概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1973年3月13日(47歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 168cm | ||
体重 | 68kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、ディフェンシブハーフ)。
利き足は左。
愛称は「闘犬」。
1990年代後半から2000年代前半にかけて活躍したオランダ代表のミッドフィールダー。
アヤックス、ユヴェントス、バルセロナなどで活躍した。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で81位に選出された。
獲得タイトル
クラブ
アヤックス
- Eredivisie: 1993–94, 1994–95, 1995–96
- KNVB Cup: 1992–93, 2006–07
- Johan Cruyff Shield: 1995
- UEFA Champions League: 1994–95
- UEFA Cup: 1991–92
- UEFA Super Cup: 1995
- Intercontinental Cup: 1995
ユヴェントス
- Serie A: 1997–98, 2001–02, 2002–03
- Supercoppa Italiana: 2002, 2003
インテル・ミラノ
- Coppa Italia: 2004–05
代表
オランダ代表
- FIFA World Cup fourth place: 1998
個人
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 2000
- FIFA World Cup All-Star Team: 1998
- FIFA 100
経歴
クラブ
アムステルダムにあるアヤックスの下部組織、アヤックス・アカデミーを経た後、1991-92シーズンデビュー。
1994-95シーズンにはパトリック・クライファート、ヤリ・リトマネン等と共に20歳の若さで、ACミランを下しUEFAチャンピオンズリーグを制覇する。
その後トヨタカップにも訪日、グレミオをPK戦の末下して優勝した。
翌年のUEFAチャンピオンズリーグも決勝まで勝ち進んだが、ユヴェントスに敗れた。
その活躍が認められ1996年にはイタリア、セリエAのビッグクラブ、ACミランに移籍。
入団1年目は15試合に出場。
2年目は開幕直後にペルージャ戦でGKと交錯して骨折した。
その後、1997年にミラン首脳陣との確執を理由に、シーズン半ばに同セリエAのユヴェントスに移籍した。
1997-98シーズン途中加入ながらスクデット(当時25回目)に多大な貢献をしてチームメイトの皆が信頼を寄せた。
このユヴェントスで選手としての全盛期を過ごす。
ジネディーヌ・ジダンやアレッサンドロ・デルピエロなどの後方でプレーし、攻守に渡りチームを支えた。
2000年には薬物使用(筋肉増強剤ナンドロロン)に引っかかり出場停止となってしまう。
本人は「緑内障の治療薬に含まれる成分が原因」とコメントしているがオランダ代表だったフランク・デ・ブールも同時期に同様の薬を服用したとして出場停止処分を受けている。
ユヴェントスとの契約は2001年までの予定であった。
しかしながら、2004年6月まで延長となる。
この契約更新後、両者の関係は悪化していく。
CLでのアーセナル戦において、当時監督のマルチェロ・リッピが彼を休養させる為、クロアチア代表でもあるイゴール・トゥドールを起用すると、この起用策に怒りを露わにした彼は生中継中のカメラに「ゲームに出さないなら、チームを俺は離れるだけだ!!」とぶちまけた。
これにユヴェントス首脳陣はダービッツに多額の罰金を科し、関係はますます悪化した。
2002年、ダービッツはローマにもラブコールを送っているなどともささやかれた。
ローマは高く彼を評価し、一時は移籍も話に出たがモッジGMはそうはさせず白紙となる。
2003-04シーズンはブレシアから、若手のガーナ人、ステファン・アッピアーの入団によりポジションを奪われ、プレーするのは重要度の低い試合ばかりとなる。
プレミアシップの強豪、チェルシーの大物会長ロマン・アブラモビッチからの多額のオファーもあったが、彼は首を縦に振らなかった。
一方、当時の代表監督ディック・アドフォカートはアヤックス時代エドガーが共にプレーしたこともある、元FCバルセロナの監督のフランク・ライカールトにレンタルという名案を提案する。
これを首脳陣も快く納得しスペイン、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへと新天地も求めた。
こうして2004年1月11日に正式に移籍が発表される。
これでダービッツはEUROまでの十分な環境を手に入れた。
これは両チームにおいても効果的であったことは間違いない。
1月17日、アスレティック・ビルバオ戦(結果1-1)にデビュー。
ダービッツの加入によってバルセロナの中盤の守備がしっかり安定し、不振に苦しむチームをリーグ2位に押し上げる最大の原動力となった。
その後2004年7月、シーズン終了後に大量補強をにらんだイタリア、セリエAのインテルへ完全移籍、その戦場を移す事となる。
