概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1945年3月11日(75歳) | ||
出身地 | セウタ | ||
身長 | 174cm |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
長きに渡りエル・ブランコの強さと誇りを体現したレアル・マドリードのレジェンド。
60年代のイエイエ・マドリードの一員。
獲得タイトル
- レアル・マドリード
- ラ・リーガ:10回 1965, 1967, 1968, 1969, 1972, 1975, 1976, 1978, 1979, 1980
- コパ・デル・ヘネラリシモ/コパ・デル・レイ:4回 1970, 1974, 1975, 1980
- UEFAチャンピオンズカップ:1回 1966
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 (得点) | |
1963-64 1964-1980 1980-1982 |
![]() ![]() ![]() |
21 (11) 417 (123) 55 (18) |
|
代表歴 | |||
1966-1978 | ![]() |
41 (16) |
アフリカ大陸北部のスペインの飛地セウタで生まれる。
インペリオ・リフィエンで選手としてのキャリアをスタートしたのち、ソシエダ・デポルティバ・セウタとアトレティコ・セウタで活躍した。
18歳でグラナダに加入し、ファーストチームの一員としてプレー。
1963-64シーズンにはスペインアマチュア代表に招集され、これをきっかけに1964年、エル・ブランコとの契約にこぎつけた。
1964年から1980年までレアル・マドリードに在籍した。
16シーズンの在籍で通算172ゴール以上をマーク。
フランシスコ・ヘントがキャプテンを務めた“イェイェ・マドリード”の一員となり、デビューした年に自身リーガ初優勝。
リーガはその後通算で10、制することになる。
1966年にはパルチザン・ベオグラードを2-1で破り、大会最年少チームとして欧州チャンピオンズカップを制した。
レアル・マドリードでは、リーグ優勝10回、カップ優勝4回、そして1965-66シーズンのチャンピオンズカップで優勝した。
1975年のコパ・デル・レイ決勝では、あごを骨折していたにも関わらず試合に出場した。
また、アマンシオ・アマロが引退した1976年からはチームのキャプテンも務めた。
スペイン代表としては、1966年から1978年までプレイして41試合16得点を記録。
ワールドカップ1966年大会と1978年大会に出場した。
攻撃的なポジションでプレーしたことはなかったが、キャリアを通して200を超える得点を挙げた。
1980年にメキシコのプエブラに移籍して、1982年に引退した。
エピソード
1971年のカップウィナーズカップ決勝では腕を固定して、1975年の国王杯決勝では高熱とあごの骨折を押してプレーし、クラブから最高の栄誉である“ラウレアテ”を授かった。
引退後は医学の勉強を終了し、2年後にはスペインに戻ってマドリードのメディカルスタッフに加入。
その後、チームのコーチ陣の一員となっている。
プレースタイル
リーダーシップとファイティングスピリットのある選手。
守備技術に優れた選手。
守備的MFとしてキャリアをスタートさせたが、その後DFへとポジションを移した。
守備的な選手だがオールラウンダーな能力があり、得点能力も非常に高い。
時には急造のフォワードとしてプレーすることもあったが、基本的に攻撃的なポジションでプレーなしで、キャリアを通して200を超える得点を挙げるほどの攻撃力も兼ね備えていた。
足元の技術にも優れており、長短織り交ぜたパスも一級品。