概略
誕生日 | 1961年5月13日(59歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ニュージャージー州トレントン |
出身 | サウスイースタン・オクラホマ州立大学 |
ドラフト | 1986年 2巡目27位 |
背番号(現役時) | 10 ,91, 73, 70 |
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身長(現役時) | 203cm (6 ft 8 in) |
体重(現役時) | 105kg (231 lb) |
足のサイズ | 32.0cm |
ポジションはパワーフォワード、スモールフォワード。
右利き。
ニックネームは「Worm(ワーム)」。
1980年代から90年代にかけて、NBAに於いて当時を代表する優れたディフェンダーであり、歴代でも屈指のリバウンダーであった。(1992-1998で7年連続リバウンド王)
ロッドマンのディフェンスに対する考え方は、NBAに多大な影響を与えた。
髪を染める、全身にタトゥーを入れる、女装癖を隠さないなど、奔放なライフスタイルも話題を集め、コート内外で起こす様々な騒動も注目された。
5回の優勝経験を持つ。
受賞歴 | |
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経歴
選手経歴 | |
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1986-1993 1993-1995 1995-1998 1999 2000 |
デトロイト・ピストンズ サンアントニオ・スパーズ シカゴ・ブルズ ロサンゼルス・レイカーズ ダラス・マーベリックス |
1986年、ドラフト2巡目27位でデトロイト・ピストンズへ入団。
ルーキーシーズンはベンチから出場した。
翌シーズンは出場時間を延ばし、平均11.6得点、8.7リバウンドの成績を残した。
この時期のピストンズはチームとして急成長を続けており、優勝を伺える位置に近づきつつあった。
ポイントガードのアイザイア・トーマス、センターのビル・レインビアを擁し、監督チャック・デイリーに率いられたチームは、乱暴なプレイすら厭わない激しいディフェンスで知られ、バッドボーイズと呼ばれた。
レインビアやリック・マホーン、ジョン・サリーとともに、ロッドマンもバッドボーイズを構成する重要な一員だった。
彼らは「勝つために手段を選ばない」、「やり方が汚い」とリーグ中で嫌われ、NBAに対し公式に抗議するチームもあった。
この頃のロッドマンは、細身で主なポジションはスモールフォワードだった。
平均得点は10点ほど取っておりディフェンスやリバウンドでもチームにますます貢献するようになっていた。
ピストンズは、イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスを脅かすようになり、1987年には52勝30敗とカンファレンス屈指の強豪になっていた。
このシーズンのプレイオフ、ピストンズはカンファレンス・ファイナルまで進み、セルティックスを第7戦まで追い詰めるものの、一歩及ばず敗退した。
セルティックスに敗れた後、ロッドマンとチームのエース、アイザイア・トーマスは、セルティックスのスター選手で、史上最高の白人選手としての呼び声も高いラリー・バードに対し「白人だからもてはやされているに過ぎない」と発言し、物議を醸した。
その後トーマスとロッドマンはバードに謝罪し、バードはこれを受け入れた。
翌1988年、ピストンズはついにNBAファイナルに進出するが、第7戦まで競った末マジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズに敗れた。
続く1988-89シーズン、ピストンズはリーグ最高の63勝19敗をマーク。
ロッドマンは初めてオールNBAディフェンシブファーストチームに選出され、優秀なディフェンダーであることを示した。
ピストンズはNBAファイナルに進み、怪我で主力を欠いたレイカーズを4戦で下して優勝を果たした。
1989-90シーズンのピストンズはリーグ2位タイの59勝をあげ、3年連続でファイナルに進出。
ポートランド・トレイルブレイザーズを4勝1敗で退け、2年連続の優勝を決めた。
ロッドマンはこのシーズン初めてNBA最優秀守備選手賞に輝き、インタビュアーの前で男泣きして見せた。
翌1990-91シーズンにも同じ賞を受賞、ロッドマンは2年連続でリーグ最高のディフェンダーとして認められることとなった。
