概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1977年8月27日(42歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 174cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「マジコ」。
2000年代のポルトガルを代表するミッドフィールダー。
ポルト、バルセロナ、チェルシーなどで活躍した。
獲得タイトル
クラブ
ポルト
- Primeira Divisão/Liga: 1998–99, 2002–03, 2003–04
- Taça de Portugal: 1999–2000, 2000–01, 2002–03
- Supertaça Cândido de Oliveira: 2001, 2003
- UEFA Champions League: 2003–04
- UEFA Cup: 2002–03
バルセロナ
- La Liga: 2004–05, 2005–06
- Supercopa de España: 2005, 2006
- UEFA Champions League: 2005–06
チェルシー
- Premier League: 2009–10
- FA Cup: 2008–09, 2009–10
- FA Community Shield: 2009
フルミネンセ
- Campeonato Brasileiro Série A: 2010, 2012
- Campeonato Carioca: 2012
個人
- Ballon D’or Silver Ball: 2004
- UEFA Club Footballer of the Year: 2003–04
- UEFA Club Midfielder of the Year: 2003–04, 2005–06
- 2004 UEFA Champions League Final: Man of the Match
- ESM Team of the Year: 2004–05
- FIFA Club World Cup Golden Ball: 2006
- Portuguese League Footballer of the Year: 2003–04
- CNID Best Portuguese Athlete Abroad: 2006
- Premier League Player of the Month: August 2008
- Campeonato Carioca Best Player: 2012
- Campeonato Carioca Best Midfielder: 2012
- Globe Soccer Awards Player Career Award: 2013
- Golden Foot: 2016, as football legend
- Medal of Merit, Order of the Immaculate Conception of Vila Viçosa (House of Braganza)
経歴
クラブ
ブラジルでは目立った存在ではなく、19歳の時にポルトガルへ渡ってから才能が開花した。
1997年、ポルトガルの強豪、SLベンフィカに入団するが即座に2部リーグのアルベルカにレンタルされる。
ここで32試合に出場し13得点をあげる活躍をみせ、このままベンフィカに復帰するのではと思われたが、翌1998年は1部のサルゲイロスへ移籍。
ここでも活躍をみせるとこのシーズン途中にFCポルトに引き抜かれ、完全移籍する。
ポルトでも質の高いプレーを見せていたが、チームはデコの移籍初年度の1998-99シーズンを最後にリーグ優勝を果たせずにいた。
しかし迎えた2002-03シーズン、監督にジョゼ・モウリーニョが就任すると、リカルド・カルヴァーリョ、パウロ・フェレイラ、マニシェらのポルトガル代表選手と共にデコは以前にも増してその本領を発揮、見事にリーグ優勝を決め、欧州の舞台でもUEFAカップも制す快進撃を支えた。
翌2003-04シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグでは決勝のASモナコ戦でリードを広げるゴールを決め、優勝に貢献、UEFAチャンピオンズリーグMVPを受賞した。
2004年夏の移籍市場では、リカルド・クアレスマとのトレードでFCバルセロナに移籍。
ロナウジーニョらスター選手に囲まれながらも、バルセロナの”心臓”と呼ばれ活躍し、2004-05シーズンは38試合中35試合に出場し、リーグ優勝に貢献。
9月14日、チャンピオンズリーグのグループステージ、セルティックFC戦で移籍後初ゴールを決め、10月16日、第7節のエスパニョール戦でラリーガ初ゴールを決めた。
2005-06シーズンはリーグ連覇に加え、自身2度目となるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成。
FIFAクラブワールドカップ2006では、決勝でSCインテルナシオナルに敗れるも同大会のMVPに選ばれる活躍を果たした。
しかし、その後は自身の負傷やアンドレス・イニエスタの台頭もあって出場機会が減少していった。
2007-08シーズン終了後、FCバルセロナの新監督に就任したジョゼップ・グアルディオラから構想外を宣言され、ポルトガル代表での恩師であるルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任したチェルシーFCへ移籍金800万ポンドで移籍。
2008-09シーズンのリーグ開幕戦であるポーツマスFC戦でデビューし、その試合でアシストを決めただけでなく、ミドルシュートを決めてプレミアリーグ初得点も挙げた。
しかしその後、スコラーリが解任されてフース・ヒディンクが監督に就任すると出場機会を失っていき、2009年夏の移籍市場ではインテルなどへの移籍が注目されるも残留。
