概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1968年3月23日(52歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 187cm | ||
体重 | 84kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)、ミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「 元帥」、「機関車」。
長きにわたってスペイン代表やレアル・マドリードの守備の要として活躍した。
ディフェンダーながらスペイン代表での通算得点数はラウールに抜かれるまで歴代1位だったほか、1991-92シーズンはリーグ21得点を挙げてマノロに次ぐ得点ランク2位となった。
また、スペイン代表やレアル・マドリードのキャプテンとして優れたリーダーシップが評価されていた。
獲得タイトル
クラブ
レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ : 1988-89, 1989-90, 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03
- コパ・デル・レイ : 1992-93
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1989-90, 1990-91, 1997-98, 2001-02
- UEFAチャンピオンズカップ : 1997-98, 1999-00, 2001-02
- UEFAスーパーカップ : 2002-03
- トヨタ・ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ : 1998, 2002
アル・ラーヤン
- アミールカップ : 2003-04
個人
- FIFAベストイレブン : 1996, 1997, 1998
- UEFA年間最優秀DF : 1997-98
- ESMベストイレブン : 1996-97, 1997-98
- FIFAワールドカップオールスターチーム : 2002
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1987–1989 | ![]() |
58 | (3) |
1989–2003 | ![]() |
439 | (102) |
2003–2004 | ![]() |
19 | (3) |
2004–2005 | ![]() |
29 | (1) |
通算 | 545 | (109) | |
代表歴 | |||
1989–2002 | ![]() |
89 | (29) |
クラブ
1968年3月23日、マラガ県のベレス=マラガに生まれた。
地元クラブのベレスでサッカーのキャリアをスタートし、1987-88シーズンにレアル・バリャドリードへ移籍して、1987年10月4日エスパニョール戦にてプリメーラ・ディビシオンにデビューした。
1989-90シーズンにレアル・マドリードへ移籍。
マヌエル・サンチスとのコンビで堅守を支えた。
DFやボランチとして、5度のリーグ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ、2度のインターコンチネンタルカップなど数々のタイトル獲得に貢献した。
1997年から始まったUEFAクラブ・フットボール・アワードでは、初代の最優秀DFに選ばれた。
1991-92年シーズンには12月1日エスパニョール戦でハットトリック、4月19日のエスパニョール戦では4ゴールを決めるなど、自己最多の21ゴールを決めた。
マヌエル・サンチスが引退した2001年からはクラブでもキャプテンに就任し、強力なメンタリティでクラブの銀河系政策により集められた移籍組とチームの古株組をまとめあげ、チームの精神的支柱となった。
更に、展開力に優れていたイエロは、DFラインから豪華なタレントを擁する前線にボールを供給する攻撃の起点の役割を果たした。
また、非常に攻撃的なロベルト・カルロスの攻撃参加をフォローするためのDFライン形成やラインコントロールを担い、更に的確なポジショニングから強靭なフィジカルを活かしたマークで、クロード・マケレレ、イバン・エルゲラらと共に攻撃偏重のチームの守備を支えた。
2002年3月のレアル・サラゴサ戦においてはハットトリックを達成した。
しかし守備陣への低待遇への不満からクラブ側と衝突を繰り返した事や年齢的な衰えから、2002-03シーズン終了後には契約更新のオファーはなかった(同じく守備要員であったマケレレも程なくして移籍している)。
