概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1978年5月18日(42歳) | ||
出身地 | アマランテ | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「リッキー」。
2000年代かた2010年代に活躍したポルトガルを代表するセンターバック。
ポルトやチェルシー、レアル・マドリードで活躍した。
獲得タイトル
クラブ
ポルト
- Primeira Divisão/Liga: 1998–99, 2002–03, 2003–04
- Taça de Portugal: 2002–03
- Supertaça Cândido de Oliveira: 2003
- UEFA Champions League: 2003–04
- UEFA Cup: 2002–03
チェルシー
- Premier League: 2004–05, 2005–06, 2009–10
- FA Cup: 2006–07
- Football League Cup: 2004–05, 2006–07
- FA Community Shield: 2005, 2009
レアル・マドリード
- La Liga: 2011–12
- Copa del Rey: 2010–11
代表
ポルトガル代表
- UEFA European Championship: 2016
個人
- UEFA Club Best Defender of the Year: 2003–04
- UEFA Team of the Year: 2004
- UEFA Euro Team of the Tournament: Portugal 2004
- FIFA World Cup All-Star Team: Germany 2006
- Chelsea Players’ Player of the Year: 2008
- FIFA FIFPro World XI Nominee 2005, 2007, 2008, 2011
経歴
クラブ
1978年にポルト近郊の都市アマランテに誕生。
1996-97シーズンにポルトガルの名門FCポルトの下部組織に入団。
翌年にはトップチームでデビューを果たした。
1999-00・2000-01シーズンはレンタル移籍されたが、2002年にジョルジュ・コスタの代役としてジョゼ・モウリーニョに抜擢されると2002-03シーズンには多くのタイトルを獲得。
カルバーリョはポルトガル年間最優秀選手賞を受賞する活躍をした。
2004年にはリーグ、スーパーカップ連覇のほかクラブ2度目となるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たし、チャンピオンズリーグに全試合フル出場したカルヴァーリョもUEFA最優秀DF賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーを獲得した。
また、その年のバロンドールではルート・ファン・ニステルローイと並んでディフェンダー最上位となる9位に選ばれた。
そうした活躍で注目を集めたカルバーリョに対して、2004年夏の移籍市場でインテルやFCバルセロナ、レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッドなどが獲得のための調査を行い、レアル・マドリードは移籍金700万ポンドを提示した。
しかし、ポルト側は2,000万ポンド未満でのオファーは受け付けないとし、そのオファーを拒否した。
その後、ロマン・アブラモヴィッチが買収して資金力を得たチェルシーから移籍金3000万ユーロのオファーを受けた。
その後、モウリーニョ、パウロ・フェレイラと共にチェルシーに移籍。
マルセル・デサイーに代わる存在としてジョン・テリーらとともに強固なディフェンス陣を形成し、50年ぶりとなるリーグタイトル獲得に貢献すると共に、カーリング・カップの2冠を達成する。
ノリッジ・シティ戦では初得点も記録。
2005-06シーズン、カルバーリョは開幕戦に自身を出場させなかったモウリーニョに対し公の場で不満を爆発させた。
それに対してアーセナル戦でメンバー漏れし、8万5000ポンドの罰金を科せられた。
その後本人は謝罪。この直後に1試合だけ左SBで出場させられた。
その試合では1得点決めている。
2006-07シーズンはチェルシーの選手の多くが怪我に見舞われ、テリーに変わってディフェンスリーダーを務める機会も多くなった。
そのシーズン、モウリーニョは「06-07シーズンではチェルシーでもっとも信頼の置けるディフェンダー」と語った。
4月7日に行われたトッテナム戦では、30ヤードの距離からシュートを決めた。
