概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1972年3月29日(48歳) | ||
出身地 | アマドーラ | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 74kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
1990年代から2000年代にかけて活躍したファンタジスタ。
2004年には、ペレが選んだ125人の偉大なサッカー選手のリスト、『FIFA 100』に選出された。
「マエストロ」の愛称で知られ、卓越したテクニックと広い視野、優れたパスセンスで知られていた。
また、両足での正確な得点力も兼ね備えていた。
SLベンフィカ、ACFフィオレンティーナ、ACミランなどでプレーし、プリメイラ・リーガ、ポルトガルカップ、セリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAスーパーカップなどのタイトルを獲得している。
また、サッカーポルトガル代表では94試合に出場して26得点を挙げている他、UEFA欧州選手権に3度とFIFAワールドカップに1度それぞれ出場している。
獲得タイトル
クラブ
ベンフィカ
- Primeira Liga: 1993–94
- Taça de Portugal: 1992–93
- Supertaça Cândido de Oliveira: Runner-up 1991, 1993
フィオレンティーナ
- Coppa Italia: 1995–96, 2000–01
- Supercoppa Italiana: 1996
ACミラン
- Serie A: 2003–04
- Coppa Italia: 2002–03
- Supercoppa Italiana: 2004
- UEFA Champions League: 2002–03
- UEFA Super Cup: 2003
- Intercontinental Cup: Runner-up 2003
代表
ポルトガル代表
- FIFA U-20 World Cup: 1991
- Toulon Tournament: 1992
- UEFA Under-18 Championship: Runner-up 1990
- UEFA European Under-21 Championship: Runner-up 1994
- UEFA European Football Championship: Runner-up 2004
個人
- Toulon Tournament Best Player: 1992
- Toulon Tournament Top Scorer: 1992
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1996, 2000
- FIFA XI: 1998
- UEFA Champions League: Top Assists 2002–03
- FIFA 100
- SJPF Player of the Month: September 2007
- Cosme Damião Awards – Footballer of the Year: 2007
- A.C. Milan Hall of Fame
- Fiorentina All-time XI
経歴
クラブ
5歳の時、ダマイアのDamaia Ginásio Clubeの屋内サッカーチームに参加している。
4年後の1982年、ルイ・コスタはベンフィカの入団テストに参加した。
その際のプレーがベンフィカの英雄であるエウゼビオに評価され、彼は18歳になる1990年までベンフィカのユースチームでプレーした。
1990年、ルイ・コスタは2部のADファフェへレンタルで移籍し、トップデビューを飾った。
1991年にはベンフィカに復帰し、中心選手として定期的に出番を得た。
1991-92シーズンにはポルトガル・カップを、その翌シーズンの1993-94シーズンにはプリメイラ・リーガを制覇した。
