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ジョージ・マイカン

バスケ

概略

George Mikan: Tribute Mixtape
誕生日 1924年6月18日
没年月日 2005年6月1日(80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ジョリエット
背番号(現役時) 99
身長(現役時) 208cm (6 ft 10 in)
体重(現役時) 111kg (245 lb)

 

ポジションはセンター。

 

右利き。

 

Mr.バスケットボールの称号を与えられたNBAの偉人である。

 

バスケットボールがビッグマンのスポーツとなったきっかけを作った選手です。

 

現代バスケットボールが形成される上でその発展に最も影響を与えた選手の一人であり、NBA最初期における最重要人物であり、彼の登場以後、バスケットボールは「巨人のスポーツ」となった。

 

デポール大学時代から1940年代当時のバスケットボールの常識を次々と覆し、プロキャリアの大半を過ごしたミネアポリス・レイカーズには三連覇を含む計5回の優勝をもたらす。

 

その支配力があまりにも強大であり過ぎるため、競技のルールに改訂が加えられたほどであり、”ゴールテンディング”や”ショットクロック”、”3秒ルール”、”ペイントエリアの拡大”など、現在のバスケットボールの重要な要素であるこれらのルールは、いずれもマイカンの影響により設けられた。

 

オールNBAチーム選出は6回、NBAオールスターゲーム出場は4回、得点王3回、リバウンド王1回の実績を誇る。

 

1959年に創設されたバスケットボール殿堂では、最初の殿堂入りメンバーの一人に選ばれ、NBA25周年、35周年、50周年に発表された各オールタイムチーム全てに名を連ねた。

 

トレードマークは瓶底のような分厚いレンズの丸渕眼鏡。

 

獲得タイトル

  • NCAA時代
    • オールアメリカンチーム:3回 (1944年, 1945年, 1946年)
    • ヘルムズ・アスレチック財団年間最優秀選手:2回 (1944年, 1945年)
    • The Sporting News 年間最優秀選手:1945年
    • NCAAトーナメント Final4進出:1回 (1944年)
    • ナショナル・インヴィテーション・トーナメント優勝:1945年
  • NBL時代
    • ワールド・プロフェッショナル・バスケットボールトーナメント優勝:1946年
    • 同トーナメントMVP:1946年
    • NBL優勝:1947年
    • オールNBLチーム:1947年
  • BAA/NBA時代
    • オール1stチーム:6回 (1949~1954年)
    • NBAオールスターゲーム出場:4回 (1951~1954年)
    • オールスターMVP:1953年
    • ファイナル制覇:5回 (1949年, 1950年, 1952年~1954年)
  • AP通信選出「20世紀前半の最も偉大な選手」
  • バスケットボール殿堂:1959年
  • NBA25周年オールタイムチーム:1970年
  • NBA35周年オールタイムチーム:1980年
  • NBA50周年記念オールタイムチーム:1996年
  • 得点王:3回 (1949年, 1950年, 1951年)
  • リバウンド王:3回 (1950年, 1951年, 1952年)
  • ファウル王:3回 (1949年, 1950年, 1951年)
当時、マイカンはリーグで最もファウルする回数が多い選手だったことは、彼のプレースタイルの激しさを物語っている。

記録

  • BAA/NBAレギュラーシーズン通算成績
    • 出場試合:439試合 (6シーズン)
    • 通算得点:10,156得点
    • 通算リバウンド:4,167リバウンド
    • 通算アシスト:1,245アシスト
    • FG成功率:.416
    • FT成功率:.782
  • BAA/NBAレギュラーシーズン平均成績
    • 平均出場時間:34.4分
    • 平均得点:23.1得点
    • 平均リバウンド:13.4リバウンド
    • 平均アシスト:2.8アシスト
  • BAA/NBAプレーオフ通算成績
    • 出場試合:70試合
    • 通算得点:1,680得点
    • 通算リバウンド:665リバウンド
    • 通算アシスト:155アシスト
  • BAA/NBAプレーオフ平均成績
    • 平均出場時間:36.6分
    • 平均得点:24.0得点
    • 平均リバウンド:13.9リバウンド
    • 平均アシスト:2.2アシスト

