概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1976年4月1日(44歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 176cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は右(利き手は左)。
愛称は「プレジテンテ(大統領)」、「プロフェッサー」。
1990年代後半から2000年代前半にかけて活躍したオランダを代表するミッドフィールダー。
アヤックス、レアル・マドリード、ミランと異なる3クラブでUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験した史上唯一の選手。
またこれら3チームで3つのリーグを制覇した。
獲得タイトル
クラブ
Ajax
- Eredivisie: 1993–94, 1994–95
- KNVB Cup: 1992–93
- Johan Cruijff Shield: 1993
- UEFA Champions League: 1994–95
Real Madrid
- La Liga: 1996–97
- Supercopa de España: 1997
- UEFA Champions League: 1997–98
- Intercontinental Cup: 1998
Milan
- Serie A: 2003–04, 2010–11
- Coppa Italia: 2002–03
- Supercoppa Italiana: 2004, 2011
- UEFA Champions League: 2002–03, 2006–07
- UEFA Super Cup: 2003, 2007
- FIFA Club World Cup: 2007
Botafogo
- Taça Guanabara: 2013
- Campeonato Carioca: 2013
個人
- Dutch Football Talent of the Year: 1993, 1994
- ESM Team of the Year: 1996–97
- UEFA Team of the Year: 2002, 2007
- UEFA Best Midfielder Award: 2006–07
- FIFA Club World Cup Silver Ball: 2007
- FIFPro World XI Nominee: 2007
- Real Madrid Team of the Century: 2008
- Bola de Prata: 2013
- Knight of the Order of Orange-Nassau
- Commander of the Honorary Order of the Yellow Star
- Nelson Mandela Legacy Champion
- FIFA 100
- A.C. Milan Hall of Fame
- Golden Foot Award Legends: 2018
経歴
クラブ
1992年11月29日(1992-93シーズン)、エールディヴィジ、FCフローニンゲン戦でプロデビュー。
この時、わずか16歳と242日だった。
ファン・デル・サール、ライツィハー、ブリント、ライカールト、ロナルド・デ・ブールとフランク・デ・ブールの兄弟、ダービッツ、リトマネン、クライファート、フィニディ・ジョージ、オフェルマルスなどアヤックス黄金時代の錚々たる顔ぶれがいた。
このプロ最初のシーズンで、オランダ・カップを制覇する。
1994-95シーズンにレギュラーポジションを掴み、1995年5月24日、19歳にして1度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇。
相手は、後に所属することとなるACミランだった。
この試合でも先発出場を果たし、後半9分にヌワンコ・カヌと交代している。
1995年夏に、イタリア・セリエAのサンプドリアへ移籍。
移籍初年度(1995-96シーズン)、19歳ながら32試合に出場し3得点をあげている。
潜在能力の高さを証明しつつも、ホームシック、チーム低迷などの理由から本来の力を発揮出来ないまま、1シーズンで移籍することとなる。
1996-97シーズンからは、レアル・マドリードでプレー。
リーグ戦全38試合に出場、6得点を記録しリーグ優勝に貢献。
1997-98シーズン、21歳で2度目のチャンピオンズリーグ制覇。
トヨタカップも制した。
その後もチームの中心として活躍するが、1999-2000シーズン、冬の移籍期間にて、チームメイトとの確執、チームの財政悪化などの理由からインテルへと移籍する(推定移籍金: 2300万ユーロ)。
インテル移籍後は、徐々に輝きを失っていく。
控えの選手として苦しい時期を過ごし、代表でのポジションも絶対的なものではなくなってしまう。
2001-02シーズン、後半戦に出場機会を得ると、目覚しい戦果を上げ復活をアピールした。
2002-03シーズン、フランチェスコ・ココとのトレードでライバルチームのACミランへ加入。
このシーズン、自身3度目のチャンピオンズリーグ制覇(史上初の異なる3つのクラブでのチャンピオンズリーグ制覇)。
2006-07シーズン、4度目のチャンピオンズリーグ制覇。
この大会では、後にバロンドールを受賞することになるカカの活躍が取り上げられたが、セードルフ自身も随所に高いパフォーマンスを披露している。
準々決勝でのバイエルン・ミュンヘン戦では、相手ディフェンダーの股を抜いてのゴールと、フィリッポ・インザーギへ絶妙なヒールパスでアシスト。
準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でも、アレッサンドロ・ネスタのロングパスを頭で落とし、カカのゴールをアシスト。
自身もネマニャ・ヴィディッチのプレスをものともせず、エドウィン・ファン・デル・サールの守るゴールにシュートを決め、優勝に貢献。
UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーとUEFAクラブ最優秀MFを受賞。