ルイ・コスタはジョアン・ピントらと共に強力な中盤を形成し、彼のチームでの役割の重要さを示した。
1994年、ルイ・コスタはイタリアのセリエAに所属するACFフィオレンティーナへ移籍した。
ガブリエル・バティストゥータと強力なコンビを形成し、1996年にはコッパ・イタリアを制覇した。
彼らはその勢いでセリエAでもリーグ前半戦を首位で折り返す。
スクデットに近づいたフィオレンティーナだが、チーム一丸となって優勝争いをしている最中、FWの一角を担っていたエヂムンドが母国ブラジルのカーニバルに参加したいという信じがたい理由で勝手に帰国してしまう。
動揺したフィオレンティーナは、スクデット争いから脱落してしまった。
タイトルを渇望したバティストゥータが、ついにローマに移籍した後も、義理がたいルイ・コスタは一人フィオレンティーナに残りチームを支えた。
1994年から2000年までバッジョに次ぐフィオレンティーナの10番として、盟友バティが移籍した後もチームをけん引していたが、2001年にチームは財政悪化しルイ・コスタはそのチームを金銭的に救うため、放出される事になる。
6年間チームを引っ張ってくれたエースすらも、放出せねばならないという事件に巻き込まれたルイ・コスタは、悲劇のエースとして永遠にサポーターに愛される存在となった。
2001年、ルイ・コスタはフィオレンティーナの財政悪化などもあり、2000-01シーズンにフィオレンティーナのコーチを務めていたファティ・テリムが指揮するACミランに移籍した。
その際の移籍金は2001-02シーズンのセリエAでは最高額の850億リラ(4390万ユーロ)に上った。
加入直後に怪我をしたこともあり初年度はあまり活躍できなかったが、翌シーズンには調子を上げ、UEFAチャンピオンズリーグとコパ・イタリアの2冠に貢献した。
ミランではゲームメイクに徹し、得点数は減ったものの、チームメイトのシェフチェンコに「世界最高のパサー」と称えられ、インザーギからは「たくさんのアシストをくれた」とさらに評価を高めた。
しかし、2003年以降は新加入のカカにポジションを奪われ、十分な出場機会を得られなかった。
それでもルイ・コスタはカカに対して賞賛を惜しまず、また個人的にもアドバイスを送り続けカカの成長を手助けした。
後にカカも、「ルイ・コスタは僕のことをすごく助けてくれた。ルイ・コスタと僕は先生と生徒の関係だったね。」と述べている。
ルイ・コスタの引退試合の前日には、ミランの副会長のアドリアーノ・ガッリアーニは「ミラノ市民、そしてイタリア国民は決してルイ・コスタの名前を忘れることはないだろう。君はいつまでも“ロッソ・ネロ”(ミランの愛称)の家族の一員だ」とルイ・コスタをたたえる手紙をファックスで届け、キャプテンのパオロ・マルディーニは「ルイ・コスタがまだまだ僕らのサッカー界で活躍できる一流の選手であることは僕が一番よく分かるよ。偉大なる男、そして友人だったルイにありがとうと言いたい」とのメッセージを寄せた。
ルイ・コスタはこれらのメッセージについて、「感動して泣いてしまった。」と引退試合後の記者会見で語っている。
2006年5月25日、ルイ・コスタは相方合意の上でミランとの契約を解除し、古巣のベンフィカに復帰した。
同年8月22日、ルイ・コスタは復帰初戦の、チャンピオンズリーグの本戦出場を懸けたFKアウストリア・ウィーンとの予選3回戦で、豪快なミドルシュートで先制ゴールを上げ、ベンフィカの3-0での勝利と本戦への出場に大きく貢献した。
しかしこの試合で彼は右足太ももの筋肉を傷めてしまい、さらに2週間後のボアヴィスタFC戦での強行出場が裏目に出て1ヶ月間の離脱を余儀なくされた。
そして復帰後のCDアヴェス戦でも違和感を訴え、再び3ヶ月の間負傷離脱した。
2007年1月のタッサ・デ・ポルトガル4回戦のオリヴェイラ・ド・バイーロSC戦で復帰した後は、11試合に先発出場した。
しかしチームはFCポルトとスポルティングCPに次ぐ3位に終わり、タッサ・デ・ポルトガルではベスト16で敗退すると、チャンピオンズリーグでも敗退し、UEFAカップではRCDエスパニョールに敗れて無冠に終わった。