※リバウンド数は1950-51シーズンから、出場時間は1951-52シーズンから計測。

 

経歴

ジョージ・マイカン(George Mikan)ミスターバスケットボール2
1948-1954 ミネアポリス・レイカーズ

 

マイカンが大学を卒業した1946年は第二次世界大戦が終結し、戦地に赴いた男たちが続々と帰還してきた頃であり、アメリカでは帰還兵の受け皿として各地で様々なプロスポーツリーグやプロスポーツチームが誕生し、スポーツ界、特に団体スポーツは賑わいを見せていた。

 

プロバスケットボールの分野でも各地で小さなリーグが乱立していたが(同1946年にはNBAの前身、BAAが誕生している)、各リーグや各チームにとってカレッジバスケで大活躍したマイカンのようなスター選手を確保することは、この乱立状態を生き残るためには必要不可欠なことだった。

 

NBLのシカゴ・アメリカン・ギアズが、マイカンと5年6万ドルの契約を結んだ時、彼はスポーツ史上最も高額の契約を結んだ選手となった。

 

マイカンは1946-47シーズンからギアズに参加。

 

シーズンの最初は各リーグの上位チームやハーレム・グローブトロッターズのようなエキシビジョン・チームも参加するワールド・プロフェッショナル・バスケットボールトーナメントに出場し、マイカンは5試合で計100得点をあげてギアズをトーナメント優勝に導き、トーナメントMVPに選ばれた。

 

シーズン平均16.5得点はNBL1位となり、ギアズはNBLチャンピオンシップも制し、マイカンはオールNBLチームに選出された。

 

ギアズのオーナー、モーリス・ホワイトはマイカンが何か特別なことをやり遂げる機会を彼に与えてくれる存在と感じた。

 

そしてホワイトはギアズをNBLから脱退させ、新たに24チームからなるリーグ、PBLAを創設した。

 

24のチーム、ホームアリーナは全てホワイトの所有という大胆な構想だった。

 

しかし創設間もなく資金繰りは悪化し、最初のシーズンを迎えることなく、1試合も開催されることなくこのPBLAは1947年11月に崩壊してしまう。

 

ホワイトはNBLとの再統合を提案したがNBL側に拒否され、ギアズは解散。

 

結局ホワイトはマイカンに給金を払うことができなくなり、契約を解消、マイカンはフリーエージェントとなった。

 

この瞬間、バスケットボール界のスーパースターを獲得できるチャンスがアメリカ各地に点在するあらゆるチームに発生したが、NBLはギアズを切ることはできてもマイカンまで切ることはできなかった。

 

そしてマイカンを獲得する権利を得たのが1946年に誕生したばかりのデトロイト・ジェムズだった。

 

ジェムズは1947年にミネソタ州ミネアポリスに本拠地を移転し、チーム名をミネアポリス・レイカーズと改名した。

 

大学時代に遠征でミネソタに訪れたことがあるマイカンは、寒冷なこの土地にあまり良い印象を持っておらず、彼の所有権をレイカーズが獲得したことを知ったとき「シベリアにドラフトされた」というジョークを漏らした。

 

しかしレイカーズのオーナー陣はこの稀代のバスケットボール選手をチームに留めておくために、あらゆる労力を惜しまなかった。

 

彼らはまずコーチにジョン・クンドラを招聘し、続けて地元ミネソタ大学で活躍したトニー・ヤロシュやドン・カールソンを獲得、さらにスタンフォード大学のスター選手、ジム・ポラードと12,000ドルの契約を交わしてロスターの強化を図った。

 

そして当のマイカンは弁護士を引き連れてミネアポリスのチーム代表の前に現れたが、3時間の交渉の末に、納得がいかなかったマイカンは席を立ち、空港へ向かおうとした。

 

