概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1949年9月23日 | ||
出身地 | ![]() |
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没年月日 | 2018年2月27日(68歳没) | ||
身長 | 175cm |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
その素晴らしいゴールスコアの成績ゆえに「ブルッホ(魔法使い)」と呼ばれた。
リーガ・エスパニョーラ通算219得点は歴代6位である。
プリメーラ・ディビシオン(1部)でのピチーチ賞受賞5回は、テルモ・サラの6回に次いで2位タイである。
同じく5回獲得した選手に、リオネル・メッシ、ウーゴ・サンチェスとアルフレッド・ディ・ステファノがいる。
セグンダ・ディビシオン(2部)での2回の得点王を合わせ、合計で7回得点王を獲得した。
獲得タイトル
クラブ
- FCバルセロナ
- コパ・デル・レイ (2) : 1981-80, 1982-83
- UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1981-82
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (1) : 1982-83
- コパ・デ・ラ・リーガ (1) : 1982-83
個人
- プリメーラ・ディビシオン ピチーチ賞 (5) : 1973-74, 1975-76, 1979-80, 1980-81, 1981-82
- セグンダ・ディビシオン ピチーチ賞 (2) :1969-70, 1976-77
- ドン・バロン・アワード 最優秀スペイン人選手賞 (1) : 1978-79
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 (得点) | |
1968-1980 1980-1984 1984-1987 |
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380 (215) 100 (54) 61 (17) |
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代表歴 | |||
1968 1971 1969-1972 1970-1982 |
U-18スペイン U-21スペイン スペイン・アマチュア ![]() |
2 (0) 1 (0) 9 (11) 35 (8) |
クラブ
アストゥリアス州オビエドに生まれ、1968年にアマチュアクラブのエンシデーサから隣町ヒホンにあるスポルティング・ヒホンに移った。
同年にトップチームデビューし、1969-70シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)で24得点を挙げて得点王に輝いた。
そのシーズン終了後にプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を決めると、1970-71シーズンは初のプリメーラ・ディビシオン挑戦ながら30試合に出場して13得点を挙げた。
その後の9シーズンでリーグ戦一桁得点に終わったシーズンは1度しかなく、プリメーラ・ディビシオンで3度、セグンダ・ディビシオンで1度のリーグ得点王(ピチーチ賞)に輝いた。
1973-74シーズンにはプリメーラ・ディビシオンで初の得点王を獲得したが、皮肉にもプリメーラ・ディビシオンで2度目の得点王を獲得した1975-76シーズンにセグンダ・ディビシオン降格となった。
1976-77シーズンにはセグンダ・ディビシオンで2度目となる得点王に輝き、1979-80シーズンにはプリメーラ・ディビシオンで3度目の得点王に輝いた。
1980年夏、スポルティング・ヒホンのセグンダ・ディビシオン降格以来興味を示されていたFCバルセロナに移籍した。
1981年3月1日、エルクレスCF戦(6-0)で2得点を決めた試合後、2人組の男に銃を突きつけられて小型トラックに乗せられ、誘拐された。
事件は様々な展開を見せたが、スペイン警察とスイス警察の協力により、3月25日に無事に救出された。
この期間内にFCバルセロナは4戦して1分しかできず、結局はタイトルレースから脱落することになった。
