概略
誕生日 | 1947年6月22日 |
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没年月日 | 1988年1月5日(40歳没) |
国 | ![]() |
出身地 | ペンシルベニア州アリクイパ |
出身 | ルイジアナ州立大学 |
ドラフト | 1970年1巡目3位ホークス |
背番号(現役時) | 7 |
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身長(現役時) | 196cm (6 ft 5 in) |
体重(現役時) | 90kg (198 lb) |
ポジションはシューティングガード、ポイントガード。
右利き。
「ピストル」の愛称を持ち、「ピストル・ピート」と呼ばれた。
アトランタ・ホークスやニューオーリンズ・ジャズなどでプレーした。
創造的なドリブルやパス、得点の技術において際立った存在だった。
NCAA時代には今も破られない、いくつかの得点記録を残した。
1976年と1977年にオールNBAファーストチーム入り。
オールスターには5度選出された。
1986年にバスケットボール殿堂に推戴され、翌年殿堂入り。
1996年にはリーグの「50年間の50人の偉大な選手」に選ばれた。
10年間に渡るプロ時代で通算得点は15,948点、生涯平均得点は24.2点。
背番号7はニューオーリンズ・ジャズの後継であるユタ・ジャズで永久欠番になっている。
ニューオーリンズ・ホーネッツはマラビッチの死後ニューオーリンズに移転したチームだが、ホーネッツは地元で活躍したマラビッチを讃え背番号7を永久欠番にしている。
受賞歴 | |
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経歴
選手経歴 | |
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1971-1974 1974-1979 1979-1980 |
アトランタ・ホークス ニューオーリンズ・ジャズ ボストン・セルティックス |
マラビッチは1970年のNBAドラフトでボブ・レイニア、ルディ・トムジャノビッチに続いて、アトランタ・ホークスより全体3位で指名された。
同時にABAのカロライナ・クーガーズからも誘いを受けたが、マラビッチはホークスに入団した。
クーガーズからは200万ドル、ホークスからは190万ドルの契約を提示されており、これは当時としてはかなり高額な契約だったことからチームのベテラン選手からは歓迎されていなかった。
マラビッチはABAに移ったジョー・コールドウェルの代わりとして1年目から活躍し、リーグ9位の平均23.2得点をあげオールルーキーファーストチーム入りした。
チームはボルチモア・ブレッツに次いでセントラル・ディビジョン2位となりプレーオフ準決勝でニューヨーク・ニックスに敗れた。
ルー・ハドソンやウォルト・ベラミーが活躍した翌シーズンは19試合に欠場、2年目のジンクスで平均19.3得点と成績を落としたがボストン・セルティックスとのプレーオフでは平均27.7得点をあげた。
3年目のシーズンには平均26.1得点(リーグ5位)、6.9アシスト(リーグ6位)と復調、オールスターゲーム初出場を果たし、シーズン終了後にはオールNBAセカンドチームに選ばれた。
チームは46勝36敗と勝ち越した。
プレーオフで平均26.2得点をあげたが、またしてもボストン・セルティックスに敗れた。
続く1973-74シーズン、バッファロー・ブレーブスのボブ・マカドゥーに次いでリーグ2位の平均27.7点をあげた。
この年2度目のオールスター出場を果たし、22分間の出場で15得点をあげた。
マラビッチの活躍がチームの勝利に結びつくことはさほどなかったが、それでも彼のプレーを一目見ようと客足が途絶えることはなかった。
1974年にNBAの新たなチームとしてニューオーリンズ・ジャズが設立され、ジャズは地元の大学で活躍したマラビッチをトレードによって獲得した。