しかし、序盤戦はスタメン出場をしたものの、徐々に戦術の関係で出場機会は少なくなり、同ポジションの豊富な選手層もそれに追い討ちをかけた。
次第にマンチーニ監督との関係も悪化し、インテルを退団。
2005年にイングランドのトットナムに移籍した。
入団一年目はトットナムの好成績を後押しする形での貢献をしたが、2年目になると、コートジボワール代表で“パスマイスター”の異名を持つディディエ・ゾコラの入団、台頭もあって出場機会が減少。
そのこともあってか、出場機会を求め、2007年1月に古巣アヤックスへ11年ぶりに復帰した。
2007-08シーズン開幕前のプレーシーズンマッチゴー・アヘッド・イーグルス戦にプロテクターを付けずに出場、案の定左足脛骨を骨折し長期の離脱を余儀なくされた。
2008年6月にアヤックスからリリースされ、約2年間のブランクを経て2010年8月にイングランド、フットボールリーグ・チャンピオンシップのクリスタル・パレスへ移籍するも、同年11月に退団した。
2012年10月、フットボールリーグ2のバーネットFCに選手兼任監督として加入すると発表された。
2013年12月28日に行われたソールズベリー・シティFC戦で2枚目のイエローカードを受けて退場処分、試合後審判への不満から現役引退を表明した。
代表
オランダ代表としては1994年4月20日に行われたアイルランド代表との国際親善試合でデビュー。
1998年のフランスワールドカップでは6試合に出場、決勝トーナメント1回戦ユーゴスラビア代表戦では試合終了間際にミドルシュートを叩き込み勝利に貢献した。
EURO2000にもフランク・ライカールト監督に率いられて全試合に出場しベスト4進出に貢献した。
しかし、ルイス・ファン・ハール監督に率いられた2002年W杯欧州予選ではチームの低迷(ファン・ニステルローイの離脱等)からその姿を日本、韓国に現すことは出来なかった。
2004年EURO2004 ポルトガル大会では、準決勝ポルトガル戦まで駒を進めた。
その後、代表監督ディック・アドフォカートが退任しマルコ・ファン・バステンが代表監督に就任。
彼はエドガーを代表キャプテンに指名したが、インテルでの出場機会の激減により、2005年10月12日に行われた2006 FIFAワールドカップ・予選のマケドニア代表戦を最後に代表から遠ざかった。
また、2006年ワールドカップでは、代表候補まで選ばれたが、最後に落選して出場することはなかった。
エピソード
2000年、左目に緑内障を発症し失明の危険もあったが、手術により克服し特殊防護ゴーグルを着用することとなった。
そのゴーグルは彼のトレードマークとなっている。
ダービッツと言えば、ゴーグルです。
薬物検査に引っかかった時は、「緑内障の薬に含まれる成分が原因」だったそうです。
が、しっかり出場停止処分になっております。
ダービッツの気性が荒いのはピッチ上だけではなく、オランダ代表内部でダービッツらスリナム系と白人系で人種差別問題の内紛が起きた際には、その先鋒に立ち、大会中にもかかわらず代表チームから離脱。
勝手に帰国してしまったこともあった。
ヒディング監督を批判したこともあるとか。
他にもACミラン時代に、ストリートファイトをしたあげく相手をメリケンを装着した拳で殴りつけ裁判沙汰になったことも。
ユベントスでは当時の監督の起用法に怒り生中継中のカメラに向かって不満をぶちまけ、多額の罰金が科せられています。
中田英寿はペルージャで一年目開幕戦の相手は王者ユベントス。
その強豪を相手に中田英寿は2ゴールを決めデビュー。
そこから一気にチームのトップ選手となって1年目で10得点を記録し年間最優秀外国人選手に選出されました。
そんな中田英寿に闘犬ダービッツは「おまえ、本当に日本人なのか?」と聞いたそうです。
開幕戦で同じくユベントスに在籍していたダービッツが、試合後に言っていたとされる言葉なのですが、実際に試合後、すぐに中田のところに駆け寄っていくダービッツがTV中継されていました。
その後、二人はユニフォームを交換したそうです。
そんなダービッツ選手ですが、実はかなりのサムライマニア。
自宅に作った和室に日本の甲冑を置いているそうです。
サムライアートをほどこしたジャケットを着ていることも。
プレースタイル
いわゆる、ファイタータイプの選手です。
優れた身体能力とファイティングスピリットを併せ持ち、無尽蔵のスタミナでピッチ狭しと動き回る姿は、まさに闘犬と呼ぶにふさわしい選手でした。
守備では対人プレーに強く相手のボールを絡め取り、カウンターでは前線まで走り込んで得点にも絡んできます。
利き足である左足から放たれる強烈なミドルシュートや、機を見て仕掛けるドリブル強行突破も彼の武器でした。
168cmと小柄だが、ラグビー選手のようなガッシリとした体格。
フィジカルコンタクトの強さ、スピード、運動量は抜群、テクニックもしっかりしていたがテクニシャンというタイプではない。
華麗なパスワークのアヤックスやオランダの選手たちの中では、むしろ珍しいタイプであるファイターです。
小柄ながら運動量が非常に豊富で、とにかく足が早くプレッシングサッカーには非常に適した、徹底した中盤の潰し屋でした。
抜群のスピードとフィジカルコンタクトでボールを追いかけ奪い取る闘犬です。
一番、驚くのはその無尽蔵のスタミナである。
90分間ピッチを走り回れるほどの運動量でした。
その圧倒的なスタミナで広範囲のエリアをカバーしていました。
闘犬のように喰らいつき相手からボールを奪うのが彼の仕事でした。