概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1969年8月2日(51歳) | ||
出身地 | エスピーニョ | ||
身長 | 184cm | ||
体重 | 85kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
ポルトガル史上屈指のセンターバック。
ポルトガルのゴールデンエイジの一人。
21年のプロキャリアの間、ポルトガル, スペイン, そしてイタリア(後者の国で12シーズン)のトップチームで公式戦600試合以上に出場し、それぞれの国でダブルを達成しただけでなく、他にUEFA主催の大会で3度タイトルを獲得した。
代表では100試合以上でプレーし、2002 FIFAワールドカップと3度のUEFA欧州選手権に出場した。
獲得タイトル
クラブ
- ポルト
- プリメイラ・リーガ : 1987-88, 1991-92, 1992-93
- タッサ・デ・ポルトガル : 1987-98, 1990-91, 1993-94
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリヴェイラ : 1991, 1994
- パルマ
- UEFAカップ : 1994-95
- バルセロナ
- プリメーラ・ディビシオン : 1997-98
- コパ・デル・レイ : 1996-97, 1997-98
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1996
- UEFAカップウィナーズカップ : 1996-97
- UEFAスーパーカップ : 1997
- ラツィオ
- セリエA : 1999-00
- コッパ・イタリア : 1999-00, 2003-04
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 1998, 2000
- UEFAカップウィナーズカップ : 1998-99
- UEFAスーパーカップ:1999
代表
- ポルトガル代表U-20
- FIFAワールドユース選手権 : 1989
ポルトガル代表
・UEFA欧州選手権 2位:2004
経歴
クラブ
ポルト近郊のエスピーニョに生まれ、17歳の時にFCポルトの下部組織へ入団した。
1987-88シーズンの1998年6月2日、トップチーム及び1部デビュー戦となったアウェーのアカデミカ・コインブラ戦にフル出場し、1-0の勝利に貢献。
出場はこの1試合のみではあったが、このシーズンのリーグ優勝を「この経験は忘れられない」と後にも語るほどの思い出となった。
その後、3部のFCファマリカンと2部アカデミカ・コインブラにそれぞれ1シーズンずつ貸し出された。
1990年にポルトに復帰すると、すぐさまレギュラーの座を奪取し、4年在籍の間にリーグ2連覇を含め6つのタイトル獲得に貢献した。
その後はイタリアへと活動の場を移し、パルマでは1年目にキャリアベストとなる27試合4ゴールを記録。
UEFAカップでは、同じくセリエAを戦うユヴェントスFCとの決勝戦を2-1で制した。
しかし2年目はナポリから加入したファビオ・カンナヴァーロにポジションを奪われました。
1996年夏にスペインへ渡り、ポルト時代の同僚ヴィトール・バイーアとボビー・ロブソン監督や同胞のルイス・フィーゴと共にリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへ移籍した。
ロブソンの下ではレギュラーとして、しかしルイ・ファン・ハール監督の下ではナダル、ポペスク、ブランといった各国代表選手が揃い定位置を獲得したとは言い難くルイ・ファン・ハール監督の下では出場機会が減少したものの、この2シーズンの間にリーガ制覇とスペイン国王杯連覇を味わった。
また、欧州の舞台に2シーズンとも出場し、UEFAカップウィナーズカップ 1996-97では優勝した。
カンプ・ノウで2シーズン過ごした後にバルサから去ると、1996年6月後半に同僚のイバン・デ・ラ・ペーニャと共にSSラツィオと契約しイタリアへ舞い戻った。
ネスタやミハイロヴィッチからポジションを奪うことは難しかった。
加入1年目にリーグ戦22試合に出場しクラブを2位へ押し上げるのに貢献する中で、最後の大会となったUEFAカップウィナーズカップ 1997-98では、バーミンガムのヴィラ・パークで行われたRCDマジョルカとの決勝戦に残り1分のところで出場、2-1で優勝した。
1999-00シーズンはスクデット獲得の歓喜を味わうも、翌2001年にドーピング検査でステロイドの陽性反応が検出。
10ヶ月の出場停止が言い渡されるが、イタリアサッカー連盟の控訴により最終的に4ヶ月短縮された。
翌シーズンからレギュラーとしてプレーした。
36歳となった2005年、ラツィオから契約更新を打診された。
しかし自身が望む年俸額ではなかったため退団し、11年振りにパルマへ復帰した。
若手が多いチームを豊富な経験で最後尾から鼓舞し復帰後2シーズンをレギュラーとして過ごすも、2007-08シーズンは出場17試合に減少、クラブのセリエB降格や契約満了に伴い現役を引退した。
代表
3部のFCファマリカン所属時代、1989 FIFAワールドユース選手権で4試合に出場し、後に自身も呼ばれることになる黄金世代の一部の選手たち、パウロ・ソウザらと共に4試合出場して優勝し、2年後に再びWユースを制するフィーゴやルイ・コスタらと共にゴールデンエージと呼ばれるようになります。
ここでの活躍が認められ、翌1990年12月19日、1-0で勝利したアメリカとの親善試合でポルトガル代表デビューを果たした。
UEFA EURO 1996, UEFA EURO 2000, そして2002 FIFAワールドカップと常に一番手に選ばれたコウトは、EURO 96でグループリーグ突破を決めたトルコ戦でこの試合唯一となるゴールを挙げ1-0の勝利に貢献した。
1998年W杯予選は9試合に出場するもののドイツとウクライナの前に敗退。
2000年欧州選手権予選では圧倒的な強さで通過し、本大会でも全5試合に出場してベスト4となりました。
2002年W杯予選は6試合戦い、オランダを退けて1位通過で本大会に出場。
ジョルジュ・コスタとコンビを組み本大会に出場。
優勝候補の一角にも挙げられていましたが、アメリカと韓国に敗れて早期敗退となりました。
グループステージ敗退に終わり苦杯を嘗めた。
2003年1月10日のアルバニア戦にて代表100キャップの偉業を達成すると、翌年に母国で開催されたUEFA EURO 2004ではキャプテンに選ばれた。
2004年、地元での欧州選手権では開幕戦のギリシャ戦で敗れたのを機にリカルド・カルバーリョのサブに降格、準優勝という結果と共に後味の悪いものとなりました。
大会終了後、黄金世代の仲間マヌエル・ルイ・コスタ, ルイス・フィーゴ(フィーゴは後に復帰)と共に代表を引退した。
コウトは代表で14年間プレーし、110試合に出場した。
エピソード
元ポルトガル代表GKのヴィトール・バイーアとはFCポルトのユースを共に過ごした同期で、ポルトのトップチームやFCバルセロナ、代表でも一緒にプレーした親友同士でもある。
現役引退から2年後の2010年6月にSCブラガのスポーツディレクターに任命される。
2012年1月31日、ISLのマンチェスター・ハウラーの指揮官に就任。
2012-13シーズンからは、アシスタントマネージャーの職に就いている。
2014年2月、ジェズアウド・フェレイラ監督の退任に伴い同職を離れアントニオ・サルヴァドール会長のアドバイザーへ転任となった。
プレースタイル
守備・攻撃問わず貴重な武器となる空中戦や1対1の局面の強さなどフィジカルに恵まれ、熱い闘争心でチームに絶大なる安心を与えるポルトガル史上屈指のストッパーです。
足の遅さが難点か。
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