概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1950年4月20日(70歳) | ||
出身地 | ポルト | ||
身長 | 185cm |
体重79kg
ポジションはディフェンダー(センターバック、リベロ)。
利き足は右。
ポルトガルサッカー史上、最も優秀なディフェンダーとされる。
1970年代を代表する選手。
主にSLベンフィカの選手として過ごした現役時代、DFであるコエリョは数年の間ポルトガル代表の最多出場記録を保持していた。
国際Aマッチに60試合以上出場したが、主要国際大会でのプレー機会には恵まれなかった。
獲得タイトル
クラブ
ベンフィカ
- Primeira Liga: 1968–69, 1970–71, 1971–72, 1972–73, 1974–75, 1980–81, 1982–83, 1983–84
- Taça de Portugal (6)
- Supertaça Cândido de Oliveira: 1980
代表
ポルトガル代表
- Brazilian Independence Cup runner-up: 1972
個人
- Portuguese Footballer of the Year: 1974
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1968-1975 | ![]() |
193 | (18) |
1975-1977 | ![]() |
42 | (7) |
1977 | ![]() |
22 | (3) |
1977-1984 | ![]() |
167 | (32) |
代表歴 | |||
1968-1983 | ![]() |
64 | (6) |
ポルトガルサッカー史上、最も優秀なディフェンダーとして見なされるコエーリョは18歳でリスボンに本拠地を置くベンフィカのトップチーム入りをする。
22歳を迎える前には既にポルトガル1部リーグで100試合以上出場していた。
1968年10月27日、コエーリョは3-0で勝利した1970 FIFAワールドカップ予選のルーマニア戦でポルトガル代表デビューを果たした。
以後15年間、彼は63のキャップ数を積み上げ6得点をマークする。
1975年から2年間、コエーリョはフランスのパリ・サンジェルマンFCでプレーする。
1年目は6得点という数字が示すように、彼はCBというポジションにも関わらず持ち前の攻撃性を見せたがチームはリーグで14位に沈んだ。
その後コエーリョはベンフィカに復帰すると3度のリーグ優勝と4度のポルトガルカップ優勝に貢献した。
1983年4月27日に行われたUEFA欧州選手権1984予選のソ連戦がコエーリョにとって最後の代表戦だった。
ポルトガルはフランスでの本戦出場権利を獲得したが、負傷の為に欠場を余儀なくされた。
ベンフィカでの公式戦を約500試合出場(リーグ戦では360試合50得点)した後、コエーリョは選手生活にピリオドを打った。
エピソード
コエリョはSCブラガとサルゲイロスで指導者としてスタートする。
その後10年以上のブランクを経て1997年にポルトガル代表監督に就任すると2000年に開催されたEURO2000でチームを4大会ぶりのベスト4に導いた。
しかし大会後の契約更新はならなかった。
同年の10月、モロッコ代表監督に就任したが、2002 FIFAワールドカップの予選突破を果たせず解任された。
2003年にフース・ヒディンクの後任として韓国代表監督に就任したが、AFCアジアカップ2004予選で格下のベトナム・オマーンに連敗、2006 FIFAワールドカップ予選のモルディブ戦でスコアレスドローの失態を演じ、辞任に追い込まれた。
その後サウジアラビアのアル・シャバブ・リヤドを短期間指導し、2008年にチュニジア代表を率いることになったが、2009年11月18日に行われた2010 FIFAワールドカップ予選のモザンビーク戦で0-1で敗れたのを受けて、監督を解任された。
この敗戦は1998年大会から続いてた同国のワールドカップ連続出場記録を途切れさせるものであった。
プレースタイル
ポルトガル史上最高のディフェンダーとされるほどの選手。
確かな守備技術とフィジカルに優れ相手の攻撃の目を確実に摘む。
空中戦に滅法強く。
競り合いやヘディングにも無類の強さを発揮した。
ディフェンダーながらそのヘディングは大きな得点源にもなった。
またセンターバックながらリベロを務められるほどの攻撃力があるのも魅力のひとつ。
キャプテンシーもあり偉大なリーダーであった。