4月28日のボルトン戦で足を負傷してしまい、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝セカンドレグのリヴァプール戦、FAカップ決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦に欠場した。
2007-08シーズンは、モウリーニョが去ったことによりレアル・マドリードから興味が伝えられるも残留。
チェルシーでの150試合目となるミドルズブラ戦では決勝ゴールも挙げた。
また、4月26日のマンチェスター・ユナイテッド戦でプレミアリーグ100試合出場も達成した。
そして、5月にはジョー・コール、ミヒャエル・バラックらと共にチェルシーのプレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
一方でカルバーリョは、再びモウリーニョの下でプレーしたいと希望を語った。
翌2008-09シーズンでは怪我が増え数週間以上の離脱も多くなっており、18試合の出場に止まった。
2009年夏、カルバーリョは「最初の4シーズンは素晴らしかったが、最後の1年は違った」として、かつての恩師であるモウリーニョが率いるインテルへの移籍を志願した。
結局その年は残留し、コミュニティーシールドを獲得したほか、プレミアリーグ、FAカップも制した。
8月9日に行われたマンチェスター・ユナイテッドとのコミュニティーシールドでは、ルイス・ナニのゴールによって1点ビハインドで迎えた後半にダイビングヘッドから同点ゴールを決めるなど勝利に貢献し、その試合のマン・オブ・ザ・マッチにも選ばれた。
その後も12月20日のウェストハム・ユナイテッド戦でチェルシーでの200試合出場を果たした。
しかし、2010年3月24日のポーツマス戦でまたしても負傷してしまった。
チームを離れている間、テリーとアレックスがファーストチョイスとなり、さらにポルトガル代表監督であるカルロス・ケイロスが、カルバーリョが南アフリカW杯のメンバーに入れない可能性も示唆した。
その怪我によってリーグ戦やFAカップ決勝に出場することが出来なかったカルバーリョは、チェルシーからの退団、そしてモウリーニョが新たに監督として就任したレアル・マドリードへの移籍願望を語った。
2010年8月10日、移籍金670万ポンドの2年契約(1年の延長オプション付き)でレアル・マドリードに移籍、三度モウリーニョの下でプレーすることとなった。
マジョルカとのリーグ開幕戦では先発出場し、ホーム初戦である第2節オサスナ戦ではクリスティアーノ・ロナウドのパスから決勝点となる移籍後初ゴールも挙げた。
その後も多くの試合に先発出場し、サンティアゴ・ベルナベウで行われたアトレティコ・マドリードとのダービー戦でも前半13分に得点を決め、試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
出場すれば経験豊富な老獪な技術で守備陣を統率するも、近年は加齢もあってか負傷の頻度が増えている。
2011-12シーズンは背中やひざなどの故障に悩まされ、2012年1月18日に行われたコパ・デル・レイでのエル・クラシコで4ヶ月ぶりに戦線復帰した。
しかし、その後もセルヒオ・ラモスとペペらが重宝され、出場機会は激減。2012-13シーズンは開幕前に移籍先を探していたが結局見つからず、契約延長オプションで残留したが、ラファエル・ヴァラーヌに背番号2を奪われ、遂に構想外となった。
しかし、シーズン中盤にペペが怪我で長期離脱しラモスも長期出場停止処分を受けてしまい、CBの層が一気に薄くなってしまうという事態に陥った事で、再びカルバーリョは出場機会を得て、そこで以前のような輝きを見せチームの窮地を救った。
2013年5月28日、自由契約でASモナコに移籍、契約期間は1年。
2017年2月15日、中国サッカー・スーパーリーグ・上海上港に加入した。
シーズン終了後に現役引退。
代表
2003年10月11日、アルバニアとの親善試合でポルトガル代表デビュー。
EURO2004のグループリーグ初戦であるギリシャ戦後、フェルナンド・コウトからスターティングメンバーの座を奪った。
大会では優秀選手に選ばれ、ポルトガルの準優勝にも貢献。
アラン・ハンセンにソル・キャンベルと共に大会で最も優れたディフェンダーに挙げられた。
ドイツW杯の準々決勝、対イングランド戦でウェイン・ルーニーに股間を踏まれる。
この行為により、ルーニーはレッドカードを掲示されて退場させられた。その際、クリスティアーノ・ロナウドがポルトガルのベンチに向かってウインクする映像が映し出されたことにより、イギリスのメディアはロナウドの抗議がオラシオ・エリソンドの判断に影響を与えたのではないかと推測した。
その試合は結局、PK戦までもつれ込むもポルトガルが勝利した。
準決勝のフランス戦、カルバーリョはペナルティエリア内でティエリ・アンリに対してファールを犯してPKを与えると、ジネディーヌ・ジダンに決められた。