しかしシカゴ行きの便は最終便が出た後であり、マイカンはもう暫くミネアポリスに拘束されることになった。

 

そして交渉は再開され、この交渉は翌朝まで続き、さしものマイカンも粘りに粘るレイカーズ代表陣の前に閉口せざるをえなくなった。

 

マイカンはレイカーズとの契約にサインした。

 

マイカンを筆頭に多くのスター選手を揃えたレイカーズはミネアポリスとセントポールで大きな支持を集め、2つの都市でホームゲームを行った。

 

レイカーズは他チームを圧倒し、2位のトライシティーズ・ブラックホークスに大差を付けてデビジョン1位の成績を収め、プレーオフでは1回戦でオクショシュ・オールスターズを、2回戦でブラックホークスを破ってファイナルに進出。

 

ボブ・デイヴィス擁するロチェスター・ロイヤルズと対決し、これを破ってNBL優勝を果たした。

 

このシーズンを前後して、NBLのライバルリーグ、BAA(後のNBA)がNBLを吸収しようとする動きを見せ始めた。

 

古参のNBLの方に多くの有力な選手が所属していたが、大都市を拠点としているチームが多いのはBAAであり、資金力ではBAAの方が上回っていた。

 

そしてBAAはNBL吸収に向けて本格的な行動に出て、1948年にはNBLから比較的市場の大きい都市に本拠地を置く4つのチームを引き抜いた。

 

その中に含まれていたのがミネアポリス・レイカーズだった。

 

他はフォートウェイン・ピストンズ、インディアナ・ジェッツ、そして当時のレイカーズのライバルチーム、ロチェスター・ロイヤルズである。

 

マイカンのBAA(NBA)キャリアは1948年から始まり、同時にロチェスター・ロイヤルズとのライバル関係も再開された。

 

マイカンの所属するレイカーズとロイヤルズは同じウエスタン・デビジョンに編入され、レイカーズの44勝16敗に対し、ロイヤルズは45勝をあげてデビジョントップに立った。

 

マイカン自身は平均28.3得点、通算1,698得点をあげて得点王に輝き、オールBAA1stチームに選出され、マイカンがBAAでも一流選手であることが証明された。

 

もし当時BAAにシーズンMVPが存在したならば、マイカンには受賞する資格が十分にあったが、MVPが新設されるのはマイカンが引退して後の1956年のことであり、マイカンは同賞を受賞することはなかった。

 

プレーオフ1回戦では実弟のエド・マイカンが所属するシカゴ・スタッグズを、デビジョン決勝でライバルのロイヤルズをいずれも全勝で破り、圧倒的強さでファイナルに進出。

 

4戦先勝のファイナルでレイカーズはレッド・アワーバックが指揮するワシントン・キャピトルズ相手に3連勝を飾り、ファイナルをも全勝で制すかに思われたが、第3戦でマイカンを不運が遅い、キャピトルズのクレギー・ハームセンとの衝突で手首を負傷。

 

マイカンは大きく腫れあがった手をギプスで固めて次戦に強行出場するも、レイカーズは第4戦、第5戦を連敗してしまう。

 

しかし第6戦ではマイカンが30得点と爆発し、レイカーズは77-56でキャピトルズに完勝。

 

レイカーズは前年のNBLチャンピオンに続いてBAAのタイトルも獲得した。

 

マイカンはポストシーズン中平均30.3得点の大活躍だった。

 

1949年にはNBLが消滅。シラキュース・ナショナルズを含む計6チームがBAAに加盟し、新たにNBAが誕生する。

 

リーグ再編に伴いレイカーズはセントラル・デビジョンに編入した。

 

同年のドラフトでレイカーズはテキサス大学ポイントガードのスレーター・マーティンと、当時ほとんど無名の存在だったパワーフォワードのヴァーン・ミッケルセンを獲得。

 

マイカン、ポラード、ミッケルセン、マーティンの4人は後にNBA最初の王朝を築くことになる当時のレイカーズの核となり、特にセンターのマイカンにフォワードのポラード、ミッケルセンのフロントラインは史上最高とも謳われるユニットとなった。