2連続優勝を成し遂げた「バッドボーイズ」ピストンズは絶頂期にあり、強引とも言える強力なディフェンスは一世を風靡したが、同じ地区のライバルチームシカゴ・ブルズは着実に力を着けていた。
1991年のプレイオフ、イースタン・カンファレンス・ファイナルでピストンズはブルズと対戦。
過去3年連続でピストンズに敗退してきたブルズは、このシリーズでピストンズを圧倒した。
3戦全敗で迎えた4試合目、ロッドマンはブルズのスコッティ・ピッペンをコート外の観客席まで突き飛ばし、「ホモといっしょにいるのはうんざりだ」と罵った。
ピッペンは顎を縫う怪我を負った。
それでもブルズは115対94でこの試合に圧勝。
バッドボーイズの覇権は2年間で終わりを告げた。
翌1991-92シーズン、ロッドマンのシーズン平均リバウンド数は18.7で、リーグのリバウンド王となった。
この平均リバウンド数は20シーズンで最高の数字だった。
ロッドマンはこのシーズンから7年連続でリバウンド王の座を保ち続ける。
1992年3月4日の試合では自己ベストの34リバウンドをあげた。
これはNBA史上、1979年2月9日の試合で37リバウンドを記録したモーゼス・マローン、1988年4月22日の試合で35リバウンドを記録したチャールズ・オークリーに次ぐ歴代3位の記録となっている。
次の1992-93シーズン、ロッドマンは年平均リバウンド数が18.3本と変わらず素晴らしい水準だったがチームの勝ち数は40勝まで落ち、シーズンを負け越していた。
ロッドマンはこの時期大いに悩んでおり、ある晩ライフルを持ってトラックの中にいるところを発見されるという事件があった。
この時ロッドマンは自殺を考えたが、自分の中の「もう一人の自分」を撃ち殺して生まれ変わった、とのちに自伝で語っている。
このシーズンが終わると、ロッドマンはサンアントニオ・スパーズにトレードされた。
スパーズではエースのセンターデビッド・ロビンソンがキャリアの全盛期に入りつつあり、ロッドマンの役どころはロビンソンの負担を減らしてリバウンド、ディフェンス面でチームに貢献することだった。
移籍1年目の1993-94年には、ロッドマンはリバウンド、ロビンソンは得点と、スパーズは二つの部門でリーグトップの選手を出すという快挙となった。
チームのシーズン成績は55勝27敗とディビジョンでヒューストン・ロケッツに次いで2位。
プレイオフでは、スパーズは1回戦でユタ・ジャズに敗れた。
翌シーズン、スパーズはリーグ最高の62勝を達成、ロビンソンはMVPに選ばれた。
ロッドマンは4年連続のリバウンド王、そしてオールNBAディフェンシブファーストチーム選手選出とチームの躍進に貢献したが、スパーズはプレイオフのカンファレンス・ファイナルでヒューストン・ロケッツに敗退した。
スパーズに在籍した2年間で、ロッドマンはいくつかの騒動を起こし、マスコミやチームに変わり者として扱われるようになった。
歌手のマドンナとの交際が話題になったのはこの時期であり、初めて髪を染めて登場したのもスパーズ時代だった。
またしばしば練習に遅刻することがあり、大事な試合の日に遅れることもあった。
1995年のプレイオフ、カンファレンス・ファイナルの試合中には、タイムアウト中にチームメートや監督が話し合う中、離れた場所でシューズを脱ぎ床に座るロッドマンの姿がアップで捕えられ放送された。
ボブ・ヒル監督やデビッド・ロビンソンばかりか、マスコミやファンからの非難がロッドマンに集中した。
のちに自伝で明らかにしたように、ロッドマン自身は自分に辛くあたるチームや大事な場面でリーダーシップを発揮しないロビンソンを大いに不満に思っており、スパーズとしてもロッドマンは厄介者となっていた。
2シーズンを過ごした後、ロッドマンはシカゴ・ブルズにトレードされた。
1991年から1993年まで3連覇を果たしていたブルズの中心メンバーだったホーレス・グラントは1994年にオーランド・マジックに移籍していた。
シカゴに移ったロッドマンは、グラントが占めていたパワーフォワードの役割を果たすことが期待されていた。
一方で、数々の物議を醸した「問題児」ロッドマンを不安視する声もあった。
彼はかつてブルズに忌み嫌われた「バッドボーイズ」の一員であり、スコッティ・ピッペンに試合中のファウルで大怪我を負わせたこともあった。
ロッドマンはフィル・ジャクソン監督に敬意を持つようになり、当時ブルズが採用していたトライアングル・オフェンスの複雑な戦術を早々と理解した。
試合中にエキサイトする場面でも、リーグを代表するジョーダンやピッペンになだめられ、ロッドマンもチームのためにプレーをする姿が見られるようになる。