それが決勝点となり、ポルトガルは敗れた。
3-1で敗れたドイツとの3位決定戦には、累積警告で出場することは出来なかった。
その試合を除く全ての試合に出場し、大会のオールスターチーム23人にも選ばれた。
EURO2008では、グループステージのトルコ戦、チェコ戦、準々決勝のドイツ戦の3試合に出場。
南アフリカW杯でも先発に選ばれ、ブルーノ・アルヴェスとDFコンビを組んだ。
2011年8月31日に行われた代表遠征の練習において控え組に回され、それに不満を持ったカルバーリョはパウロ・ベント監督と衝突。
代表キャンプを途中で放棄した。この騒動によってカルバーリョは代表から追放され、ベントも「リカルドが望むなら、私はいつでも彼と話す準備がある。しかし、プロフェッショナルとしての見解で、このままなら私は自分の意見を変えることはない」と語った。
また、カルバーリョも代表引退の考えを明かした。
その後ベントは話し合いの場を設け、代表復帰の可能性も示唆した。
しかし、ポルトガルサッカー連盟はこの騒動を重く受け止め、カルバーリョに対して1年間の代表戦出場停止処分を課した。
2014年10月、新たに監督に就任したフェルナンド・サントスによって3年ぶりに代表に招集された。
2015年3月29日のUEFA EURO 2016予選、セルビア戦では代表では8年ぶりとなるゴールを挙げた。
その後もコンスタントに招集され、本大会のメンバーにも選出。
グループリーグの3試合に出場した。
決勝トーナメントではジョゼ・フォンテにポジションを奪われて出番が無かったが、それでもポルトガル代表の初優勝に貢献した。
エピソード
同郷でありFCポルト時代の恩師であるジョゼ・モウリーニョを最高の監督と語っており、ポルト、チェルシー、レアル・マドリードと異なる3つのクラブでモウリーニョの下でプレーした。
ポルト時代の同僚ベネディクト・マッカーシーによれば、カルバーリョのその練習時の振る舞いは“酷いもの”だったようだ。
『Balls.ie』が元南アフリカ代表FWの言葉を伝えている。
「ジョゼ・モウリーニョがいてくれたおかげで、カルバーリョはかなりラッキーだったと言えるね。
ジョゼは、カルバーリョが他の監督の下ではダメなプレイヤーに落ちぶれてしまうことを十分に分かっていた。
なぜなら彼は月曜から金曜までのトレーニングで酷すぎる最低の人間だったんだよ。
僕が見た中で過去最悪の練習態度だね。
まるで10歳の子供だ。
話していても集中していない。
トレーニングを真剣にやらない最低の男だった」
さらにマッカーシー氏は、モウリーニョとカルバーリョの“不思議な関係”についても語っている。
「練習中、モウリーニョは『リカルド! おいリカルド! もう君は帰れ!』と激怒し、カルバーリョを帰宅させるんだ。
カルバーリョはどこかぼんやりした表情で、マヌケさ。
常にボーッとしてる。どんな表現だって可能だよ。
彼は自分のやるべき仕事を一切やらない。
でもモウリーニョは分かってる。
土曜に試合の日がやってきて、カルバーリョがMVPを獲得することをね。
一体どうしてなんだ? 僕には意味不明だよ。
カルバーリョのような男には強烈なビンタが必要だし、そうすれば目が冷める。
でもカルバーリョにその必要はなかった。
理解に苦しむよ。そ
のシーズン、彼は試合で一度も10点中、7.5点以下の評価にならなかった。
あんなの見たことも経験したこともないよ」
クラブではチャンピオンズリーグを、そしてポルトガル代表でも昨年にユーロを制覇したカルバーリョ。
もしも彼が強烈なビンタを受けていれば、さらなるトロフィーをも獲得できていたかもしれない。
プレースタイル
安定した守備、高いカバーリング能力を有しながらドリブルで効果的なオーバーラップも見せる。
鋭い読みで相手の攻撃を寸断し、ラインコントロールや後方からのビルドアップなど頭脳的なプレーも一級品の守備職人。
冷静沈着な守備と鋭い読みは一級品だ。
正確なポジショニングや機敏さで守備陣に安定を与えるプレースタイルが魅力であり、セットプレーやカウンターから得点を挙げることもできる。
空中戦に強くテクニックもあり、そのプレーはかつてイタリア代表やACミランで活躍したフランコ・バレージとも比較されている。
ファウルまがいの激しいプレーも厭わず、チェルシー時代に「自分の身体はプレミアリーグの一般的なセンターバックに比べて決して強くはない。しかし、激しいプレーやタックルが好きで、芝の上を滑ることが好きだ」と語っている。
チェルシー移籍初年度、タフでフィジカルの強いイングランドの選手に対抗するため2005年5月からジムに通い身体を作った。
厳しいマークやタックルなど人への強さ、ハイボールへの制空権を握る高さ、カバーリングやライン統率をこなす頭脳と守備の資質を高いレベルで備えています。
足元の技術にも優れ両足を難なく使いこなします。
高精度のフィードや時折見せる前線への攻めも武器です。