 

迎えた1949-50シーズン、マイカンは平均27.4得点、通算1,865得点をあげて2年連続の得点王とオールNBA1stチームに輝く。

 

レイカーズは同デビジョンのロイヤルズと同率の51勝17敗をあげるが、タイブレークにてレイカーズが勝利し、プレーオフ第1シードの座を手に入れると、プレーオフでは1回戦、2回戦、ファイナル準決勝をいずれも全勝で勝ち上がり、2年連続ファイナルに進出。

 

マイカンと並ぶビッグマンのドルフ・シェイズを擁するシラキュース・ナショナルズとのシリーズを4勝2敗で制し(第1戦ではレイカーズのボブ・ハリソンが40フィートの距離から逆転ブザービーターを決めるという劇的な場面が見られた)、レイカーズはNBL、BAA、NBAと異なる3つのリーグで優勝を果たした。

 

創部1年目にして早くも経営難に陥るNBAは、1950-51シーズンには所属チームが17から11に減少する。

 

その中でリーグ最高のスーパースターを擁するレイカーズはリーグ1位となる44勝26敗をあげ、マイカン自身は平均28.4得点、通算1,932得点をあげて3年連続得点王に輝き、またこの年から計測が始まったリバウンド部門では平均14.1、通算958リバウンドをあげ、ドルフ・シェイズに次ぐリーグ2位の成績を収めた。

 

初開催されたNBAオールスターゲームでは12得点11リバウンドをあげており、またこの時に投票によって「半世紀における最も偉大なバスケットボール選手」にも選ばれている。

 

しかしシーズン後半には足を骨折し、回復しないままプレーオフに突入。

 

足を引き摺りながらも平均24.0得点をあげる活躍をみせるが、デビジョン決勝でボブ・デイヴィス、アーニー・ライゼン擁するロイヤルズに破れ、3年連続の優勝はならなかった。

 

1951-52シーズン、リーグはゴール下に設けられた制限区域(ペイントエリア)をこれまでの6フィートから倍の12フィートへと拡大するが、このルール改正がマイカンを標的にしていたことは疑いなかった。

 

制限区域拡大を主張したニューヨーク・ニックスのヘッドコーチ、ジョー・ラブチックはマイカンを最大の敵を見なしており、また従来の制限区域から2倍の距離からのポストプレーを得意としていたマイカンに、新たに設定された12フィートは彼のポストプレーのあからさまな妨害だった。

 

このルール改正は”マイカン・ルール”とさえ呼ばれた。

 

新シーズンのマイカンの成績はBAA加入以来最低となる平均23.8得点、FG成功率38.5%まで下降し、初めて得点王の座を逃した(得点王は当時の最新技術であるジャンプシュートを得意としたポール・アリジン)。

 

一方平均13.5リバウンドはリーグトップの成績だった(当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていたため、リバウンド王ではない)。

 

またダブルオーバータイムまでもつれたロイヤルズとの試合ではキャリアハイとなる61得点をあげ、これはジョー・ファルクスが1949年に記録した63得点に次ぐ当時歴代2位の記録だった。

 

オールスターでは26得点15リバウンドをあげている。

 

プレーオフではインディアナ・オリンピアンズ、ロイヤルズを破ってファイナルに進出し、マックス・ザスロフスキー、ハリー・ギャラティン、そしてNBA初の黒人選手であるナサニエル・クリフトン擁するニューヨーク・ニックスと対決。

 

このファイナルは第7戦まで、いずれのチームも本来のホームアリーナでプレーできなかったという奇妙なシリーズでもあった。

 

レイカーズのミネポリス・オーディトリアムもニックスのマディソン・スクエア・ガーデンもファイナル期間中は他の予定で埋まっており、レイカーズのホームゲームはセント・ポールで、ニックスのホームゲームはバスケットの試合には不向きなw:69th Regiment Armouryで行われた。