ジャズでの1年目となった1974-1975シーズン、マラビッチは生涯最低のフィールドゴール成功率41.9%を残し、平均得点も21.5に落ちた。
チームもNBAワーストの23勝59敗に終わった。
翌シーズンは故障がちで62試合に出場し平均25.9得点(マカドゥー、カリーム・アブドゥル=ジャバーに次ぐリーグ3位)、自己最高のフィールドゴール成功率45.9%の成績をあげて初のオールNBAファーストチームに選ばれた。
1976-77シーズンには73試合に出場、31.1得点をあげ、リーグの得点王を獲得、オールNBAファーストチームに選ばれた。
1977年2月25日のニューヨーク・ニックス戦では68得点をあげた。
チームの成績こそ芳しいものではなく、マラビッチ1人に頼るプレースタイルに疑問が呈されることもあったが、マラビッチは選手個人としてNBAの頂点に上り詰めたのだった。
1977-78シーズン、それまで低迷を続けていたジャズはようやく上昇気流に乗ろうとしていた。
だが、チームの好調ぶりとは対照的に、マラビッチの両ヒザはバクテリアの感染と腱炎が原因で悲鳴を上げはじめていた。
それでも、1月に破竹の8連勝を飾り、マラビッチ自身もリーグの平均得点部門1位を快走。
ところが、次の試合で致命的ともいえるケガを負ってしまう。
ファーストブレイクの際、普通にパスを投げれば良かったものを、十八番ともいえる20m(コートの約2/3)のビトウィーン・ザ・レッグパスを放ち、着地に失敗してヒザの靭帯を損傷。
手術を施すも、全盛期のシェイプを取り戻すことはできなかった。
このシーズン、マラビッチは膝の怪我とバクテリア感染に見舞われ、32試合に欠場、平均27.0得点だった。
続くシーズンには怪我の影響で49試合の出場にとどまり、ベンチで過ごす時間も多くなった。
1979年にジャズはユタ州ソルトレイクシティに移転した。
このシーズンにジャズはエイドリアン・ダントリーを獲得し、マラビッチの出場時間はさらに減少した。
出場時間の激減に苛立つマラビッチと、動きの衰えた彼をあまり必要としなくなったチームの確執は深まった。
そして1980年1月、フロントはマラビッチの解雇を断行する。
マラビッチはシーズンが始まってから2ヶ月余りが過ぎた1980年1月17日、契約を解消され、ボストン・セルティックスと契約した。
マラビッチはボストン・セルティックスに拾われたが、若きエース、ラリー・バードを中心にチームプレー重視のスタイルを信条としていたセルティックスに、マラビッチの居場所はなかった。
バード、ケビン・マクヘイルら若手有望株に、ロバート・パリッシュ、ネイト・アーチボルトら中堅選手がうまく混ざり合った成長著しいセルティックスは、翌シーズンの優勝候補の一角と目されていた。
もしマラビッチが控えの座に甘んじることができたなら、大学時代から圧倒的な個人成績を記録しながらも縁遠かった、夢にまで見たチャンピオンリングを手に入れることができたかもしれない。
しかし、それまでスター街道を歩んできた彼のプライドが、それを許さなかった。
翌シーズンのキャンプイン直前、マラビッチは現役引退を表明し、
10年間のNBA生活に別れを告げる。
皮肉にもそのシーズン、セルティックスは5年ぶりに優勝を遂げるのだった。
エピソード
“ピストル・ピート”は、カレッジ時代からあまりにも有名になりすぎていた。
四六時中メディアやファンに追われ、過度の期待をかけられ、とてつもなく大きなプレッシャーと日々戦わなくてはならなかった。
そしてそのプレッシャーはマラビッチを徹底的に苦しめた。
彼はいつも何かに怯え、悩み続けていた。
重圧から逃れるために、大学時代は酒と女に溺れる毎日だったという。
カレッジ最後となる試合も、二日酔いのせいで満足なプレーができないほどだった。
またマラビッチには、悩みを分かち合える親しい友人が、人生を通していなかった。
その証拠に、引退後出版された彼の自伝に、友人やチームメイトの名前はほとんど出てこない。
彼は常に孤独感に苛まれていた。
そして、母親のアルコール中毒による自殺と、鬱やガンとの壮絶な戦いの末他界した父の死も、マラビッチの心を蝕む要因となった。
