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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ジョゼップ・グァルディオラ

サッカー

概略

Pep Guardiola • Goals •Skills •Assists ||Barcelona||
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1971年1月18日(49歳)
出身地 サンパドー
身長 180cm
体重 76kg

 

ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。

 

利き足は右。

 

愛称は「ペップ」。

 

スペインとバルサが誇る伝統のピボーテの系譜を継ぐプレーヤー。

 

ドリームチームを築いた1990年代のFCバルセロナの象徴である。

 

リーガ・エスパニョーラ優勝6回、チャンピオンズカップ優勝1回を含む成績を残した。

 

現役時代を引退後、2008-09シーズンには就任1年目にしてスペインサッカー史上初となる3冠を達成した。

 

監督としてイングランド、ドイツ、スペインのリーグ戦(プレミアリーグ、ブンデスリーガ、プリメーラ・ディビシオン)と国内カップ優勝をそれぞれ達成している。

 

獲得タイトル

クラブ

バルセロナ B

  • Segunda División B: 1990–91

バルセロナ

  • La Liga: 1990–91, 1991–92, 1992–93, 1993–94, 1997–98, 1998–99
  • Copa del Rey: 1996–97
  • Supercopa de España: 1991, 1992, 1994, 1996
  • European Cup: 1991–92
  • UEFA Cup Winners’ Cup: 1996–97
  • European/UEFA Super Cup: 1992, 1997

代表

スペイン代表 U23

  • Olympic Gold Medal: 1992

個人

  • Bravo Award: 1992
  • Olympics – Spain Best Player: 1992
  • UEFA European Championship Team of the Tournament: 2000

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1990-1992 スペインの旗 バルセロナB 59 (5)
1990-2001 スペインの旗 バルセロナ 263 (6)
2001-2002 イタリアの旗 ブレシア 11 (2)
2002-2003 イタリアの旗 ローマ 4 (0)
2003 イタリアの旗 ブレシア 13 (1)
2003-2005 カタールの旗 アル・アハリ 18 (2)
2005-2006 メキシコの旗 ドラドス・シナロア 10 (1)
代表歴
1991 スペインの旗 スペイン U-21 2 (0)
1991-1992 スペインの旗 スペイン U-23 12 (2)
1992-2001 スペインの旗 スペイン 47 (5)
1995-2005 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ 7 (0)

 

クラブ

 

カタルーニャ地方のサンパドーに生まれ、カンプ・ノウからわずか100mほどの学校に通った。

 

「幼い頃は、いつもシュスターのユニフォームを着ていた。彼はバルセロナ史上最高のMFの1人だ」と語り、ベルント・シュスターがアイドルであったと語っている。

 

13歳でFCバルセロナの下部組織であるラ・マシアに入寮し、徐々に上位カテゴリーに昇格していった。

 

1990年、カディスCF戦でトップチームデビューを果たし、ヨハン・クライフ監督はギジェルモ・アモール欠場時にグアルディオラを起用した。

 

1991-92シーズンにはレギュラーポジションを獲得し、わずか20歳にしてリーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズカップ優勝の立役者となった。

 

1992年、イタリアのサッカー誌グエリン・スポルティーヴォによって、ヨーロッパの最優秀若手サッカー選手に贈られるブラヴォー賞を獲得した。

 

ドリームチームは1992-93シーズン、1993-94シーズンも王座を守り、リーグ4連覇を果たしたが、グアルディオラはいずれのシーズンも中軸としてプレーしている。

 

1993年にロマーリオを獲得したチームは1993-94シーズンにもUEFAチャンピオンズカップで決勝に進出したが、ファビオ・カペッロ率いるACミランに0-4で大敗した。

 

1994-95シーズンと1995-96シーズンはそれぞれ3位と4位で終えたが、この間もFCバルセロナの中盤のポジションを確保し続けた。

 

