概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1978年11月7日(41歳) | ||
出身地 | ロンドン・サザーク区デンマークヒル | ||
身長 | 188cm | ||
体重 | 76kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
2000年代イングランドを代表するセンターバック。
ミラクル・リーズの一員として名を馳せ、その後マンチェスター・ユナイテッドなどで活躍した。
当時、世界最高クラスのセンターバックと評された。
獲得タイトル
クラブ
ウェストハム・ユナイテッド
- UEFAインタートトカップ:1999
- マンチェスター・ユナイテッドFC
- プレミアリーグ:6回 (2002-03, 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2010-11, 2012-13)
- FAカップ:1回 (2003-04)
- フットボールリーグカップ:3回 (2005-06, 2008-09, 2009-10)
- FAコミュニティ・シールド:6回 (2003, 2007, 2008, 2010, 2011, 2013)
- UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (2007-08)
- UEFAスーパーカップ:1回 (2009)
- FIFAクラブワールドカップ:1回 (2008)
個人
- ハマー・オブ・ザ・イヤー:1回 (1997-98)
- プレミアリーグ PFA年間ベストイレブン:6回 (2001-02, 2004-05, 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2012-13)
- プレミアリーグ月間最優秀選手:1回 (2001年10月)
- ESM チーム・オブ・ザ・イヤー:1回 (2007-08)
- FIFPro World XI:1回 (2007-08)
- London Youth Games Hall of Fame:2010 inductee
- プレミアリーグ 20 シーズン アワード (1992–93 to 2011–12)
- Fantasy Teams of the 20 Seasons (Panel choice)
経歴
クラブ
1995年に17歳でウェストハム・ユナイテッド とプロ契約を結んだ。
プレミアリーグ1995-96シーズン、5月5日のシェフィールド・ウェンズデイ戦で控えとして試合に初登録を果たし、1996-97シーズンの1月に初先発で出場すると以後レギュラーを獲得。
期待の新鋭として注目を集めた。
2000年11月25日にリーズ・ユナイテッドに移籍金1,800万ポンド、当時の日本円にして約28億4,400万円で移籍した。
躍進したミラクル・リーズの一員としてリーズでは大黒柱として大活躍していたが多大な負債を抱えていたリーズは主力を放出しなければならなくなり、日韓W杯期間中の7月22日に以前から取り沙汰されていたマンチェスター・ユナイテッドFCへの移籍が決まる。
同年の5月頃に移籍金は2,910万ポンド、当時の日本円にして約55億円と報道されたが、最終的には7月12日に3,000万ポンド、64億2,500万円と積み上がり合意に至った。
2004年、ドーピング検査に出頭しなかった件で8ヶ月の重い出場停止処分を受けた。
出場停止期間が明けてチームに復帰すると、再び不動のディフェンスリーダーとして活躍する。
2007-08シーズンの欧州CLではマンチェスター・Uの優勝に大きく貢献した。
2007-08シーズンの二冠を含む数々のタイトル制覇に大きく貢献している。
背中、腰、ふぐらはぎと相次ぐ怪我に悩まされている時期があった。
怪我が響き、2009-10シーズンの前半戦は公式戦6試合の出場に留まり本来のパフォーマンスが取り戻せずにいた。
そのため、タブロイド紙等を中心に「クラブ側は放出要員として考えており、本人も移籍を検討。獲得を目指しているのはレアル・マドリードらしい」等の根拠のない報道や噂がたびたび流された。
しかしファーディナンドは、マンUのオフィシャルマガジン『インサイド・ユナイテッド』の独占インタビューで、「このチームで現役を終えたい。マンチェスター・ユナイテッドでキャリアを終えることはオレの夢だ。クラブの黄金期を築いた選手として、ファンの記憶に残りたい」と断言している。
2014年5月13日に2013-14シーズン限りでのマンチェスター・ユナイテッド退団を発表。
