概略
誕生日 | 1975年6月7日(45歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | バージニア州ハンプトン |
出身 | ジョージタウン大学 |
ドラフト | 1996年 1位 |
背番号(現役時) | 3 , 1 |
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身長(現役時) | 183cm (6 ft 0 in) |
体重(現役時) | 74.8kg (165 lb) |
足のサイズ | 29.0cm |
ポジションはシューティングガード、ポイントガード。
右利き。
ニックネームは”A.I.”、”THE ANSWER”。
NBAにおいては、フィラデルフィア・76ers、デンバー・ナゲッツ、デトロイト・ピストンズ、メンフィス・グリズリーズの4チームで、14シーズンに亘ってポイントガードとシューティングガードの両ポジションをこなすコンボガードとしてプレーする中で、11度のオールスター出場で、2001年、2005年に、2度のオールスターMVPを獲得するほか、NBAシーズン得点王は4回。
2001年にはMVPを獲得している。
76ers時代の背番号“3”は、2014年3月、永久欠番となった。
2008年、ESPNが選んだ偉大な歴代シューティングガードの5位に選ばれている。
1位からマイケル・ジョーダン、コービー・ブライアント、ジェリー・ウェスト、ジョージ・ガービン、アイバーソンの順で、主にPER(プレーヤー効率評定)での順位付けであった。
受賞歴 | |
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獲得メダル | |||||||||
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経歴
選手経歴 | |
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1996-2006 2006-2008 2008-2009 2009 2009-2010 2010-2011 |
フィラデルフィア・76ers デンバー・ナゲッツ デトロイト・ピストンズ メンフィス・グリズリーズ フィラデルフィア・76ers ![]() |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
1996年のNBAドラフトでフィラデルフィア・セブンティシクサーズによって全体1位で指名された。
史上最も身長が低いドラフト1位としても話題になった。
1996-97シーズン、新人ながらリーグ6位の1試合平均23.5得点、同11位の7.5アシスト、同7位の2.07スティールを記録、新人記録となる5試合連続40得点の活躍などでルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)、オールルーキー1stチームに選ばれた。
アイバーソンの活躍によってシクサーズのチケットは飛ぶように売れた。
ルーキーにも関わらずマイケル・ジョーダンと真正面から1対1をしかけるなど、度胸の強さを見せ付けた。
一方で「ジョーダンであっても尊敬しない」というコメントは物議を醸した(後に「コート上で尊敬の念を持ちすぎるのはよくない(気持ちで負けてしまう)。コートを離れれば尊敬している。」と釈明している)。
1997-98シーズンにラリー・ブラウンがヘッドコーチに就任し、平均得点は22点に落ちたものの、フィールドゴール成功率は向上し、チームも前年を上回る勝率を残した。
1998-99シーズン、ポイントガードからシューティングガードにコンバートされると更に得点を量産するようになり、平均26.8得点を記録し初の得点王を獲得、得点王としてはNBA史上最も低い身長の選手である。
オールNBA1stチームにも選ばれた。
またプレイオフにも初めて出場。
1回戦のオーランド・マジック戦では、第3戦にプレイオフ記録の10スティールを決めるなど活躍し、アップセットの原動力となった。チームはカンファレンスセミファイナルまでコマを進めた。
1999-2000シーズン、平均得点を28.4まで伸ばし、初のオールスター、オールNBA2ndチームに選出されるも、プレーオフでは2年連続でインディアナ・ペイサーズに歯が立たず、最後の試合終了後には悔し泣きする姿がみられた。
2000-01シーズンはラリー・ブラウンの我慢強いコーチングによってチームプレーの大切さと集中力を切らさないメンタルケアによって心技体が安定し、平均31.1得点を記録して再びの得点王、そしてスティール王に輝き、加えてオールスターMVP、シーズンMVPも受賞するなど、まさに破竹の勢いであった。
プレーオフに進んでも、2ndラウンド第2戦(対トロント・ラプターズ)でプレイオフのチーム記録となる54得点、第5戦でマイケル・ジョーダン以来の同一シリーズでの複数50得点超えとなる52得点を記録。