1996年にクライフがチームを離れ、1996-97シーズン、ボビー・ロブソン率いるチームはコパ・デル・レイとUEFAスーパーカップとUEFAカップウィナーズカップのトレブル(3冠)を獲得した。

 

ドリームチームの時代は過ぎ去り、チキ・ベギリスタインやフリスト・ストイチコフの役割をルイス・フィーゴやロナウドが引き継いだが、グアルディオラの役割は不変だった。

 

1996-97シーズン終了後、クラブはグアルディオラに対するASローマとパルマFCからの約3億ペセタ(約3億5千万円)のオファーを拒否した。

 

契約延長に関する長い交渉の末、2001年までの新契約にサインした。

 

1997-98シーズンのほとんどをふくらはぎの怪我で欠場したが、クラブはルイス・ファン・ハール新監督の下で国内リーグと国内カップの2冠を達成した。

 

1998年6月8日、肉体的な問題を解決するために手術を行い、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップを逃した。

 

1998-99シーズンは戦線に復帰し、リバウドやルイス・フィーゴの活躍のおかげもあって再びリーグタイトルを獲得した。

 

1999-2000シーズンは深刻な膝の怪我により、シーズン終盤の3か月に出場できなかった。

 

2000-01シーズンのリーグ戦は4位に終わり、UEFAチャンピオンズリーグではベシクタシュJKとACミランに完敗してグループリーグで敗退し、チームは無冠に終わった。

 

2001年4月11日、ユース時代から17年間過ごしたクラブを離れることを決意し、6月24日のセルティックFC戦がFCバルセロナでのラストマッチとなった。

 

FCバルセロナでは12シーズンで479試合に出場して16個のタイトルを獲得した。

 

セルティック戦後の記者会見で「長い旅だった。私はとても幸せで、誇りを持っている。たくさんの友人ができた。私はもう幸福を探し求めない。選ばれた者として長い間過ごした」と述べた。

 

得点数は少なかったが、6度のリーグタイトルと1度のUEFAチャンピオンズカップ、バルセロナオリンピックでの金メダル、その他さまざまなトロフィーを獲得した。

 

2008年にUEFA欧州選手権を制したスペイン代表の中盤の選手の多く、特にシャビ、アンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスらにとって、グアルディオラは少年時代のアイドルであり、チームを去っても尊敬度は変わらなかった。

 

2001年に31歳でFCバルセロナを離れると、ニューカッスル・ユナイテッドFC、マンチェスター・ユナイテッドFC、ウェストハム・ユナイテッドFC、トッテナム・ホットスパーFC、リヴァプールFC、ACミラン、インテル・ミラノがグアルディオラ獲得に興味を示した。

 

しかし彼はセリエAのブレシア・カルチョとASローマでプレーすることを選んだ。

 

彼はブレシアへの入団会見で「私が移籍を決めたのはロベルト・バッジョがいたからだ。彼とプレーできることはビッグクラブへの移籍よりはるかに魅力的だ」と語っていた。

 

しかしながら彼のイタリアでの挑戦は成功だったとは言えず、2003年までに71試合に出場するのみにとどまった。

 

2001年11月には試合後のドーピング検査において、禁止薬物であるナンドロロンに対する陽性反応が出たために4か月間の出場停止処分を受けた。

 

さらに、2005年には執行猶予がついたものの7か月の有罪判決を受けた。

 

これに対してグアルディオラ側は「イタリアのドーピング検査はいいかげんだ」と一貫して無実を主張し、科学的根拠のある反証を数多く提出した。

 

そして2007年10月にブレシア高等裁判所は1審を破棄し、無罪の判決を下した。

 

こうして6年間に渡る闘いの末、グアルディオラの潔白がようやく証明された。

 

ところが、無罪判決から2年後の2009年8月、イタリアオリンピック委員会(CONI)がグアルディオラを上訴し、ドーピング問題が再燃した。

 