2007-08シーズンの開幕前、ルイ・コスタは同シーズン限りで引退することになるだろうと話した。
同シーズン開幕時、ベンフィカは監督のフェルナンド・サントスを解任し、後任の監督としてホセ・アントニオ・カマーチョを指名したが、ルイ・コスタは監督交代後もレギュラーを務めた。
シーズン初戦のチャンピオンズリーグ予選のFCコペンハーゲン戦では2得点を挙げ、チームの本戦出場に貢献した。
9月のCDナシオナル戦では、リーグ戦では復帰以来初となる得点を挙げるなど、公式戦6試合で4ゴールの好スタートを切り、SJPF月間最優秀選手賞を獲得した。
またチャンピオンズリーグでは、アウェーで古巣ミランと対戦し、この試合には1-2で敗れたが、5日後のホームでの再戦では1-1で引き分けた。
しかしチームはミランとセルティックFCの後塵を拝し、3位に終わった。
2007年12月31日、ルイ・コスタは2007-08シーズンを持って選手生活を引退することを正式に表明した。
そして2008年5月11日、スーペル・リーガ(ポルトガルリーグ)の2007-08シーズン最終戦となったヴィトーリアFCとのホームゲームで、「多くのファンとプライドと共にピッチを去る」という言葉を残し、選手生活を引退した。
この試合には54000人の観客が集まり、大きな拍手を受けた。
試合後の記者会見では、一番の思い出としてワールドユースでの優勝を挙げ、最高のチームメイトにはガブリエル・バティストゥータとパオロ・マルディーニを挙げている。
また、「(怪我で活躍できなかった大きな大会が多かったこと、所属クラブの財政難から移籍した経験などを指して)選手生活に運が無かったとは思わないか?」との質問を受けた。
これに対し、ルイ・コスタは「最後の試合に5万4千人も集まって声援を送ってくれた。これほど幸せな選手はいないんじゃないかな?僕は十分運が強いと思うよ。」と答え、最後まで前向きで周囲に感謝する彼らしさを感じさせる受け答えとなった。
代表
1991年、ルイ・コスタはU-20ポルトガル代表としてカルロス・ケイロスの下で地元開催のワールドユースに出場し、決勝でブラジルを破って優勝を果たした。
以降、ルイス・フィーゴらと共にポルトガルサッカー黄金世代の中心選手となった。
1993年3月、FIFAワールドカップ欧州予選のスイス戦でA代表デビューを果たした。
ポルトガル代表の主力としても成長し、1996年のEURO1996ではベスト8、2000年のEURO 2000ではベスト4に進出した。
2002 FIFAワールドカップでは、自身初のW杯出場を果たした。
しかしグループリーグ初戦のアメリカ戦で敗れると、2戦目のポーランド戦では得点したものの、3戦目の韓国戦では出場機会を得られず、チームもグループリーグで敗退した。
地元開催のEURO2004にも出場し、グループリーグ第2回戦のロシア戦で得点を挙げ、チームの初勝利に貢献した。
準々決勝のイングランド戦では延長後半に得点を挙げたが、直後にフランク・ランパードの同点ゴールを許してPK戦に突入した。
PK戦ではルイ・コスタがPKを失敗したものの、チームは勝利した。
その後準決勝でオランダを破り、決勝戦の前日にはこの決勝戦で代表を引退すると表明していたが、決勝では開幕戦でも敗れたギリシャに敗れ準優勝に終わった。
この大会を最後にポルトガル代表を引退した。
ルイ・コスタはミッドフィルダーであるにも関わらず、94試合に出場して26得点を記録した。
出場試合数は歴代4位、得点数は歴代7位の記録である。
エピソード
ピッチに入場する際は、子供の頃の憧れの選手だったカルロス・マヌエルを真似して、決まって列の最後に着いていた。
ポルトガル代表の元チームメイトクリスティアーノ・ロナウドは、子供の頃の憧れの選手としてルイ・コスタの名前を挙げている。
ルイ・コスタは1996年、アメリカのスポーツウェア会社Nikeが主催する、「正義対悪」というタイトルのコマーシャルに出演した。ローマのアンフィテアトルムが舞台となっており、ロナウド、パオロ・マルディーニ、エリック・カントナ、ルイス・フィーゴ、パトリック・クライファートなど世界中のサッカー選手が、「ジョゴ・ボニート(美しいゲーム)」を守るために、悪のチームと戦うというストーリーとなっている。
