合に出場するとブーイングを浴びてしまう。
現役引退から4日後の2018年10月11日、アストン・ヴィラFCのアシスタントコーチに就任。
ディーン・スミス監督の下クラブをリーグ5位に導くと、昇格プレーオフでチェルシー時代の盟友であるフランク・ランパード率いるダービー・カウンティFCを破りプレミアリーグ昇格を達成する。
シーズン終了後にはクラブとの契約を1年間延長した。
プレースタイル
フィジカルに長け、1対1と空中戦に無類の強さを見せる。
深い読みを生かしたパスカットも得意。
体格を生かしたヘディングは世界でも最高クラスである。
このためセットプレー時には得点源として期待される。
また時節、果敢な攻め上がりを見せ、チームに奮起を促すこともある。
闘争心を全面に出した気迫溢れるプレーと高いキャプテンシーを持ち、リーダーとしての資質も高い。
気迫に満ちたプレーが特徴であり、同僚のフランク・ランパードをして「男の中の男(”a man’s man”)」と称された。