 

マイカンはニックスのギャラティンとクリフトンの執拗なマークに苦しんだが、ヴァーン・ミッケルセンがレイカーズを牽引し、シリーズは第7戦までもつれた。

 

第6戦はようやくマディソン・スクエア・ガーデンで行われるが、レイカーズは敵地で82-65の勝利をあげ、シリーズを4勝3敗で制し、2年ぶりに王座を奪回した。

 

1952-53シーズンには平均14.4リバウンド、通算1,007リバウンドをあげてリーグ初のシーズン通算1,000リバウンド達成者となり、そして自身初のリバウンド王に輝き、オールスターでは22得点16リバウンドをあげてウエストチームを勝利に導き、初のオールスターMVPを受賞する。

 

一方で過去に3年連続の得点王に輝いたマイカンだったが、このシーズンも平均20.6得点(リーグ2位)と2年連続で過去最低を更新した。

 

前年の制限区域拡大の影響に加え、このシーズンは各チームがマイカンが好ポジションでボールを受け取るとすぐにファウルを仕掛けたからである。

 

マイカンはこのファウルゲームに対抗するため、アウトサイドからでもショット可能なジャンプシュート習得に取り組み始めた。

 

レイカーズはリーグ1位となる48勝22敗の成績を収め、プレーオフではオリンピアンズ、ピストンズを破って2年連続でファイナルに進出。

 

相手は新たに優秀なスコアラーのカール・ブラウンを加えた前年と同じ相手のニックスだった。

 

レイカーズは初戦を勝利するが、第2戦を落としてしまう。

 

この敗退にコーチのジョン・クンドラはマイカンが我を失っているように感じ、急遽、大学時代のマイカンの恩師、レイ・マイヤーを呼び寄せ、レイカーズベンチに控えさせた。

 

第3戦、マイヤーは慣れないジャンプシュートを繰り返すマイカンを見て、ハーフタイム中に彼を叱り飛ばし、マイヤーが大学時代に叩き込んだフックシュートに戻れと説いた。

 

コートに戻ったマイカンは何時ものマイカンだった。

 

後半だけで30得点をあげたマイカンはレイカーズを90-75の圧勝に導くと、レイカーズは第4戦、第5戦も勝利し、4勝1敗でこのシリーズを制して、2度目のファイナル連覇を成し遂げた。

 

1953-54シーズンは慢性的な膝の痛みに苦しみ、初の平均20得点割れとなる平均18.1得点14.3リバウンドの成績だったが、新人クライド・ラブレットがマイカンを補佐し、レイカーズは2年連続リーグ1位となる46勝26敗の成績をあげた。

 

プレーオフは3年連続でファイナル進出を果たし、シラキュース・ナショナルズと対決。

 

第7戦までもつれる接戦だったが、レイカーズはこれを制し、ついに前人未到の三連覇を達成。

 

6年間で2連覇1回、3連覇1回、計5回の優勝(NBL時代も含めれば計6回)を果たすNBA初の王朝チームとなった。

 

この6年間でレイカーズの優勝を阻むことが出来たのは、1950年に骨折を負ったマイカンの足だけだった。

 

1954年、NBAは当時のリーグを悩ませたロースコアゲームの頻発に対処するため、24秒バイオレーション(ショットクロック)を導入。

 

マイカンは熾烈なハーフコートバスケットの時代に終わりが訪れたことを感じた。

 

マイカンは新シーズンの1954-55シーズンのトレーニングキャンプ3日前に引退を決意。

 

引退会見では「家族の側に居たい」「バスケット以外の分野に進む時が来たんだ」と語っている。

 

故障も引退の理由の一つだった。

 

彼の足が負った骨折は10箇所、縫合箇所は16箇所に及んでおり、そのダメージは限界に達していた。

 

マイカンを失ったレイカーズは偉大な選手の後をクライド・ラブレットが引き継ぎ、40勝32敗と健闘を見せるが、プレーオフは途中敗退し、レイカーズの連覇はここで途絶えた。