しかし9月の裁判で裁判所はグアルディオラ側の主張を認める判決を下したため、9月29日にCONIが彼の無罪を発表して問題が決着した。

 

ストレスのたまるイタリアでの挑戦の後、34歳にして彼が選んだのはカタール・スターズリーグのアル・アハリ・ドーハだった。

 

マンチェスター・ユナイテッドからも誘いがあったが、欧州以外の場所でプレーすることを希望したために中東を選び、レギュラーとしてプレーした。

 

スターズリーグではガブリエル・バティストゥータなどの名選手が何人かプレーしていた。

 

華やかな選手生活に戻る気はなかったため、2005年夏にはマンチェスター・ユナイテッドやマンチェスター・シティFC、チェルシーFCなど欧州のトップクラブからのオファーを断った。

 

2006年、メキシカン・サッカーリーグのドラドス・デ・シナロアの監督をしていたスペイン人のフアン・マヌエル・リージョは、指導者養成学校に通っていたグアルディオラを誘った。

 

中盤での魔法のようなプレーは健在だったが、半年間プレーした後の2006年11月に現役引退を表明した。

 

代表

 

1992年にはU-23スペイン代表のキャプテンとしてバルセロナオリンピックに参加し、金メダルを獲得した。

 

1992年10月14日、ウィンザーパークで行われた1994 FIFAワールドカップ予選北アイルランド戦でスペインA代表デビューした。

 

1994年には1994 FIFAワールドカップに出場し、ベスト8に進出したが、準々決勝でイタリアに1-2で敗れた。

 

ハビエル・クレメンテ監督はしばしばグアルディオラを控え選手として扱い、1996年のUEFA欧州選手権1996ではメンバーから外れた。

 

度重なる怪我の影響によってフランスで開催された1998 FIFAワールドカップ、日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップと2大会連続でFIFAワールドカップを棒に振り、選手生活においてワールドカップの舞台での活躍は縁の無いものとなった。

 

2000年のUEFA欧州選手権2000では準々決勝に進出したが、フランスに1-2で敗れた。2001年11月14日のメキシコとの親善試合が彼の代表ラストマッチとなった。

 

カタルーニャ代表としては、1995年から2005年までに7試合に出場した。

 

エピソード

pep guardiola part-1

引退後は同世代のルイス・エンリケらと共に指導者の道を選び、2007-08シーズンからFCバルセロナBの監督としてバルセロナに再び戻った。

 

そして就任1年でテルセーラ・ディビシオン(4部)からセグンダ・ディビシオンB(3部)に昇格させた。

 

2008年5月8日、フランク・ライカールトに代わって2008-09シーズンからFCバルセロナのトップチームの監督に。

 

バルセロナの監督として数々のタイトルと成功をもたらした。

 

2013年6月、ブンデスリーガ・バイエルン・ミュンヘンの監督に就任。

 

2016年2月、2016-2017シーズンよりプレミアリーグの強豪チームマンチェスター・シティFCの監督に就任。

 

監督として世界トップクラスの手腕と実績を誇る。

 

用いる戦術はピッチを縦に5等分した5レーンを活用しながらトライアングルを形成し、数的優位、質的優位、配置的優位を生み出し、圧倒的なポゼッションを駆使して相手を支配するスタイルを哲学としている。

 

現役時代の恩師であるクライフの哲学を現代フットボールにアレンジしたものであり、後方からボールを論理的に動かし、ゴールまでの道筋を逆算している。

 

また、試合の中での修正力にも秀でており、対策されて手詰まりになったときでも大胆な采配によって流れを変えることを得意としている。

 

しばしばティキタカが注目され、何本パスを繋いだかが取り沙汰されるが、ペップ自身は自伝において「ティキタカはゴミで、何の意味もない」とこれを否定。

 

パスワークはあくまで相手を支配し、主導権を握り続けるための手段に過ぎないという考え方で、「明確に意図がある場合のみパスを出すべきだ」と主張。

 