7月17日にクイーンズ・パーク・レンジャーズFCに加入した。
しかしチームは降格し、リオ本人も契約を延長することなく2014-15シーズンでの退団が決定。
2015年5月30日、現役引退を発表した。
代表
プロ契約時にU-17イングランド代表にも選出される。
1997年11月15日にはA代表デビューも果たす。
2002年には日韓W杯に出場。
2004年EURO、2006年ドイツ・ワールドカップにも出場。
2010年2月に代表主将であるジョン・テリーの不祥事(不倫疑惑)が発覚したため、テリーに代わって副将から主将に昇格。
同年5月には2010 FIFAワールドカップイングランド代表に選出され主将に任命されたものの、大会直前の6月4日の練習で左膝の靭帯を損傷し離脱した。
2013年5月15日に代表引退を表明した。
エピソード
ロンドンの南東部に位置するキャンバーウェルでスペイン系サンルキア人(カリブ海セントルシア人)のテーラーの父とアイルランド人保育士の母の間に生まれる。
その後、移民が多く住むペッカムに移り、そこで少年時代の大半を過ごす。
大家族であり、ファーディナンドの両親は共働きで家族を支えていた。
両親は結婚しておらず、ファーディナンドが14歳の時に別れてしまった。
しかし、父は母と別れた後も近くに住んでおり、子供たちを連れて公園でサッカーのトレーニングをしてくれたという。
幼稚園では騒がしい子供で、当時はディエゴ・マラドーナとマイク・タイソンがヒーローであった。
ファーディナンド自身は両親にまっすぐ教育された幸せな子供であったけれども、出生地のペッカムはロンドンでも特に荒んだ、貧しい人々が住む地域として知られ、贅沢をせずに生きる事を学んだという。
また暴力事件が頻繁に起きる地域であり、両親に近所のその様な人間とは絶対に関わってはいけないと教えられたという。
小学校では算数が得意で、 演劇も大好きであった。
学校劇の「ダウンタウン物語」に出演している。
子役俳優として舞台に出演したという経験があり、現在でも演技に強い興味を持つ。
同じくプロサッカー選手のアントン・ファーディナンドは実弟、元イングランド代表FWであったレス・ファーディナンドは従兄弟にあたる。
本人は少年時代アンチ・マンユナイテッドで、マンUなんて大嫌いだと公言していた。
だがリーズ・ユナイテッドからマンチェスター・ユナイテッドに移籍して以降、あの発言は間違いだったと改めている。ちなみに嫌いだった理由は強すぎたからとしている。
逆に発言を否定した理由はマンUの素晴らしさを知らなさすぎたから、と釈明した。
移籍後初の古巣との対戦では「リオって誰だ?」というフラッグがリーズ・ユナイテッドファンから掲げられ、試合後の握手ではハリー・キューウェルがファーディナンドとの握手を拒否した。
現役引退後は、イギリスの衛星放送局「BT Sport」の解説者に転身。
2017年9月にはブックメーカー運営企業「パディ・パワー・ベットフェア」の支援で第8代WBC世界スーパーミドル級王者リッチー・ウッドホールの指導の下、38歳でプロボクサーを目指すことを発表した。
しかし英国ボクシング管理委員会から年齢を理由にプロライセンス申請を却下されたため、計画は頓挫した。
妻との間に3児を設けていたが2015年5月1日、妻が乳癌のため34歳で死去した。
妻の死去した後の苦悩する生活ぶりが、テレビドキュメンタリー「Rio Ferdinand: Being Mum and Dad」としてBBCで放送され、2018年の英国アカデミー(BAFTA)ベストドキュメンタリー賞を受賞。
日本でも2020年、NHK BS世界のドキュメンタリーにて 「愛する妻をなくしたとき リオ・ファーディナンド」として放送された。
プレースタイル
世界最高クラスのCB。
高い身体能力と危機察知能力が優れている鉄壁DF。
空中戦、ボディコンタクトも強く、DFとしての資質を全て兼ね備えている。
1対1、空中戦、カバーリングなどディフェンス時のあらゆる状況で圧倒的な強さを見せ、驚異的な状況判断能力で常に最善のディフェンスを選択し相手チームの攻撃を凌ぎきる。
抜群のキャプテンシーでDFラインを完全に統率し、GKやCBのペアとの連携を密にする事でチームのディフェンスの質を格段に引き上げている。
屈強な体格ながらスピードが速く、ポジショニングの良さもあいまって守備範囲が非常に広い。
元々FWの選手だったため足元の技術が高く、ボールを奪いにきた相手を巧みにかわし、高精度なフィードで攻撃を組み立てる事もできる。
ヘディングの技術も高いためセットプレーでは相手チームにとって大きな脅威となる。