 

レイカーズが次に優勝するのは1970年代に入ってのことである。

 

1955-56シーズンにはマイカンの盟友、ジム・ポラードも引退し、レイカーズは開幕から負け越す状態が続いた。

 

レイカーズはチームの危機を前にチームの英雄に救いを求め、マイカンに現役復帰を嘆願。

 

マイカンはこれに応え、1955-56シーズン中に復帰を果たしたが、1年以上のブランクと足の故障により、全盛期の動きとは程遠く、37試合の出場で平均10.5得点8.3リバウンドの成績で、チームも33勝39敗と負け越し、プレーオフではリーグの新エースとなったボブ・ペティット率いるセントルイス・ホークスに敗れた。

 

シーズン終了後、マイカンは改めて引退を表明し、今度こそ現役から退いた。

 

NBL、BAA、NBA3リーグ通じてのキャリア通算11,764得点は引退した時点では歴代1位の成績だった。

 

エピソード

George Mikan Scouting Video (First Dominating HOF NBA center)

現在のバスケットボールはジョージ・マイカンの存在を無くして語れない。

 

彼は現代バスケットボールのパイオニアであり、現代的なセンターのプロトタイプであり、世界のプロバスケットボールの頂点を極めるNBA最初のスーパースターであり、プロバスケットボール発展の原点だった。

 

マイカンという存在がなければ、現在のバスケットボールは全く違った姿に進化した可能性すらある。

 

現在でこそバスケットは”巨人の領域”とされNBAの平均身長は2mを越しているが、1940年代以前は6フィート(約183cm)以下の選手が主流であり、その中の何人かはダンクを決めることができたが基本的には”リングより上の世界での戦い”は想定されていなかった。

 

僅かに居たビッグマンは鈍重な存在でしかなく、それでも当時はシュートが決まる度にコート中央のセンターサークルでジャンプボールによって試合が再開されていたためビッグマンたちの活躍の場はあったのだが、1937年にそのルールが廃止されてからはコート上にはビッグマンたちの僅かな居場所も無くなってしまった。

 

208cmと当時としてはずば抜けた長身に加え、俊敏性も備えていたマイカンの登場は、それ以前の”巨人像”を覆した。

 

フックシュートで次々と得点を決め、長身を利用してリバウンドを奪い、敵のシュートをブロックショットで叩き落す。

 

まさしく現代のセンターのスタイルそのものであるマイカンの活躍は所属チームを次々と栄光の階段へと上らせた。

 

1937年以前はゲーム再開の度にコートの真ん中でボールの保持権を巡ってジャンプするだけだったセンターは、マイカンの登場以後はチームの主要得点源であり、チームのディフェンスの要であり、試合の行方を大きく左右するバスケットボールの支配者となったのである。

 

マイカンの成功は後世の模範となり、チームの成功の鍵は如何に優秀なビッグマンを獲得するかに重点が置かれ、NBAドラフトでは毎年上位にビッグマンの顔ぶれが並び、また歴代優勝チームはほぼ全てにその時代を代表するセンターが所属している。

 

“巨人のスポーツ”となったバスケットの以後の歴史は、このビッグマンたちの影響力を如何にして抑えるかの工夫の歴史でもあり、ゴールテンディング、制限区域の拡大、3秒バイオレーション、スリーポイントシュートの導入などは、いずれもセンターの影響力を制限する効果があった。

 

遺産

 

ルール変更
  • ゴールテンディング:大学時代、マイカンが敵のシュートがバスケットを通過する前に次々とブロックで叩き出してしまうため、1943年から導入。バスケットより上にある落下中のシュートはブロックできなくなった。

 

  • 制限区域の拡大:マイカンをゴールから遠ざけるために、NBAは制限区域を当時の6フィートから12フィートへと拡大。このルール変更は”マイカン・ルール”と呼ばれた。

 