またルイ・コスタは、EAスポーツが製作したテレビゲーム、FIFA16にも登場している。
引退試合の翌日、ルイ・コスタはベンフィカのテクニカル・ディレクターに就任した。
2008年には、新監督にスペイン人のキケ・サンチェス・フローレスを任命し、アルゼンチン代表の司令塔パブロ・アイマール、スペイン代表のウィングホセ・アントニオ・レジェス、ホンジュラス代表のストライカーダビド・スアソらとの契約を成立させた。
その翌年の2009年には、アルゼンチン代表のストライカーハビエル・サビオラ、ブラジル代表の攻撃的MFラミレス、スペインの守備的MFハビ・ガルシアらを獲得した他、監督のキケ・サンチェスとの契約を解除し、新監督にポルトガル人のジョルジェ・ジェズスを指名した。
このシーズン、ベンフィカはライバルのFCポルトを破り、5シーズンぶりのリーグ戦優勝を果たした。
プレースタイル
史上最高のパサーと評されるほどの選手。
必殺のキラーパスが最大の武器だったファンタジスタ。
卓越したテクニックと広い視野、優れたパスセンスで知られていた。
また、両足での正確な得点力も兼ね備えていた。
柔らかなボールタッチから、才気溢れるゲームメイクを見せ、ポルトガル代表の司令塔として長く活躍した攻撃的MF。
芸術的なスルーパスを得意とし、味方に好機を作り出す。
自ら果敢にミドルシュートも放つ。
スラッとした長身で、決して速くはなくとも、しなやかで流麗な身のこなし。
背筋を伸ばし、ソックスを少し下げてプレーする。
これがまた格好いい。
その芸術の香りがする風貌から繰り出させるのは、古き良きアーティスト型のテクニシャンのプレーだ。
ピッチのあらゆる所に顔を出し、リズムを構築するというよりは、どっしりと構え陣取ったポジションは動かさず、マエストロの様に周りを指揮し動かしていく。
足下に吸い付くようなドリブル、さりげなく繰り出される必殺のパス、伸びやかにたたき込まれるミドルシュート。
簡単にはボールを奪えない技術とアイディアを持ち、それでいて少ないタッチと長いストライドで放っておけない場所にシンプルに浸入してくる。
DFからすると相手のパス回しの中心で周りを動かしながら、自分もぐいぐいと危険領域に入ってくる彼の存在は厄介極まりなかった。
俯瞰して見るとまるで糸に引っ張られる様にDFを集めて、独り独自で別の動きをさせたFWにスルーパスが通る。
潰そうと躍起になっても周りを使っていなされ、あっという間にミドルシュートを打つ体制入ってる、慌てて滑り込めば嘲笑う様に冷静にキックフェイントで外されるのだ。
全てマエストロを中心に動いている様に、いつの間にか間合いと空間を支配する指揮者の持つ絶対性を持っていた。
加えてキックのセンスもズバ抜けて良い。
ロングパスもミドルパスも抜群の精度。
インサイドでもインステップでもアウトサイドでも、バウンドまで計算された様なナチュラルなボールで凄く取りやすい。
慈愛に満ちたシルクの様なパスは数々のFWを虜にしていったのだ。
絶対的な指揮力で間を作り出し、時間を止め、数秒後に信じられない世界を描き出すそのキックは間違いなくファンタジスタの能力だった。
常に敵との間合いを意識した緩急を織り交ぜたドリブルで敵陣の隙間を縫うようにボールを進め、DFがチェックにいこうとした瞬間に鋭いスルーパスを放つ。
姿勢の良いボールキープでピッチ全体の視野を確保、両腕を広げるようにして進む独特のドリブルと鋭いグラウンダーパスで見る者を魅了している。
シュートでは、ゴールに叩き込むというより、パスの特徴をそのままにした狙った位置にパスを出すような打ち方をすることがある。
アーティストらしい多彩なプレーが数々のチーム、そして相棒にも抜群にフィットし、そしてその美しさを絶賛される、内部の評価がズバ抜けて高い選手でもあったのだ。
相思相愛のバティストゥータを始め、シェフチェンコもインザーギもフィーゴも、全ての相棒と良好な関係を築きあげてきた。
どちらから歩み寄った関係性などではない、本物の相乗関係を生み出すデュオを、どのチームでも創り上げた。
もちろんそれを後ろから見ていた出し手の選手から見ても虜となるプレーだった。