ビルドアップの目的を時間とスペースを前に繋ぐことと定義し、選手のポジショングの正確さと移動によって相手の守備を動かすことをむしろ重視している。

 

守備に関しては、ボールを失った後の即時奪還を重要視しており、前線からのプレッシングによってボール保持の回復を狙いとする。

 

守備の哲学については、キャリア晩年にプレーしたイタリアの文化の影響を受けており、アリーゴ・サッキがもたらしたプレッシング哲学を学んでいる。

 

ただし、バックラインを非常に高く押し上げるため、前からのプレッシングが外されると縦パス一本で裏のスペースを突かれる大きなリスクを抱えている。

 

人心掌握術にも定評があり、裏では選手に高度な要求を突きつけるが、メディアの前で特定の選手を批判するようなことはしない。

 

また、選手の適性を見つけることにも長けており、メッシやラーム、フェルナンジーニョ、デ・ブライネを違うポジションにコンバートすることで才能を開花させた実績を持つ。

 

練習も非常に論理的であることで知られ、チームにいくつものオートマティズムを叩き込んでいる。

 

一方、「選手の意見は聞いても、議論はしない」というのをモットーとしており、規律を乱す選手は例えスター選手であっても容赦なく切り捨てている。

 

そのため、エトーやイブラヒモビッチ、ヤヤ・トゥーレといった我の強い選手と対立したことがある。

 

バルセロナで成功して以降、彼のフットボール哲学は世界中のサッカーにムーブメントを起こし、2010年代以降の戦術のトレンドを生み出している監督と言える。

 

ペップのスタイルを模倣するチームはヨーロッパ以外でも見られるようになり、むしろこれを打ち倒すための戦術が考案されるという観点でも、フットボールの発展と進化を呼び込んでいる。

 

影響を受けている指導者としては、クライフ、サッキ、リージョなどが挙げられる。

 

プレースタイル

Pep Guardiola all Spain Goals

ペップのすごさは、中盤の底ピボーテのポジションに”司令塔”としての働きをもたらしたことにある。

 

身体の接触では他の選手に敵わないペップは、テクニック、視野の広さを存分に活かし、相手がチェックに来る前にワンタッチでボールを捌いてしまう。

 

そしてそのパスの精度が極めて高いのだ。

 

彼の凄さは何といっても局面を打開するパスセンス。

 

決して派手なプレーではないにしても、一気に試合の展開を変えてしまうような、そんな一本のシンプルなパスを出すことができる選手だった。

 

数字にこそ残らないプレースタイルではありますが、この現役時代のプレー集を見れば、彼がいかにバルセロナの大黒柱としての役割を担う存在であったことがわかるでしょう。

 

フィジカル、運動量、スピードといった身体的な能力は特別秀でたものがあるわけではないが、視野の広さと正確無比なパス能力を活かしたゲームメイク能力は人並み外れたものがあり、才能に惚れ込んだヨハン・クライフから若くして4番のポジションを任されるほどだった。

 

長短織り交ぜたパスでチャンスを作り出し、1本のパスで決定機を生み出す。

 

バルセロナのパスワークのほとんどがグアルディオラを経由し、ロマーリオ、フリスト・ストイチコフ、ロナウド、ルイス・フィーゴ、リバウドといった歴代のバルセロナのアタッカーを操縦。

 

当時「バルセロナの攻撃はダイレクトに前線に繋ぐよりもペップを経由したほうが速い」と言われたほどで、誰もが気付かないようなわずかなスペースに針の穴をも通すような正確なパスを通し、観るものを唸らせ続けた。

 

ペップのエレガントなパサーとしてのスタイルは、後世の選手にも大きな影響を与えており、後にバルセロナやスペイン代表で黄金時代を築いたシャビ、イニエスタ、セスクらにとっての少年時代のアイドルであり、バルセロナのみならずスペインサッカー全体に大きな影響を残している。

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