パウロ・ソウザ

サッカー

概略

PAULO SOUSA ● Juventus ● Goals & Skills
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 1970年8月30日(49歳)
出身地 ヴィゼウ
身長 177cm
体重 76kg

 

ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

「ポルトガル・ゴールデンエイジ」の一人である。

 

サッカー史に名を残すような素晴らしい選手であったが、20代半ばから故障に苦しみ、輝きを取り戻せぬまま31歳の若さでピッチを去った悲運の選手。

 

獲得タイトル

クラブ

ベンフィカ

  • Primeira Divisão: 1990–91
  • Taça de Portugal: 1992–93
  • Supertaça Cândido de Oliveira: 1989

ユヴェントス

  • Serie A: 1994–95
  • Coppa Italia: 1994–95
  • Supercoppa Italiana: 1995
  • UEFA Champions League: 1995–96

ボルシア・ドルトムント

  • DFB-Supercup: 1996
  • UEFA Champions League: 1996–97
  • Intercontinental Cup: 1997

代表

ポルトガル代表

  • FIFA U-20 World Cup: 1989
  • UEFA European Championship third place: 2000

個人

  • Guerin d’Oro: 1995

 

経歴

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クラブ
クラブ 出場 (得点)
1989-1993 ポルトガルの旗 ベンフィカ 87 (1)
1993-1994 ポルトガルの旗 スポルティングCP 31 (2)
1994-1996 イタリアの旗 ユヴェントス 54 (1)
1996-1997 ドイツの旗 ボルシア・ドルトムント 27 (1)
1998-2000 イタリアの旗 インテルナツィオナーレ 31 (0)
2000 イタリアの旗 パルマ (loan) 8 (0)
2000-2001 ギリシャの旗 パナシナイコス 10 (0)
2002 スペインの旗 エスパニョール 9 (0)
通算 256 (5)
代表歴
1989 ポルトガルの旗 ポルトガル U-20 2 (0)
1989-1991 ポルトガルの旗 ポルトガル U-21 9 (1)
1991-2002 ポルトガルの旗 ポルトガル 51 (0)

 

クラブ

 

少年時代にレペセンセスというクラブでサッカーを始める。

 

当初はフォワードとして起用され、1試合で15得点をあげるという離れ業を演じた事もあった。

 

また、当時は本格的にサッカー選手を目指していた訳ではなく、学校の教師を志望していた。

 

1989年に、ポルトガルのベンフィカでプロデビュー。

 

そこで更なる経験をつみ、国内でその名を知らぬ者はいない程になった

 

ベンフィカではパウロ・フットレやルイ・コスタ、ジョアン・ピントらと共に1度のスーペル・リーガ制覇と1度のタッサ・デ・ポルトガル制覇に貢献した。

 

また1993年にスポルティングCPへ移籍。

 

ここでは、フィーゴ、バラコフ、ユスコビアク、カデテという攻撃陣を見事に操るが、古巣ベンフィカに優勝をさらわれる。

 

代表では94年W杯欧州予選の中心メンバーとして活躍するが、前線の得点力不足が響き本戦出場を逃す。

 

しかし、欧州予選の同じグループであったイタリアとの対戦で、ポルトガルは敗れたもののイタリアと素晴らしい戦いを見せ、多くの選手がヨーロッパのチームから注目を浴びることとなった。

 

そして、シーズン終了後、ユベントスらオファーを受けることとなった。
(さらに、ルイ・コスタはフィオレンティーナへ、フェルナンド・コウトはパルマに移籍する。)

 

1994年最終的ににイタリアのASローマ、ユヴェントスからのオファーが届いたが、ユヴェントスを選択。

 

1994-95シーズンからはユヴェントスでプレーすることとなった。

 

このシーズンのユーヴェは新監督マルチェロ・リッピが就任し、チームの改造に着手したシーズンであった。

 

リッピの戦術は、前線から中盤の凄まじいプレスからの素早い攻撃であった。

 

シーズンが始まると、その戦術が的中する。

 

パウロ・ソウザは守備はもちろんのこと、奪ったボールを効果的に繋ぎ、攻撃の起点となり、加入一年目にしてユベントスの中心選手となった。

 

そして、ユベントスは9シーズン振りとなるリーグ優勝を果たし、原動力となったパウロ・ソウザはワールドクラスの選手として認識されるようになった。

 

 

ソウザは生命線であるボランチのポジションを務め、中盤の中央にポジションを取り長短のパスを駆使して巧みなゲームメイクを見せ9シーズンぶりのスクデット獲得に貢献。

 

セリエA最優秀外国人にも選ばれた。

 

翌シーズンはUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝に進出。

 

(準決勝第2戦のナント戦でゴールを決め、試合には敗れたが、このゴールにより合計でナントを上回り。ユベントスは決勝に進出した。)

 

決勝ではアヤックスと対戦。

 

パウロ・ソウザとデシャンが凄まじいプレスでボールを奪いまくり、アヤックスのリズムを完全に奪う。

 

試合は完全にユベントスのものであった。

 

PK戦の末の優勝。

 