  • ショットクロック:1950-51シーズンはある意味でNBAの伝説的シーズンとなった。11月22日のレイカーズ対フォートウェイン・ピストンズ戦で、18-19という衝撃的な最終スコアが叩き出されたのである。両チームの合計得点37点は、NBA歴代最低記録である。これは当時、手のつけようがない程に圧倒的な強さを誇ったマイカン対策のために、ピストンズがレイカーズに攻撃権が移らないよう、長時間に渡ってボールを保持し続けた結果であった。マイカンにボールが渡れば高い確率でシュートを決められ、またピストンズのシュートが外れればマイカンが高い確率でリバウンドしてしまうからであり、とにかくマイカンには徹底的にボールを触らせないというこの戦術で、ピストンズはレイカーズから1点差で勝利した。しかしボールを保持し続けるだけの試合が面白いはずもなく、当然のように観客からは抗議が殺到し、当時同様の戦術(一旦リードを奪ったチームが残りの時間をひたすらボールを保持するためだけに費やす)がリーグ全体に広がっていたことにオーナー陣は危機感を募らせた。その結果、1954年には24秒バイオレーション、すなわち”ショットクロック”が導入されることになるのだが、バスケットという競技そのものに一大変革をもたらすこの新ルール導入の切っ掛けには、マイカンの存在も無関係ではなかった。なお、この試合でマイカンはレイカーズの18得点のうち15得点をあげており、またチームのFG成功率83.3%は1試合の成功率としては歴代最高の数字であり、おそらく今後も破られることはないと考えられている。

 

  • スリーポイントシュート:選手としてではなく、役員としてABAコミッショナー時代に初めてスリーポイントシュートを試合に本格導入した。

 

練習法
  • マイカン・ドリル:大学時代のマイカンが徹底的に繰り返した練習法。ゴール直下で左右両方の腕から交互にシュートを繰り返すこの練習法は、アマチュアからプロレベルまで、アメリカ国内外問わずあらゆる地域のバスケット選手たちの基本練習となっている。

 

その他
  • マルチカラーボール:ABAコミッショナー時代に採用した赤、青、白の3色ボールは、現在NBAではオールスターで開催されるスリーポイントシュート・コンテストで、マネーボールとして使用されている。

 

  • ミネソタ・ティンバーウルブズ:マイカンが誘致活動を展開した結果誕生したチーム。

 

 

マイカンは初期のNBA発展に大きく寄与した。

 

マイカンは当時間違いなくリーグ最高のスーパースターであり、同時にNBA唯一のスーパースターでもあった。

 

バスケットボールリーグは野球やフットボール、ホッケーなどの他のメジャースポーツリーグほど成熟しておらず、創設間もないNBAの存在もまだまだ小さいものであり、スター選手と呼べる存在はマイカンくらいだった。

 

リーグはそんなマイカンの存在を最大限に利用しようとした。

 

1949年12月、大都市ニューヨークで行われたレイカーズ対ニューヨーク・ニックス戦では、マディソン・スクエア・ガーデンに”G.マイカン対ニックス”という看板が掲げられ、この看板を見たマイカンのチームメートたちが「私たちは出場する必要ないじゃないか」と試合をボイコットしようとする場面があった。

 

またマイカンはチームメートとは別に、前日に遠征先に入って現地の新聞やラジオのインタビューをこなすなど、忙しい日々を過ごした。

 

マイカンは引退後の1956年の下院議員選挙においてミネソタ第3選挙区から共和党候補として立候補し、現職のドワイト・アイゼンハワー大統領からも熱心なサポートを受けた。

 

投票結果は現職ロイ・ワイアーの127,356票に対しマイカンは117,716票と及ばず、落選している。

 

バスケットのオフシーズンを利用してデポール大学に戻り、法学の学位を取得していたマイカンは、選挙後は法律専門家の道を志したが挫折し、約6ヶ月の間は定職に就けず、マイカンは経済的な困難に直面した。

 