このような事件があったにもかかわらず、1980-81シーズンと1981-82シーズンだけでリーグ戦合計47得点を挙げ、ふたつのクラブをまたがって3シーズン連続となるリーグ得点王の栄誉に輝いた。
移籍初年度のコパ・デル・レイ決勝(3-1)では古巣スポルティング・ヒホン相手に2得点して優勝し、1981-82シーズンのUEFAカップウィナーズカップ決勝(2-1)ではベルギーのスタンダール・リエージュ相手にカンプ・ノウで逆転勝利を収めた。
ホームでのCDカステリョン戦でクラブの通算3000得点目を決めたが、1982-83シーズンと1983-84シーズンは出場機会が減少し、35歳だった1984年に現役引退を表明した。
FCバルセロナは引退記念試合を開催したが、彼は現役引退の考えを改めて古巣スポルティング・ヒホンと契約し、FCバルセロナでの晩年よりは比較的多くの試合に出場した。
1987年6月14日、FCバルセロナ戦が現役最後の試合となった。プリメーラ・ディビシオンでは448試合に出場して219得点を挙げた。
代表
1970年10月28日、サラゴサで行われたギリシャとの親善試合(2-1)でスペイン代表デビューし、初得点も決めた。
1974年11月20日のUEFA欧州選手権1976予選・スコットランド戦では2得点を挙げたが、UEFA欧州選手権1976本大会に出場するメンバーからは外れた。
1978年3月から4月にかけて、ノルウェーとメキシコとの親善試合で立て続けに得点し、1978 FIFAワールドカップ本大会に出場するメンバーにも選ばれたが、本大会では得点することなく1次リーグ3位でアルゼンチンを去った。
1980年にはUEFA欧州選手権1980に出場し、ベルギー戦(1-2)で1得点を挙げたが、彼が主要国際大会で挙げた得点はこの1得点のみである。
1982年には母国開催の1982 FIFAワールドカップに出場したが、2次リーグで敗退した。
スペイン代表としては通算35試合に出場して8得点を挙げた。
エピソード
5度の得点王は、アルフレド・ディ・ステファノ、ウーゴ・サンチェスと並ぶ歴代2位の大記録(1位はテルモ・サラの6回)であり、現時点でリオネル・メッシ(4回)やクリスチアーノ・ロナウド(3回)の上を行っている。
彼のキャリアを語る上で欠かせないエピソードが、81年3月1日に起きた誘拐監禁事件である。
当時、バルサに在籍していた彼は、リーガのエルクレス戦で2ゴールを挙げた後、夫人を迎えに行った空港で2人組に銃を突きつけられて拉致され、25日間にわたって監禁されることとなった。
当初、犯人側が「カタルーニャのチームがリーガを制することは許さない」との声明を出したことで政治的誘拐だと思われたが、後に3億5千万ペセタ(3億円前後)の身代金がバルサに対して要求される(犯人逮捕後、金銭目的の誘拐だったことが判明している)。
このニュースはスペイン全土に広がり、大きな衝撃を人々に与えたが、それはバルサも同様だった。
このシーズン、バルサはキニや新加入ベルント・シュスターらの活躍で、73-74シーズン以来の優勝も十分に可能な位置につけていたが、事件発覚後、クラブは「身代金を支払う準備はできている。そしてキニの解放を条件に、我々は優勝を放棄する。これは全選手も同意している」と声明を発表した。
実際、事件が起きてからの4試合でバルサが挙げた勝点はわずか1。
選手はプレーすることも嫌がったが、クラブの説得でピッチに立ち、形式的に試合を“こなした”。
最終的にバルサは5位でシーズンを終えるが、優勝したレアル・ソシエダとの勝点差は4だった。
事件は3月25日、スイスで犯人のひとりが逮捕されたことで急展開を見せ、翌日にサラゴサの自動車修理工場でキニは無事に保護された。
心身に大きなダメージを負ったはずのキニだったが、驚くべきことに彼はすぐに戦列に復帰し、出場4試合で2ゴールをマークし、前述の通りこのシーズンでも得点王を獲得。さらにコパ・デル・レイ決勝では古巣ヒホン相手に決勝点を含む2ゴールを挙げ、チームにタイトルをもたらした。
現役引退後はスポルティング・ヒホンのフロントに入った。
2018年2月27日、帰宅途中の車内で心筋梗塞を起こし、救命措置が行われたものの搬送中に容態が悪化、死去した。
68歳没。
プレースタイル
スピード豊かで、神出鬼没、両足と頭でゴールを決められるストライカーであり、当時最高のゴールスコアラーの1人だった。
シュート力もあり特に両足から放たれるシュートは確実にゴールの枠内に吸い込まれる。
驚異的なシュート精度を誇る高い生粋のストライカー。