乱闘になりそうになると、チームメートが全力で止めに入り、ときには巻き込まれた味方も苦笑いするほどだったが、難解な戦術を理解するなど高いバスケットボールIQも持っていた。
マイケル・ジョーダンに、「ロッドマンは私を含む誰よりも早く、トライアングル・オフェンスを理解した。」と言わしめるほどだった。
試合では審判にヘッドバットするなど問題を起こすこともあったが、リバウンドとディフェンスの技術はチームに好影響を与えていた。
ジャクソン監督の指揮によりシカゴ・ブルズの選手はチームとしてよく機能し、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、そしてロッドマンの3人は最強のトリオとしてセンセーションを巻き起こした。
1995-96シーズンのブルズは史上最高クラスのチームとして快進撃を続けた。
ロッドマン個人の人気もかつてないほど上昇していた。
数試合おきに髪を染め直し、自由気ままな言動は論争を呼びつつ注目を集め、「ロドマニア」と呼ばれる熱狂的ファン集団も見られるようになった。
全身のタトゥーもますます増えていった。
何よりも試合での貢献度は明らかで、このシーズンも平均リバウンド数はリーグ最高、オールNBAディフェンシブファーストチームにも選出された。(このシーズンはジョーダンとピッペンもオールNBAディフェンシブファーストチーム入りし、同じチームから3名が選ばれるという快挙となった。)
ブルズは72勝10敗と史上最高の勝率でレギュラーシーズンを終えた。
プレイオフではNBAファイナルに進み、シアトル・スーパーソニックスと対戦。
ロッドマンは、スラムダンカーショーン・ケンプとの対決や、センターのフランク・ブリコウスキとの心理戦が注目された。
ファイナルの2試合でロッドマンは、オフェンスリバウンドを11回獲得した。
ブルズはスーパーソニックスを4勝2敗で下し、4度目の優勝を果たす。
プレイオフを通して15勝3敗という強さだった。
ロッドマンにとっては3度目の優勝だった。
優勝後にシカゴで行われたセレモニーで、ロッドマンはピストンズ時代に怪我を負わせたことをピッペンに謝罪した。
このシーズンの終了後、ロッドマンは自伝 Bad As I Wanna Be(『ワルがままに』)を出版、デビッド・ロビンソンやサンアントニオ・スパーズ、リーグのコミッショナーデビッド・スターンを散々にこき下ろしたほか、マドンナとの交際を赤裸々に明かすなど言いたい放題の内容が話題を集め、ベストセラーになった。
ロッドマンはこの本のサイン会で新しい婚約者を紹介してやると言ってマスコミを集めてウェディングドレスを着て現れた。
悪戯が話題になり人形が販売された。
翌シーズンのブルズは69勝13敗という成績を残し、チームは再びNBAファイナルに進出、ユタ・ジャズと対戦した。
ロッドマンはカール・マローンとマッチアップ、二人の対決も注目された。
また普段は滅多にない3ポイントシュートの成功や、苦手なはずのフリースローを大事な場面で決めるという活躍を見せることもあった。
ブルズは4勝2敗で2年連続の優勝を成し遂げた。
翌1997-98シーズンは、優勝チームはこれで最後かもしれないという「ラストダンス」のシーズンとしてファンやマスコミの話題となった。
このシーズンもブルズはNBAファイナルでユタ・ジャズと対戦。
前シーズンに続きロッドマンはカール・マローンと対決し、ロッドマンの執拗なディフェンスはときにマローンをいらだたせた。
しかしロッドマンはトニー・クーコッチに代わり先発を外されるという扱いを受け、そのためかやや集中力を欠いた場面も見られた。
シリーズはブルズが制し、3年連続の優勝となった。
1998-99シーズンはしばらくどのチームとも契約せず、シーズン後半の1999年2月にフリーエージェントとしてロサンゼルス・レイカーズと契約。
23試合に出場し、約2か月後の4月に解雇された。
このシーズンでロッドマンの連続リバウンド王獲得は途切れることになった。
次のシーズンはダラス・マーベリックスに参加するが、シーズン途中の2000年3月に解雇され、現役を退いた。
2003年アメリカ・独立リーグABAのロングビーチ・ジャムと契約し、現役に復帰した。
エピソード
7年連続でリバウンド王に輝くなど、NBA最高のディフェンダーとして脚光を浴びた一方で、派手なルックスと奔放な私生活でも世間を騒がせた“悪童”としても有名。
これまでに何度、刑務所の世話になったのか質問すると、ロッドマンは即答できずに、天を仰いでその回数を数えはじめる。
大体でいいから教えてほしいと言うと、「100回は超えている」と答え記者を絶句させる。
100回も逮捕されるとは、どういうことなのだろうか……?