2007-08シーズン、2007年12月にFIFAクラブワールドカップで出場。
浦和戦では、カカのラストパスから決勝ゴールを決めた。
また同月、チャンピオンズリーグにおいて通算100試合出場を達成。
2008-09シーズンでは、怪我でアンドレア・ピルロが離脱したときにはレジスタとして中盤の底でプレーし、代役を務めるなど高いユーティリティ性を示した。
2010-11シーズン、序盤、自らのミスから失点の足がかりとなったり、不用意なパスミスなどで、ポジションを一時ケヴィン=プリンス・ボアテングに奪われるなど限界がささやかれた。
しかし、終盤になるにつれパフォーマンスが向上。
ミラノダービーでの圧巻のプレー、サンプドリア戦では、無回転のフリーキックを直接決めるなど、結果的にミラン7シーズンぶりとなるスクデット獲得に貢献。
ミランにおいても、加入してからほぼ常にレギュラーポジションをつかみ、公式戦400試合以上に出場した。
これはミランにおける、外国人選手の最多出場記録である。
2012年6月、ACミラン退団を発表。
2012年7月、夫人の母国であるブラジルのボタフォゴFRに移籍決定。
契約は2年間。
代表
1994年12月14日、ルクセンブルク戦で代表デビュー。
しかし、チームの内紛など問題の多いオランダ代表にあって本来の力を発揮する事が出来ず、1996年の欧州選手権では、自らのPK失敗によりチームも敗退。
1998年のFIFAワールドカップでは、4位という好成績に貢献しながらも大きなインパクトを残す事は出来なかった。
2002年のワールドカップでは、欧州予選敗退。
2006年のワールドカップでは、本大会出場に貢献したが、本大会のメンバーから外れた。
代表でプレーする際にはエゴイスティックなプレーが多く、マルコ・ファン・バステン元オランダ代表監督に失格の烙印を押された。
しかし2006年11月15日のイングランドとの親善試合で久しぶりに代表に招集され、試合では背番号”10″を着けて先発出場。
好調なプレーとキャプテンシーを見せ、再びファン・バステンの信頼を得た。
エピソード
弟のセドリック・セードルフは元サッカー選手、従兄弟のステファノ・セードルフもサッカー選手で、アヤックスやFCフローニンゲンに所属していた。
ミラノで人気日本食レストラン(Finger’s)を経営している。
髪型が以前はドレッドロックスだったが、2004年頃にスキンヘッドにする。
トヨタカップでPKを蹴りたがらない選手がいたと発言し、ミランの選手たちを怒らせたことへの反省の表れでもあった。
異なる3つのクラブ(アヤックス・アムステルダム、レアル・マドリード、ACミラン)でのUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げたのは歴代でセードルフただ一人である。
複数の国でプレーしてきたため、語学力に長けている。
母国語のオランダ語の他、英語、イタリア語やスペイン語、更にはポルトガル語も自由に操ることができるマルチリンガルである。
妻はブラジル人であり、オフシーズンにはブラジルで過ごす。
長年lotto社と契約していたが、2007-2008シーズンのオフからadidas社のスパイクを履いていた。
2003年から2007年まで、副業として元ブラジル代表のロベルト・カルロスと共にバイクチームを運営していた。
スリナムで生まれたセードルフは、スリナムの子どもたちへの支援・基金活動に積極的に取り組んでいることで知られ、私財を投じて学校や病院、スポーツ施設などを建設している。
自身4度目のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた時にもスリナムを訪問し、そのビッグイヤーを披露するとともに、チャリティー活動を行った。
また「フットボーラーは模範になるべき」とも語っている。
かつては、特に代表チームにおいて自身の望み通りのポジション・背番号を強く要求し、叶わなければ試合を欠場すると公然と言い放つなど、エゴの強さで知られていたが、こういった言動は加齢と共に落ち着いた。
オランダ代表、レアル・マドリード、インテル、ACミラン、ボタフォゴで背番号10をつけた。
2005年に自宅に強盗が入り、10万ユーロの被害を受けたが、幸いにも本人、家族ともに無事だった。
2006年にACミランでマヌエル・ルイ・コスタがチームを離れることになり、その背番号10番を自ら志願して受け継いだ。
ファンの一部からは10番様と呼ばれることもあった。
アメリカ『ニューヨーク・タイムズ』にコラムを掲載している。
「セードルフが答える」と題されたコラムで、おなじみの背番号10と同じ数の毎月10個の質問に答えている。
その内容は、サッカー界だけにとどまるものではない。
プレースタイル
頑丈な肉体に加え、ドリブル、パスにも秀でており、長く10番を背負った。
優れたテクニックと素晴らしい体力、暖急 ・長短織り交ぜた正確なパス、ミドル・ロングシュートに強靭なフィジカル、高い守備 能力を持つ、総合力の非常に高いプレーヤー。
どの戦術にも適応出来る頭脳も併せ持つ。20歳になった辺りにおいて、精神面に若干の若さは感じさせたものの、卓越した戦術眼、完成されたフィジカルは、つねに20歳の選手とは思えないほど優れていた。
中でも、テクニックに関して、ジネディーヌ・ジダンをも凌ぐと評価されている。
創造性溢れたインスピレーションをピッチ上で表現出来る素晴らしいプレーヤーであり、暖急・長短織り交ぜた正確なパステクニックは世界最高クラス。
どの戦術にも適応出来る頭脳を持ち、戦術眼、スタミナ、ディフェンス能力とも合わせ持ったオランダ代表超技巧派MF。
スキルフルな選手が揃うオランダ代表の中でも、特別に優れたスキルを持った天才プレーヤー。
ボールの扱いが非常に巧く、どの世界トップレベルの選手と比べても全く遜色ない。
ボール扱いの巧さは特筆もので、ミスらしいミスやボールを簡単に奪われるなどといったシーンをほどんど見せない希有な選手。
ボールキープ力に優れており、ボールを奪われることが少ない。
彼のボールキープでタメを作り味方は攻撃をスムーズに行えた。
また中盤でのボール奪取力も魅力。