カンファレンスファイナルでは大学時代からのライバル、レイ・アレンの率いるミルウォーキー・バックスと7戦までもつれる死闘を展開、第7戦では口内の流血を隠しながらプレーを続け(出血がある選手の出場は禁止されている)、第7戦における歴代4位タイとなる44得点を挙げて、チームを1983年以来のNBAファイナル進出に導いた。
ロサンゼルス・レイカーズとのファイナルでは、第1戦、試合はオーバータイムまでもつれた末、マッチアップのティロン・ルーをクロスオーバードリブルで振り切って放ったジャンプシュートを決め勝負をモノにしたが、続く4試合を続けて落とし1勝4敗で敗退した。
2001-02シーズン、2年連続で得点王とスティール王となったが、チームはプレーオフ1回戦で敗退した。
2002年2月に地元フィラデルフィアで行われたオールスターにはジュリアス・アービングが付けていた背番号「6」で出場した。
プレーオフでも平均得点30.0を記録するものの1回戦敗退。
2002-03シーズン、キャリア初となる82試合フル出場を果たし、3年連続スティール王となったが、チームはプレーオフ2回戦で敗退した。
平均得点は27.6とし、プレーオフでは平均得点31.7と爆発するが敗退。
2003-04シーズン、肩や膝の怪我で34試合に欠場しフィールドゴール成功率は自己最低を記録した。チームはプレーオフ進出を逃した。
2004年オフ、アテネオリンピックに代表選手として出場したが、銅メダルに終わった。
国際大会の参加には消極的な選手が多い中、強い参加意欲を示しているアイバーソンだが、今大会以降招集はされていない。
2004-05シーズン、ポイントガードに戻り自己最高の平均7.9アシストを記録すると共に、自身4度目となる得点王のタイトルを獲得。
4度の得点王はジョージ・ガービンと並んで史上3位タイである(その上には、マイケル・ジョーダンとウィルト・チェンバレンしかいない)。
チームは第7シードでプレーオフに進出するが、デトロイト・ピストンズ相手に1勝しか出来ず敗退した。
2005-06シーズン、得点は自己最高の1試合平均33得点、7.4アシストと奮闘するも、チームが結果的に効果の薄いトレードを繰り返したこともあり、自身の活躍が勝敗に結びつかない状況となった。
この年はプレーオフを逃した。
しかしアイバーソンの個人成績としてはキャリア最高クラスの成績を残した。
アイバーソン個人としては華々しい成績を収めながらも、チーム成績は下降線を辿る一途のため、シクサーズは再建を図るためにチームの解体を余儀なくされていた。
そしてついに2006年12月19日、アイバーソンはアンドレ・ミラー、ジョー・スミス、2つの2007年のドラフト1巡目指名権と引き換えに、イヴァン・マクファーリンと共にシクサーズからデンバー・ナゲッツへトレードされた。
その時点でNBA得点ランキングで2位であったが数試合欠場した上での移籍となり、プロ入り以来10年以上在籍したチームに別れを告げた。
2006-2007シーズン、ナゲッツに移籍してからの平均得点は24.8としたもののFG、3P成功率は向上しシクサーズ時代にみられたセルフィッシュなプレイは少なくなった。
またナゲッツにはアイバーソンが移籍した当時、得点王ランキング1位だったカーメロ・アンソニーが所属しており、アイバーソンとアンソニーはリーグで最も強力なスコアリングデュオとして期待されるようになった。
2007年1月23日には通算20,000得点を達成した。プレーオフには出場したがティム・ダンカン、トニー・パーカー、エマニュエル・ジノビリのビッグスリーを擁するサンアントニオ・スパーズに1勝4敗で敗れた。
アイバーソンもFG36%、平均得点も22.8とシーズンの成績を下回る成績で不完全燃焼でシーズンを終えた。
2007-2008シーズン、シーズン当初PGでプレイしていたもののアンソニー・カーターがPGについたこともあり、SGに戻された。以後は51得点するなどハイアベレージを記録するようになり、一時期は得点ランキングで2位までつけた。
チームのエースはアンソニーだったが、主導権は徐々にアイバーソンが握るようになり、最終的には平均26.4得点を記録し、アンソニーを抑えてチームハイの成績を収めた。
チームは50勝32敗の好成績を収めたが、シード権は第8シードとなり、1回戦で第1シードのレイカーズと対戦。スイープ負けを喫した。
翌2008-09シーズン、ナゲッツとの契約延長を希望するアイバーソンに対し、チームは開幕前から今シーズンで契約が切れるアイバーソンをトレードに売り込んでいた。
そして、開幕わずか6日後の11月3日、チャンシー・ビラップス、アントニオ・マクダイスらとのトレードでデトロイト・ピストンズへ電撃移籍することが決まった。
デンバーまでの背番号は「3」だったが、デトロイトにはすでに3番をつけているロドニー・スタッキーが居たため背番号を「1」にした。
アイバーソン加入後、ピストンズは過去5年間で最も低い成績に低迷し「トレードは失敗であった」とメディアに評価されている。
