概略
誕生日 | 1952年4月27日(68歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ![]() |
出身 |
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身長(現役時) | 201cm (6 ft 7 in) |
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体重(現役時) | 82kg (181 lb) |
ポジションはシューティングガード、スモールフォワード。
右利き。
愛称は「アイスマン」。
史上屈指のスコアラー。
フィンガーロールを武器に1970年代後半から1980年代前半のサンアントニオ・スパーズの黄金期を支え、スパーズの5回のディヴィジョン優勝の原動力となった。
1996年にバスケットボール殿堂入りした。
受賞歴 | |
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経歴
選手経歴 | |
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1972-74 1974-85 1985-86 1986-87 1989 1989-90 |
バージニア・スクワイアーズ(ABA) サンアントニオ・スパーズ(ABA,NBA) シカゴ・ブルズ パラカネストロ・ヴィルトゥス・ローマ クアッドシティー・サンダー(CBA) バスケット・マンレサ |
大学卒業後の1972年にABAのバージニア・スクワイアーズに入団する。
スクワイアーズではあまり出場時間はなかったが、ABAルーキーオールチームに選出される。
その後、1974年に当時ABAに所属していたサンアントニオ・スパーズに移籍した。
スパーズ移籍後はチームの中心選手となり、ゲーム平均20ポイント以上を獲得し2年連続でオールスター出場、オールセカンドチーム選出された。
ABAは1976年に解体されるが、スパーズはそのままNBAに編入され、以後ガービンはNBA所属の選手となる。
ABA解散時に解体することなくそのままNBAへ編入したスパーズであったが、ガービンを中心に最初の黄金期を築きつつあった。
スパーズは5回に渡って地区優勝しプレーオフの常連となり、強豪と呼ばれるチームになった。
ガービン自身も4回得点王に輝き、1980年にNBAオールスターゲームのMVPを獲得するなどチームの「顔」となっていった。
NBA史上で4回以上得点王を受賞したのはウィルト・チェンバレン、マイケル・ジョーダン、アレン・アイバーソン、ガービンの4人だけである。
ガービンは引退前の1年をシカゴ・ブルズで過ごしたが、10年以上にわたってスパーズを牽引した。
スパーズ時代の1978年に叩き出した1ピリオドの間のみで33得点という驚異的な当時のNBA記録は、2015年に37得点を記録したクレイ・トンプソンに更新されるまで37年もの間破られる事がなかった。 (2008年にカーメロ・アンソニーがタイ記録である1ピリオド間33得点を記録しているが、ガービンが記録した30年後の話である。)
キャリア平均26.2ポイントというNBA歴代8位の記録を残して1986年にガービンは引退したが、その後はヨーロッパに渡りイタリアやスペインでプレーをした。
エピソード
ガービンはコート上では動揺を顔に出さず、表情を変えない選手だった。
闘志を内面に秘めて黙々とプレーをするため、「アイスマン」のあだ名で呼ばれ、相手チームに恐れられた。
逆にチームからは頼りにされチームの精神的支柱ともなり、また、スパーズを代表する選手として多くのスパーズファンに愛された。
強いスパーズを象徴する選手として”提督”デビッド・ロビンソンとともに今でもファンに愛されている。
ガービンもサンアントニオを愛し、引退後はサンアントニオに居を構え、「ジョージ・ガービン・ユースセンター (George Gervin Youth Center) 」を設立して若者を数多の危険や誘惑から救おうという活動を続けるなど、コミュニティに貢献している。
弟のデリック・ガービンもNBA選手で1989年から1991年までニュージャージー・ネッツで72試合に出場した。
マイケル・ジョーダンの“忘れられた”元チームメイトだったジョージ・ガービン。
ガービンは1972年にABA(American Basketball Association)のバージニア・スクワイアーズでジュリアス・アービングのチームメイトとしてキャリアを開始したガービンは、1974年からはサンアントニオ・スパーズの顔として活躍した。
1976年にABAはNBAと合併している。
スパーズでの12シーズン(※1974~1976年はABA、1976~1985年はNBA)で、ガービンはリーグの歴代トップスコアラーのひとりへと成長し、NBAの得点王を4度獲得。
スパーズで出場した899試合で1試合平均26.3得点を記録した。
ガービンの1試合最多得点試合は、1978年4月9日に自身初の得点王を確定させた63得点の活躍だ。
しかし、1985年10月、ガービンの状況に変化が訪れる。
33歳のガードとして活躍していたガービンは、1984-85シーズンに平均21.2得点を記録し、初めて衰えを感じさせ始めた。
それでも、スパーズの決断には多くが驚かされた。1985-86シーズン開幕から数日、スパーズはデイブ・グリーンウッドとの交換でガービンをブルズにトレードしたのだ。
ブルズの方針は明らかだった。
キャリア2年目のジョーダンにとって、ガービンは良いメンターになれるだろうと考えたのだ。
しかし、ジョーダンとガービンの関係は想定していたものにはならなかった。
ガービンは『Grantland』のビル・シモンズとのインタビューで「僕は年老いていて、引退も近かったということもあり、マイケルよりもドック(ジュリアス・アービング)のほうが僕のことを理解してくれていただろう」と語っている。
「マイケルはリーグに入りたてだったこともあり、自分の存在感を示そうとしていた。それだけに、私のことをちょっと違った目で見ていたのだろうと思う。いつも彼には『old man』(老人)と呼ばれていたから、『お前もいずれそうなるよ』と伝えていたよ」。
ジョーダンが2シーズン目を足のけがでほとんど欠場したこともあって、元スパーズのガービンはレギュラーシーズン82試合中75試合に先発し、平均16.2得点を記録した。
しかし、ジョーダンが復帰してプレイオフが始まると、ガービンはローテーションから落とされてしまう。
セルティックスとの第1戦ではわずか6分、第2戦では5分の出場時間にとどまり、その後は一度も出場することはなかった。
プレースタイル
得点力に特化したウイングプレーヤー。
得意技はフィンガーロールという、スナップを利かせてボールを浮き上がらせる独特のシュート。
「ボールが意思を持って、自らゴールに吸い込まれていく」と形容された妙技を駆使して得点を量産した。
ガービンは異次元の得点能力を誇った史上屈指のスコアラーだ。
78年はデビッド・トンプソン(デンバー・ナゲッツ)と激しい得点王争いを繰り広げ、最終戦で73得点を挙げたトンプソンに逆転されると、直後の試合では前半だけで53点、最終的に63得点を荒稼ぎ。
自ら「ドーピングしたスーパーマンみたいな気分だった」と振り返った超絶パフォーマンスで、タイトルを確定させた。
以後82年まで5年間で4回得点王になり、中でも80年は平均33.1点。
スパーズで年間30点以上を記録したのはガービンだけで、通算でも平均26.2点はNBA史上9位にランクされている。