そのため、シーズン終了後、契約満了に伴いカタールのアル・ラーヤンSCへ移籍した。
2004-05シーズンにはイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズFCへ移籍し、再びプレーの場をヨーロッパへと移した。
そしてシーズン終了をもって引退を宣言した。最終所属クラブとなったボルトンでは、DFラインではなく、守備的ミッドフィールダーでプレー。
既に36歳であったが、レギュラーとして高いパフォーマンスを披露した。
イエロ本人の活躍はもちろんだが、UEFAカップの出場権を得たことで選手層の確保が必要だったこともあり、クラブは契約更新のオファーを出したが、イエロは引退を決意した。
代表
1989年9月20日に行われたポーランドとの親善試合でスペイン代表デビューし、その後もFIFAワールドカップ4大会で招集された。
94年アメリカW杯では1得点、98年フランスW杯では2得点、1998年にアンドニ・スビサレッタからキャプテンを引き継ぎ、02年日韓W杯でも2得点を決め、スペイン人唯一の大会オールスターチームに選出された。
スペイン代表として、通算89キャップ29ゴールの記録を残した。
89キャップはスペイン代表における当時のフィールドプレイヤー最多出場数、29ゴールは当時の最多得点数となる。
エピソード
現役引退後、スポーツ関連のマーケティング会社を経て、2007年9月にスペインサッカー連盟(RFEF)初のスポーツディレクターに就任した。
スポーツディレクターとしてスペイン代表のUEFA欧州選手権2008、2010 FIFAワールドカップの優勝に尽力した。
RFEFより2014年までの契約延長のオファーを受けていたイエロのもとには、レアル・マドリードからもホルヘ・バルダーノの後任として入閣のオファーが届いた。
最終的にはRFEF及びレアル・マドリードからのオファーを断り、2011年6月に契約満了となった。
2011年7月、故郷のクラブであるマラガCFのジェネラル・マネージャーに就任した。
だが、2012年5月、就任から1年足らずで退団した。
2014年7月、レアル・マドリード・カスティージャの監督に就任したジネディーヌ・ジダンの後任としてレアル・マドリードのトップチームの副監督に就任した。
これにより2002-03シーズンに退団して以来のマドリー復帰となった。
2016年6月、セグンダ・ディビシオンのレアル・オビエドの監督就任が発表された。
契約期間は1年間でさらに1年間の延長オプション付き。
2017年11月、スペイン代表のスポーツディレクターに就任。
2018年6月13日、レアル・マドリードCFの監督に就任し代表監督を解任されたジュレン・ロペテギの後任として2018 FIFAワールドカップのスペイン代表監督に就任した。
グループリーグを1勝2分の1位で通過したものの、決勝トーナメントラウンド16で開催国ロシアにPK戦で敗れ敗退。
7月8日に辞任が発表された。
在任はわずか25日間であった。
また、スポーツディレクターを退任することも合わせて発表された。
2020年現在は、スペインサッカー連盟の職員に復職している。
プレースタイル
完全なユーティリティープレーヤーで、ディフェンダーながら通算126ゴールと驚異的な得点数を記録。
紛れもなくレアル・マドリードそしてスペインサッカー史上最高のディフェンダーの一人である。
大柄で頑強な体を持ち、激しいプレーもできる守備の重鎮。
彼が最終ラインに君臨するかぎり、守備は崩壊しないだろう。
的確なポジショニングから強靭なフィジカルを活かしたマークでチームの守備を支えた。
空中戦に強く、読みとポジショニングのセンスに優れた。
身長187cmと大型のディフェンダーであったが、フィジカルだけではなく繊細なテクニックも特徴的であった。
最終ラインで攻撃の起点として正確なパスを通した。
展開力に優れていたイエロは、DFラインから豪華な前線にボールを供給する攻撃の起点の役割を果たした。
正確で強いキックを活かした中盤からの構成力、またシュート力も非凡。
当初はセンターバックだったが、次第に守備的ミッドフィルダーでのプレーが多くなり、それとともにロングシュート、セットプレー、ヘッドの強さを活かしてゴールを量産。
フリーキックやペナルティーキックも得意。
特にセットプレーでは大砲と呼ぶべき強烈なフリーキックで相手ゴールを脅かす。
代表でも他のメンバー構成によってボランチ、センターバックの両方で使い分けられていたが、再びセンターバックでのプレーが多くなっている。
元帥という愛称どおりキャプテンシーもあり、ナショナルチームはもとより、世界のスター選手が列挙するスペイン名門クラブチームにおいても、絶大な信頼と存在感でキャプテンとして高いリーダーシップを発揮している。