2008-2009シーズンの試合中、腰を強打。
これにより、アイバーソンはシーズン終了。
同年のプレイオフ、ピストンズはレブロン・ジェームズ率いるクリーブランド・キャバリアーズに敗退した。
経済不況やスターターにこだわる姿勢などでなかなか次の契約先が見つからなかったが、2009年9月10日、メンフィス・グリズリーズと契約した。
しかしシーズン開幕直後に「個人的な理由」でチームを離脱し、2009年11月16日に僅か3試合の出場で同チームを退団。
2009年11月25日、引退を表明。
引退を表明してからおよそ1週間後の2009年11月30日、アイバーソンはかつての古巣76ersの代表者と会い、その2日後契約の正式なオファーを受け、2009年12月2日、引退表明を撤回し、古巣フィラデルフィア・76ersと1年契約を結んだ。
契約会見を行ったアイバーソンは途中何度も流れる涙を白いハンカチで拭いながら「試合に出られないことは苦しかった。その事実にどう向き合えば良いのかわからなかった」とそれまでを振り返り、「このチームの勝利に貢献できたら自分は満足だ」と再び古巣で戦うことになった喜びを語った。
しかし、アイバーソンにフィットしないチーム戦略や、プライベートの問題を抱えており、出場機会は限られていた。
シーズン終了後、76ersとの契約は更新されず、他のNBAチームからのオファーもなかった。
10月29日にトルコリーグ1部のベシクタシュと400万ドル(約3億2400万円)の2年契約で基本合意。
キャリア初のアメリカ以外のリーグでのプレーとなったが、2011年に退団した。
2013年10月30日、正式に引退を表明した。
エピソード
腕、首、脚など身体中に数多くのタトゥーを施している。
NBAデビュー時には坊主頭だったが、1996-97シーズンのルーキーゲームに出場する際に、コーンロウに髪型を変えている。
様々なカラーのヘッドバンド、腕全体をサポートするシューティングスリーブ、自身の背番号「3」が刺繍されたフィンガーサポーター、「THE ANSWER」などの刺繍が施されたリストバンド、「W.W.J.D」などが記されているシリコンバンドなどを身に付けて試合に臨んでいた。
若手選手のファッションに多大な影響を与えた。
アイバーソンは10代の頃から様々な事件に関与したと報道された。
家族でのパーティの最中に妻を銃で脅したこともある。
バスケットボール以外では、ラッパーとして活動しているが、最初のアルバムは過激な歌詞を含んでいることが地元のフィラデルフィアで問題になり、自主的に発売を見合わせた。
数々の問題行動で波紋を呼ぶアイバーソンだが、近年は精神的に安定感が増し、後輩にアドバイスを送ったり、仲間への感謝の念を述べたりするなど、プレイスタイル同様に洗練され、評価が高まった。
アメリカの大手スポーツ用品メーカー、リーボックと契約している。
「QUESTION」やニックネームの「ANSWER」などの名前を冠したブランドシューズやグッズが数多く発売されている。
「A.I.」、「I3」などのニックネームがシューズに記されている場合もある。
高校-大学時代はナイキのシューズを愛用。
AIR JORDAN11を使用していたこともあった。
NBA入団時、アイバーソンはナイキと契約したかったが、ナイキからのオファーが無かったため、リーボックと契約した。
NBAの公表身長は183cmであるが、「実際はもっと低いのでは」とよく言われる。
実際にアイバーソンに会って並んだことがある、NHKバスケットボール解説の塚本清彦はことあるごとに「実際は180cmもない」と述べている。
実際の身長に関しては諸説あるが、シューズを履いた状態で180cm以上である。
体重に関しても諸説があり、掲載される情報媒体で様々である。
多くは74kg-82kgである。
身長に対して手が大きく、腕も長い。
ウイングスパンは190cmをオーバーしている。
ディーラーにコインなどを投げつけるなど素行不良でデトロイトの2つのカジノで出入り禁止になっている。
母親のアン・アイバーソンは、シクサーズでチームメイトだったリック・マホーンと同級生だった。
アイバーソンが異端児と呼ばれる理由は、リーグも手を焼くほどの問題児であり、奇抜なファッションで多くの若者影響を与えたからです。
たとえば2000年に腕の怪我をした際、アイバーソンはスパイダー柄のアームスリーブを着けて試合に出場した。
するとそれ以降、ほかのNBAプレイヤーの間でアームスリーブがトレンドになった。
2015年には全体の65%もの選手がアームスリーブを着用していたというデータもある。
また、フィンガーガードやヘッドバンドなどのアクセサリーや、オーバーサイズのユニフォームもアイバーソンがトレンドセッターとしてコートに持ち込んだ。
昨年、カリフォルニア州ロングビーチで開催されたストリートカルチャーの祭典<コンプレックスコン>のトークライブに登場したアイバーソンは、“ファッション”という観点で自身が後続の選手たちにもたらした変化について見解を問われると、「NBAがドレスコードを決めて、オレの“ヒップホップ”スタイルを排除したのはおかしなこと」と述べた。
