概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1966年2月28日(54歳) | ||
出身地 | モンティジョ | ||
身長 | 175cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはフォワード(左ウイング、セカンドトップ)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
「欧州のマラドーナ」の異名をとった。
80年代から90年代にかけて活躍したポルトガル代表のウインガー。
フィーゴ登場以前のポルトガルのスター選手だった。
1987年欧州年間最優秀選手(バロンドール)投票2位。
獲得タイトル
クラブ
ポルト
- Primeira Liga: 1984–85, 1985–86
- Supertaça Cândido de Oliveira: 1984, 1986
- European Cup: 1986–87
アトレティコ・マドリード
- Copa del Rey: 1990–91, 1991–92
ベンフィカ
- Taça de Portugal: 1992–93
ACミラン
- Serie A: 1995–96
個人
- Ballon d’Or: 1987 (2nd place)
- UNICEF European Footballer of the Season: 1986–87
- Portuguese Footballer of the Year: 1986, 1987
- World Soccer: 100 Greatest Footballers of All Time
経歴
1983年、スポルティングCPでデビューと同時にポルトガル代表に17歳で選出。
ポルトガル代表では、41試合で6ゴールを記録、1986 FIFAワールドカップにも出場し、1995年まで代表でプレーした。
1984シーズンにはFCポルトへ移籍、鋭いドリブルをみせるなど能力を発揮し、1984-85、1985-86シーズンのリーグ連覇。
1987年にはアルジェリア代表のラバー・マジェールと共に、FCポルトによるチャンピオンズカップ初優勝の原動力となった。
1986-87年のチャンピオンズカップでは準決勝のディナモ・キエフ戦1stレグでゴールを決め、決勝進出に貢献、決勝でバイエルン・ミュンヘンを2-1と破り優勝を果たし、1987年のUEFA欧州最優秀選手賞(バロンドール)の投票ではルート・フリットに次ぐ2位に選出され、「欧州のマラドーナ」と称された。
1987-88シーズンからはアトレティコ・マドリードへ移籍。
ここではキャプテンを務め、1990-91シーズンにコパ・デル・レイを制し、1991-92の同大会決勝のレアル・マドリード戦ではゴールを決め、優勝に貢献、また同シーズンのリーガ得点王になったマノロ・サンチェスに沢山のアシストを決めた。
アトレティコではタイトルこそ90-91、91-92シーズンのスペインカップの2連覇のみであったが、その技術と芸術性によってファンを魅了。
1992-93シーズン途中にベンフィカへ移籍。
タッサ・デ・ポルトガル決勝のボアヴィスタ戦で2ゴールを決め、同大会の優勝をもたらした。
その後、1993年にはマルセイユに移籍するも、シーズン中に前年度の八百長問題が発覚したことで、ボクシッチ、デサイーらの主力選手たちがチームを去る中、フットレにはACミランが獲得に興味を示していたが、レッジャーナに移籍。
移籍後初出場のクレモネーゼ戦で決勝ゴールを決め、レッジアーナ史上セリエAでの初勝利を呼び込むも、その試合でラフプレーを受け負傷し、シーズンを終えた。
1994-95年のオフにACミランに移籍、プレシーズンのアジアツアーに帯同し清水エスパルス戦で移籍後初ゴールを決めるなどの活躍を見せたが、外国人枠や怪我の影響もあり、チームは優勝を果たすも、セリエA最終節のクレモネーゼ戦で途中出場したのみに終わった。
1996年にウェストハムに移籍したが、10番以外の番号でのプレーを拒否した。
怪我もあって9試合のみの出場に終わる。
アトレティコ・マドリードへの復帰を経て、1998年にカルロス・レシャックが監督を務めていた横浜フリューゲルスに加入、レディアコフらと攻撃陣をリードした。
Jリーグデビュー2戦目の5月5日のサンフレッチェ広島戦で初ゴールを決め、5月9日のアビスパ福岡戦、再開後の7月25日のコンサドーレ札幌戦と3試合連続ゴールを決めたが、セカンドステージ9月26日のベルマーレ平塚戦の後、9月28日にレシャックが成績不振で監督を退任すると、以降出場することはなく、シーズン終了後に引退した。
Jリーグでは13試合3ゴールに終わった。
エピソード
ラウール・ゴンサレスがアトレティコ・マドリードのカンテラに所属していた少年時代の憧れの選手がパウロ・フットレ。
2014年11月、ポルトガルの新聞『レコルト』においてアトレティコ・マドリード時代に八百長を当時のアトレティコ会長ヘスス・ヒルより持ち掛けられたことを告白した。
アトレティコのヘスス・ヒル元会長はフットレ氏に「パウロ、勝ってはならない。チームメイトたちに走るなと言ってくれ。エスパニョールとビジネスが成立している」と述べた。
フットレは、「会長、私はチームメイトにも伝えませんし戦力としても数えないでくれ。こんな条件でプレーはしたくない。貴方が皆に伝えてくれ」と臆することなく反論。
これに対しヒル元会長は「ポルトガル人、お前は裏切り者だ。一生給料を払わないでやる」と激怒して返した。
八百長に関わりたくなかったフットレは、膝の痛みを訴え、招集リストにすら入らなかった。
フットレの元同僚、ソロサバルが「何も知らない」と言い切ったことに関しては、「侮辱されたと感じた全てのプロに謝りたい。ヒル会長が彼等に何を言ったのかまでは分からないからね。私が知っているのは、彼の私への言い分だ」と、謝罪した。
ソロサバルは「勝つことによって第3者のボーナスはあった。最終的にはもちろん貰わなかったけどね」と語っている。
これは、エスパニョールと残留争いをしていたチームが、アトレティコにボーナスを支払おうとしていた事実ということ。
アトレティコが勝てば自分たちではなくエスパニョールが降格していたかもしれないからだ。
フットレ氏はこれに関しても認めた。
「勝つことによってボーナスもあった。ようするにこれは金の問題ではなく、尊厳の問題だった」と、プロ精神を語った。
へスス・ヒル元会長とは「愛と憎しみの関係」だったと語るフットレ。
彼が亡くなってから10年がたった今、フットレ氏はどのような心境でこのスキャンダルを暴露したのだろうか。
プレースタイル
シルクのような技術と、俊敏かつ鋭いドリブルを武器に見る者を魅了。
若い頃から将来を嘱望されたスタープレーヤー。
高いテクニックと、スピードを生かしたドリブル突破を武器とし、17歳でポルトガル代表に選出された1.5列目アタッカー。
マラドーナと比較される、そのドリブルは破壊的で相手ディフェンスをズタズタに切り裂いた。