しかし、1996-97シーズン直前にフロントとの確執が表面化し、ドイツのボルシア・ドルトムントへ放出された。

 

ドルトムントでも中心選手となり1997年5月のUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝進出に貢献し、決勝戦の相手は古巣ユヴェントスとなった。

 

試合はドルトムントがプレッシングでジネディーヌ・ジダンやディディエ・デシャンらユヴェントスの中盤を封じ、3-1の勝利に貢献した。

 

異なるクラブで2年連続チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた2人目の選手となったが、これについては「私のフットボール人生で最高の瞬間だった」とコメントしている。

 

また同年冬に行われたトヨタカップのクルゼイロ戦では絶妙なクロスでチームの2点目をアシストし、勝利に貢献した。

 

1997-98シーズン途中にインテル・ミラノに移籍するが、慢性的な故障もあって実力を発揮出来ず、パルマACへのレンタル移籍を挟んで、ギリシャ、パナシナイコスに移籍。

 

PAO(パナシナイコスの愛称)の2年連続チャンピオンズ・リーグ1次リーグ突破の原動力となるも、高年俸及び年齢を理由に2001-02シーズン途中で解雇され、リーガ・エスパニョーラ所属エスパニョールへ移籍した。

 

2002年7月2日午後12時、ジャモールの国立競技場で「私は、プロ・フットボール選手としての引退を正式に発表します」と現役引退を表明した。

 

引退の原因としては度重なる負傷との戦いに疲れたこと、最近の代表チームで思うような活躍が出来なかったことなどを挙げている。

 

代表

 

代表レベルでも1989年にはユース代表としてFIFAワールドユース制覇。

 

1991年にはポルトガル代表に選出され1月16日のスペイン戦で代表デビューを飾った。

 

その後もフィーゴ、ルイコスタらと素晴らしい中盤を形成し活躍する。

 

代表では94年W杯欧州予選の中心メンバーとして活躍するが、前線の得点力不足が響き本戦出場を逃す。

 

しかし、欧州予選の同じグループであったイタリアとの対戦で、ポルトガルは敗れたもののイタリアと素晴らしい戦いを見せ、多くの選手がヨーロッパのチームから注目を浴びることとなった。

 

 

96年の欧州選手権は、「ポルトガル・ゴールデンエイジ」が世界の舞台でのデビューした大会であった。

 

フィーゴ、ルイ・コスタ、ジョアン・ピントらと共に素晴らしいサッカーを展開したが、如何せん得点力が低く、決勝トーナメント1回戦で、ポボルスキーのスーパーゴールの前に涙を飲んだ。

 

その後はヒザの故障が表面化すると代表選考を見送られることが多かった。

 

2000年欧州選手権は2試合のみ出場。

 

2002年5月13日、2002 FIFAワールドカップのポルトガル代表として選出された。

 

“ゴールデン・ジェネレーション”最後の挑戦は、1勝2敗、総得点6、総失点4のグループ・リーグ敗退に終わった。

 

ソウザは、大会前の怪我の影響もあって、1試合も出場することなく終わった。

 

エピソード

Paulo Sousa with Juventus 1994-1996

同世代のフィーゴやルイ・コスタと同等の才能の持ち主でしたが、20代半ばで怪我により輝きを失ってしまいました。

 

もし怪我がなければ、超ビッグネームになっていたでしょう。

 

現役引退後は指導者としてのキャリアを歩む。

 

ポルトガルで開催されたEURO2004でアドヴァイザリースタッフとして参加、ポルトガルU-16代表の監督を務めた。

 

さらにポルトガル代表監督であったルイス・フェリペ・スコラーリの下、アシスタントコーチを務めた。

 

2008年の11月にイングランド2部のクイーンズ・パーク・レンジャーズの監督に就任した。

 

2009年夏にスウォンジー・シティの監督に就任し、2010年7月からはレスター・シティ監督に就任。

 

だが開幕から調子は上がらず、10月1日にわずか3ヶ月で解任された。

 

2011年から、ハンガリーのヴィデオトンの監督を2年間務め初年度に国内カップ戦を制覇。

 

2013-14シーズンはイスラエルのマッカビ・テルアビブを率いてイスラエル・プレミアリーグを優勝し、コーチングキャリアで初のリーグタイトルを獲得した。

 

2014-15シーズンより、スイスのバーゼルを指揮しUEFAチャンピオンズリーグベスト16進出を達成した(ラウンド16で、ポルトガルのポルトに敗戦)。

 

2015-16シーズンより、イタリアのフィオレンティーナの監督に就任した。

 

2018シーズンより、中国の天津権健足球倶楽部の監督に就任した。

 

2019年3月11日、FCジロンダン・ボルドーの監督に就任した。

 

プレースタイル

 

超人的なスタミナで中盤を動き回り、甘いマスクに似合わぬ激しいプレーでボールを奪う。

 

そして、世界最高級の戦術眼で試合を組み立てた。

 

 

底知れぬスタミナであらゆる局面に顔を出し、素晴らしい戦術眼と卓越したボールコントロールによって中盤を支配した「中盤のダイナモ」。

 

 

最大の持味であるダイレクトパスは世界最高と評された。

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