しかし、2009-10シーズンは新監督に就任したカルロ・アンチェロッティにより、トップ下のポジションを得てプレーした。
チェルシー退団後はブラジルのフルミネンセFCでプレー。
2013年8月に現役引退を発表した。
代表
圧倒的なテクニックと、創造力豊かなプレーを披露するデコに目をつけていたルイス・フェリペ・スコラーリは、ポルトガル代表監督になると同時に、デコにポルトガル国籍取得を要請し、デコはポルトガルに帰化する。
そしてポルトガル代表に選出されたが、当初は中心選手のルイス・フィーゴやマニュエル・ルイ・コスタから猛反発を受けてしまう。
そのような状況下で2003年3月29日、ついに代表デビュー。
相手は奇しくも生まれ故郷のブラジル。
この試合はポルトのエスタジオ・ダス・アンタスで行われ、デコは後半15分に途中出場して決勝点を挙げ、ポルトガルが2-1で勝利を収めた。
彼の活躍が対ブラジル戦37年振りの勝利につながり、一日でチームメイトや国民の信頼を確立した。
その後はEURO2004にも出場。
開幕戦のギリシャ戦で後半から出場した後は全試合に先発出場し、ポルトガル準優勝に貢献した。
2006 FIFAワールドカップでは、怪我のため初戦のアンゴラ戦を欠場したものの、2戦目のイラン戦で先発出場すると決勝点となるミドルシュートを豪快に決め、ポルトガルの40年ぶりの決勝トーナメント進出に貢献したが、オランダ戦では退場処分を受けている。
大会を通じて「らしさ」は魅せたものの、やや精彩を欠いた。
2010 FIFAワールドカップ限りで代表引退を発表した。
エピソード
練習嫌いというところもある選手でした。
2003年夏、バルサはデコの獲得に動いたが、当時のポルトの監督ジョゼ・モウリーニョは、彼をチャンピオンズリーグ優勝のキーマンとして指名し、移籍を待つように頼まれたと、デコは『AS』紙のインタビューで明かしている。
「2003年、バルセロナは私との契約を望んでいた。私は会長ピント・ダ・コスタとモウリーニョと話し合いの場を持った。モウリーニョからは『移籍をしたいのならば、会長と話をしなければならない』と言われていたのを覚えている。
会長と話をしていたら、モウリーニョに『ヨーロッパチャンピオンになるんだ』と言われたんだ。
笑いが込み上げてきて、会長に『UEFAカップ(現EL)で優勝したのはいいけど、チャンピオンズリーグでは優勝できない』と言ってしまった。
それでピント・ダ・コスタからは、モウリーニョと勝利のためのオプションになってくれと言われて、翌年は自分の行きたいところに行っていいと約束された」とデコは明かしている。
「1ヶ月半の間はナーバスになってプレーが悪かったが、レベルを回復し、翌年にはバルセロナが他のクラブと同じように私に興味を示してくれた」とデコは告白した。
2004年、ポルトはモウリーニョの主張通りにチャンピオンズリーグを制した。
モウはポルトでのサイクルに終止符を打ち、チェルシーで監督としては初となる海外でのプロジェクトに挑戦した。
モウリーニョはその際にデコを一緒にロンドンへ連れて行こうとしたようだ。
しかしブラジル出身のポルトガル人はバルセロナを選んだ。
「2004年にモウリーニョがチェルシーに行った時、彼は私を連れて行きたがっていた。チェルシーが3,000万~3,500万ユーロ(約35億~約41億円)を提示したのに対し、バルサはわずか2,100万ユーロ(約24億5,000万円)だったよ。(代理人)ジョルジュ・メンデスには、バルセロナが提示した額ではピント・ダ・コスタが私を解放してくれないと言ったんだ。会長と話して、バルセロナが何を提供しているのか、チェルシーが何を提供しているのかは知っていると伝えたよ。そうしたら、『好きなところに行っていい。約束したからには必ず果たす』と言ってくれたんだ。この結果が私に多くのことをもたらしてくれたね」と元MFは語った。
その後デコは、バルセロナで4シーズン戦い、リーガ2回、欧州CLを1度制した。
2008-09からはチェルシーでプレーし、プレミアリーグ1回とFAカップを2度勝ち取った。
引退後はD20 Sportsという会社を設立して代理人業を行っており、クライアントにはジェジエウ、ジョアン・シミッチらがいる。
プレースタイル
デコは高度なテクニックと、広い視野と自己犠牲の精神の持ち主でした。
パスは長短の両方とも非常にうまい選手で、ドリブルもうまい選手でした。
もちろんシュートもすごいです。
デコはパス、シュート、ドリブル全て上手かったです。
イニエスタと近いと言う人がいますが、シュート技術ならデコの方が圧倒的です。
チームの中で最高級とも言えるクリエイティブでシンプルでダイナミックで美しいスペクタクルサッカーの中心として攻守に存在感を示している。
中盤で華麗にゲームメイクをし、その魔法のようなプレースタイルから「マジコ」という異名をとった。
全盛期はバロンドールをとってもおかしくない選手でした。
デコの超絶テクニックはテクニックそのものよりも頭脳の賢さにある。
ドリブルする時はドリブルをし、パスをする時はパスをするという、当たり前だが難しい判断を確実にこなす戦術眼を持つ。
これは多くの選手ができている様で十分にはできていない。
サッカーというスポーツは選択肢が無限にあるため、正解が時としてわからなくなるものだが、デコのプレーを見ると、『ああそうすればよかったんだ。』ということに改めて気づかされる。
守備をする時も、真っ先に最も危険なスペースを消したり、場合によってはファールも厭わない等、その判断に迷いや間違いがない。
味方の陣形がまずい時はわざとファールを受けて時間を稼ぐのもお手の物だ。
確かにテクニックレベルも高いのだが、それだけでトップクラスには登れない。
デコは考え、走り、時には体を張ってチームのためにプレーすることができるので、ワールドクラスにいるのだ。
その戦術眼と高度なテクニックを生かして、ゴールを狙える時は迷う事無くシュートを放つのが一つの武器となっている。
パスもドリブルもできるため、警戒する相手をよそに、ヒュッとゴールを決めていく。
彼はそのプレーでチームの心臓として機能した。