1958年にはゼネラルマネージャー職も兼任していたジョン・クンドラの要請でレイカーズに戻り、1957-58シーズン途中からクンドラの後を継いでレイカーズのヘッドコーチに就任するが、マイカンのコーチ人生も失敗に終わる。

 

マイカンが指揮した期間、レイカーズは9勝30敗、勝率.231に沈み、このシーズンのレイカーズの成績、19勝53敗はレイカーズの歴代最低勝率となってしまい、マイカンはシーズン終了後に解任された。

 

その後は法律の仕事に専念し、不動産法関連の会社で成功を収め、6人の子供の父親はようやく経済的安定を取り戻した。

 

1967年、マイカンは再びプロバスケットボールの世界に戻る事になるが、彼が戻った先はNBAではなく、新しく誕生したプロリーグ、ABAであり、彼は初代リーグコミッショナーとして招かれた。

 

9年間と比較的短命に終わるABAだがアメリカのプロバスケットボールの歴史に無視できない足跡を残す存在となり、そのABAを特徴付けた2つの要素を取り入れたのはマイカン・コミッショナーだった。

 

1つ目は赤、白、青の3つの色を使った公式ボールである。

 

カラーテレビ放送と星条旗を意識したこのカラフルなボールは、ABAの象徴的存在として今日までオールドファンの記憶に深く刻まれている。

 

もう1つはスリーポイントシュートであり、NBAがスリーポイントシュートを導入したのはABAが消滅した後の1979年のことだった。

 

1969年にコミッショナーを辞任したマイカンは法律業に戻り、時にはその知識を活かして、NBA選手の権利擁護運動にも従事した。

 

彼が現役時代を過ごしたミネアポリス・レイカーズは1960年にロサンゼルスに移転してしまうが、マイカンはミネソタでプロバスケットボールチームの誘致活動を展開し、1989年にはミネソタ・ティンバーウルブズが誕生する。

 

1994年に誕生したインラインホッケーのプロチーム、シカゴ・チーターズには取締役員として参加するが、このチームは僅か2年で解散した。

 

2001年にミネソタ・ティンバーウルブズのホームアリーナ、ターゲット・センターの前にフックシュートを打つ瞬間を模したマイカンの彫像が建てられた。

 

プレースタイル

George Mikan PRIME Game Highlight vs Pistons 1952

リーグで初めての“ゴール下の制圧者”となった選手である。

 

得点、リバウンド、ブロックとマイカンは当時、ゴール下で無双しました。

 

バスケットボールがビッグマンのスポーツとなったきっかけを作った選手です。

 

現在のように“24秒ルール”も無く、バスケットボールが必ずしも「どんどん得点を重ねる…」というゲームではなかった時代、439試合に出場して平均23.1得点というのは驚異だった。

 

そしてこのマイカンはリバウンドの名人としても知られ、平均9.5リバウンドを記録している。

 

所謂“フック・シュート”という、大きな手でボールを掴み、腕を振り上げて高い打点から放つシュートのスタイルの“元祖”というべき存在でもある。

 

マイカンの得意技は「フックシュート」

 

左右どちらの手でも正確にシュートすることができました。

 

「マイカンドリル」って今でも有名です。

 

左右でフックシュートをくり返す練習方法です。

 

それをつくった人がマイカンです。

 

ゴール近くでマイカンにボールを持たれたらもう負け。

 

無敵だったらしいです。

 

レイカーズの作戦は当然「マイカンにボールを入れろ」です。

 

そりゃそうですね。

 

パスが通れば2点みたいなものですから。

 

マイカンは体を張って、ゴール下にポジションを取り続けます。

 

最初のうちはディフェンスもがんばりますが、3秒、5秒と時間がたてばたつほど、ボールを入れられてしまいます。

 

こうなるとディフェンスは守りようがないのです。

 

圧倒的に有利なマイカンを止める方法として、ルールが変更されたのです。

 

それが「3秒」バイオレーション。

 

  • マイカンを止めるのは不可能
  • だからルールで制限区域というものをつくって
  • その中には3秒以上いてはいけない

 

と決めました。

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