ロッドマンと言えば、暴行、スピード違反、飲酒運転など、本当に悪い話題に事欠かなかった。
また本人いわく、高校時代からすでに万引きなどの軽犯罪を犯しては刑務所の出入りを繰り返していたという。
さらには「かつて7年間、週7日、毎日毎晩自宅でパーティを開いていた」と告白し、またまた周囲を驚かせた。
とにかく自由奔放で派手に生きてきた結果、警察のお世話になる回数も多くなったということだろう。
そして記者はロッドマンにまつわる“噂”についても直球質問。
その噂とは「ロッドマンは男の急所を折ったことがある」というものなのだが、ロッドマンは「あるさ。3回もね」と即答。
そして病院では、「医学的にはペニスの打撲」だと言われたと笑いながら話した。
ブルズに加わった頃のロッドマンは、有能な選手としてではなく髪の毛の色を頻繁に変える奇抜な選手として認知されていた。
また、パーティー好きとして有名で、空き時間を見つけてはパーティー三昧だったという。
好きな音楽はカントリー・ミュージックとヘヴィメタルであると公言している。
女装して公の場に姿を現すこともあるロッドマンについて、世間ではゲイ説が度々取り沙汰されているが本人はゲイではないと否定している。
ロッドマンはいくつかの問題を起こし、訴訟に発展している例もある。
1998年にはカメラを叩き落とされて脅されたとして女性に訴えられ、そのすぐ後にラスベガスのホテルにあるカジノでセクハラを受けたとして従業員の女性に提訴された。
2000年には婦女暴行を行ったとして1000万ドルの損害賠償を請求されている。
2005年7月にはスピード違反で検挙され、同年9月に裁判所に出頭しなかったとして逮捕の可能性があると警告された。
2008年4月30日には交際していた女性に暴力を振るった疑いで逮捕され、5月1日に5万ドルの保釈金を支払って釈放された。
映画やテレビドラマにも出演している。1997年の映画『ダブルチーム』では、ジャン=クロード・ヴァン・ダムと共演したが、同作ではゴールデンラズベリー賞の最悪助演男優賞・最悪新人俳優賞・最悪スクリーンカップル賞を受賞している。
1999年の『サイモン・セズ』では主演した。その他の出演作品は、『エディー/勝利の天使』『バップス』『デニス・ロッドマン ストーリー』『SOF season2』『エアブレイク』など。
1997年以降、nWoのメンバーとなって、プロレス団体WCWが主催する試合に出場し、レスラーを相手に戦ったことがある。
1998年には、ハルク・ホーガンとタッグを組みカール・マローンのチームと対戦した。
K-1を主催するFEGと契約を結び、2007年6月2日にロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催された「Dynamite!! USA」の開会セレモニーでの聖火リレーに参加し、総合格闘技参戦を表明。
記者会見では「UFCはクソ。K-1が一番。」と発言したが、現在のところ試合の予定はない。
ロッドマンとFEGの仲介をYOSHIKIが行った。
2013年2月26日から3月1日にかけて北朝鮮を訪問し、金正恩第1書記とも対面した。
2015年から2016年にかけてロッドマンは、自分が右派のドナルド・トランプ(共和党)の友人であり、ビジネスマンであるトランプが大統領にふさわしいとの意見を表明した。
ロッドマンは数々の名言を残しています。
その中からいくつか面白いものを紹介しましょう。
- ジョーダン、ピペン、クーコッチに俺が加わるのは
フレンチトーストにシナモンをかけるようなものさ。- ジョーダンが28歳で今のNBAでプレーしてたら1試合平均は最低でも40点だね。
- レブロンが80年代の後半から90年代前半にプレーしてたら並みの選手だったさ。
- ラリー・バードと対戦するのはコンピュータゲームをプレイするようなものだった。彼の心に入り込み、次に何をするかを予測しなければならなかったが、これが難しかった。