NBAは、アイバーソンに影響された選手たちが次々と“ラッパー”や“ストリート・ギャング”と間違われるようなファッションに傾倒していくのに歯止めをかけようと、公の場所でのドレスコードを設定した。
しかしその結果、かなり“個性的”なファッションのプレイヤーも増えてきた。
そこでトークライブでは、現役選手たちがスタジアム入りする際のファッションチェックを実施。
するとアイバーソンは「ドレスコードが出てから、みんなのスタイルが退化している気がする。皮肉だよね。素肌にジャケットだけ羽織ってるやつがいたりさ」と辛口な一面を見せたり、若手選手の“個性的”なファッションに頭を抱えて回答に困る様子を見せて会場を沸かせた。
さらに、ジェームズ・ハーデンとかつてのアイバーソンの“全身白のコーディネート”が取り上げられると、「これはオレじゃないだろ(笑)」と、どこからどうみても“ラッパー風”のファッションに赤面。
また、ユニフォーム規定に反して罰金を課せられたエピソードについて聞かれると、ショーツの長さが規定に反していたことを紹介。
「オレは膝を見せたくないんだ。だから大きめのショーツを履いていた」と説明した。
そしてショーツの長さ規定を受け入れても膝を見せたくなかったアイバーソンは、「パワータイツをショーツの下に履くことにしたんだ」と、タイツが罰則規定の解決法だったことを明かした。
いまでは多くの選手が使用しているパワータイツも、アイバーソンがきっかけでコートのトレンドになったのだ。
バスケを“クール”にした存在であり、ファッション界にも絶大な影響力を与え続けるアイバーソン。
その存在はやはり唯一無二だ。
アイバーソンといえば、コート内外で話題になることが多く、その一つの理由としては歯に物着せぬ言動と言えるでしょう。
アイバーソン好きなら誰でも知っている有名なシーンかと思いますが、ステップバックして3Pを沈めた後、倒れこんだ選手を「あえて」またぐと言うシーンです。(ウェイドもダンクを決めた後、選手をまたぐパフォーマンスをしていますが、アイバーソンのこのプレイに影響されているのではと思っています。)
物議を読んだシーンですが、同時にアイバーソンを象徴するシーンともなりました。
実は跨がれた選手は現在のキャバリアーズのヘッドコーチを務める「タイロン・ルー」です。
非常に負けん気の強い選手だといえますね。
アイバーソンはその時の事をこのように語っている。
「彼(タイロン・ルー)とはチームのため、お互い倒すのに必死でそれを象徴する形があれだった。とにかく、ゲームに入り込んでた。もちろん戦いが終わり、今は親友だけどね。」
プレースタイル
アレン・アイバーソンはスコアラー型のシューティングガードで、ポイントカードもこなすコンボガードです。
入団当時はポイントカードでしたが、得点力を活かすためにシューティングガードへコンバートされました。
アイバーソンの特徴の一つとして挙げられるのが、NBAでは極めて低いとされる183cmの身長です。
ですが身体能力は誰よりも突出しており、相手のディフェンスお構いなしにダンクを決めることもありました。
その身体能力は自身の低身長を補って余りあるものであり、MVPに1回、得点王には4回、スティール王には3回輝くなど、まさにスーパースターと呼ぶにふさわしい活躍を残しました。
サイズは小さいですが身体能力が高く、入団時の測定ではジャンプ力が104センチという結果を出しています。
ウィングスパンも長く、スピード、クイックネスにも優れています。
アイバーソンは得点能力に優れていて、4回の得点王に輝きました。
キャリア平均は26.7得点、シーズンハイは33.0得点とずば抜けていることがわかります。
ただ、シュートの精度は高くはなく、FG%のキャリア平均は42.5%となっております。
やはりサイズのハンディが影響していて、ペイントエリアではかなり不利です。
アウトサイドのシュートも得意ではありませんでした。
ですがミドルジャンパーは異様に上手く、それで得点を量産していました。
アイバーソンの代名詞とも言われるのが、クロスオーバードリブルの強烈なキレから呼ばれた”キラークロスオーバー”です。
それはあのマイケル・ジョーダンすら翻弄するものであり、止めるのは至難の業とも言えました。
アイバーソンの高い得点力の秘訣は、このクロスオーバーにあったと言っても過言ではないでしょう。
アイバーソンの代名詞でもあるクロスオーバーは左右の振れ幅が広く、左にフェイクをかけて右に抜いてくるのが特徴です。
ほとんどの確率で右から抜いてくるとわかっているのに、それでも止められないキレの良さなのでしょう。
マイケル・ジョーダン相手にクロスオーバーからミドルジャンパーを決めたシーンは有名だと思います。
そのクロスオーバーは入団時から数年にかけて多用していましたが、キャリア中盤にはあまりやらなくなってしまいました。