夢にまで見たバスケットボールでの成功、だが幸せはそこになかった。
いくら富や名声を手にしたところで、彼の人生は満たされることがなく、その結果アルコールに救いを求め、ベッドの中で震えながら「強くなるんだ」と呟く日もあったという。
現役時代、練習熱心でも知られ、「練習に全力で取り組まない人はゲームで全力を出せない」と語っていた。
現役引退後の数年間、マラビッチは絶望のどん底にいた。
そして人生の真の幸せを見つけるため、生きる意味とは何か、その答えを探すために、様々なものに傾倒していった。
プロバスケットボールから離れたマラビッチは失意に沈んだが、ヒンドゥー教、ヨガ、UFO、サバイバリズム(生存術)、占星術、神秘学、マクロビオティック、菜食主義や自然食主義などに生きる方策を求めた末、キリスト教に傾倒するようになった。
それまでバスケットボールこそが唯一の宗教であり、クリスチャンの家庭に育ちながら神を拒み続けてきたマラビッチだったが、救いの手をどうしても必要とした彼は過去の自分を懺悔し、最後にはキリストにも救済を求めた。
あなたが助けてくれなければ、自分はもう生きていけない、と。
そしてある日の朝、マラビッチは神の啓示を受ける。
その日を境に、彼は人一倍敬虔なクリスチャンへと生まれ変わった。
福音伝道者として演説を行ない、子どもたちのためのバスケットボール・キャンプを開催し、バスケットボールのレッスン・ビデオを制作した。
そうして尽くすことの喜びを知ったマラビッチの心は、少しずつ満たされていく。
彼の人生に、待ち焦がれていた“幸せ”がようやく訪れたのだった。
1988年1月、カリフォルニア州パサデナでバスケットボールをしている最中に心臓発作に襲われ死去した。
40歳だった。
同年、当時のルイジアナ州知事の計らいでルイジアナ州立大学の体育館を改名する条例案が通過し、体育館は「ピート・マラビッチ・アセンブリー・センター」となった。
1996年にNBAが「50人の偉大な選手」を選出した時、50人の中で故人となっていたのはマラビッチだけだった。
この表彰式の際、亡き父の代わりに出席したマラビッチの子供達に対して、マジック・ジョンソンは「君達のお父さんこそ、本物のオリジナルだった」と声をかけた。
プレースタイル
得点を重ねつつも、クリエイティビティ―にあふれるボールハンドリングで魅せることができた数少ない選手の1人。
少年時代のマラビッチは既に両脚の間を通すドリブル、背後でのドリブル、ノールックパスなどを会得しており、大学に入る頃には人目を引く派手なプレースタイルで人気を集めていた。
マラビッチはトリッキーなドリブルやパスを高いレベルで行い、後年のマジック・ジョンソンやジェイソン・ウィリアムズの先駆けのような選手だった。
マラビッチのプレーは、まるでダンスでも踊っているかのような印象を与えるほど、独特だった。
頭に描いたことのある空想のようなドリブルムーブからタフショットを決めることも多々あった。
マラビッチは得点能力も高かった。
数人をかわしてゴールに切り込むドリブル技術だけでなく、長距離のシュートにも長けていた。
多くの得点記録を残した頃の大学バスケットボールではまだスリーポイントシュートがなかったが、マラビッチは今日ならばスリーポイントシュートになるほどの距離からもしばしば得点した。
「多くの人が“ピストルピート”のゲームにおける才能を取り入れてきたことで、ゲームが劇的に変化したのは間違いない。クリエイティビティ―に富んでいたから、僕は彼のことをイノベーターだと思ってる。そして彼は常に限界へ挑んでいた」とカリーはマラビッチを評した。
マラビッチに対しては、個人的な能力や業績は素晴らしいがチームを勝たせる選手ではないという批判が常にあった。
彼自身が主力選手だったホークス時代やジャズ時代でチームが勝ち越したのはホークス時代の1シーズンのみであり、プレーオフに出場できたのは新人の年から3年間、それも全て1回戦敗退だった。
最後にボストン・セルティックスで過ごしたシーズンにセルティックスはリーグ最高勝率を記録し、プレーオフでは地区決勝まで進んだが、マラビッチの貢献は限定的なものだった。