- わざわざワイルドになるためにヤクに手を出さなくても俺は自分を抑えるのに嫌になるほど苦労しているんだ。
- コート上でキャリアの全てをリバウンドやディフェンスに捧げようなどという選手は俺以外にはいない。
- リーグを通じて、得点をしたがらない選手なんて俺以外にはいない。
- スパーズでは30秒遅刻すると、500ドルの罰金を課せれた。ブルズでは遅刻に対する罰金は5ドルで、それもフリースロー対決で帳消しにするチャンスがあった。
- 俺は自分自身をリーグで最高に人気のある3人のうちの1人だと思う。あとの二人はジョーダンとシャックだ。
- 世界中、どこを探しても背中に翼が生えているのはアイツ(ジョーダン)ぐらいなもんさ。
- いつの日か俺は、平均リバウンド18本にわずか2得点を記録するNBA史上初のプレイヤーになりたいと思ってる。
プレースタイル
ロッドマン本人が全く執着しなかったこともあるが、数字にも現れている卓越したディフェンス能力に比べて、得点能力は低く、シュートとフリースローも苦手なために(1997年12月29日のダラス・マーベリックス戦ではフリースローの苦手なロッドマンに対してババ・ウェルズがわずか3分間で6回のファウルを行い、ファウルアウトした。これはNBA記録である。)、オフェンスではリバウンド以外の能力は数字から低く見られる。
しかし、ブルズ時代にはトライアングルオフェンスに順応し、彼の得点能力の低さを逆利用し、得点能力の高い選手に迷わずパスを回しチームオフェンスを活性化させたり、豊富な運動量で積極的に味方選手の補助としてスクリーンを掛けにいき、味方がシュートを外せばリバウンドを制し、再び味方にボールを回しセカンドチャンス、サードチャンスを渡すという非常に有機的なプレイを実践していた。
リバウンドの個人タイトルだけでなくNBA優勝経験が二つのチームに渡り5度もあるという実績は、数々の名選手が一度もチャンピオンリングを手にする事なく引退していったケースを鑑みても、彼がただ偶然チームに恵まれていただけと言うにはあまりにも優秀すぎる実績であり、彼が数字に表れない独創的な在り方でチーム力にどれほど貢献していたのかは疑うべくもない。
彼のリバウンドセンスは天性のものと評されることが多いが、実は(プロスポーツにおいては当然ではあるが)恒常的な努力に負っていた部分が大きい。
NBA入り当時は、チームメイトが帰った後一人であらゆる角度からシュートを打ち、どこからシュートをすればボールがどうリバウンドするかを研究したが、その姿勢は変わることはなく、自分のチームのシューティング練習中には、もっぱら自分で練習することはせず、チームメイトのシュートを観察していたという。
これにより各人のシュートコースや、リバウンド方向の「クセ」を学習していたという。
ロッドマンはシューターのボールのスピンの回数や方向、どの方向にバウンドするのか?
といった情報を頭に入れていたそうです。
それもチームメイト全員の癖を…。
外見からは想像がつかないですが彼はすべてをリバウンドに捧げるくらい研究熱心だったそうです。
極稀にわざとゴール下のシュートを落とし、オフェンスリバウンドとして計上しているのではないか、というような印象も持たれることもあり、上記の点は真偽は不明であるが、彼自身リバウンド王の記録に多少なりとも拘っていたことは事実である。
「リバウンドは掴むものではなく、触るもの」と自身が言うように、リバウンドにかける嗅覚・執念は常人のそれを遥かに超えていた。
この言葉の通り、リバウンドを競り合った際は何度もティップして自分の有利な場所へ持っていくうまさもありました。
それに豊富な運動量、ルーズボールにも果敢に飛び込む諦めない気持ちも持っていました。
ゴール下でリバウンドをとっても外にパスを回しセカンドチャンスをつくり出す、そんな感じでした。