概略
誕生日 | 1980年7月6日(40歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ![]() サン・ボイ・ダ・リュブラガート |
出身 | ![]() |
ドラフト | 2001年 3位 |
身長 | 213cm (7 ft 0 in) |
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体重 | 118.9kg (262 lb) |
ウィングスパン | 223cm (7 ft 4 in) |
シューズ | ナイキ |
ポジションはセンター。
右利き。
ロサンゼルス・レイカーズなどで活躍したスペイン代表のセンター。
スペイン史上最高の選手。
レイカーズやスペイン代表で数々のタイトルを手にした。
弟のマルク・ガソルもスペイン代表でNBAプレーヤーだ。
受賞歴 | |
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獲得メダル | ||
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男子バスケットボール | ||
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オリンピック | ||
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2008 北京 | 得点王 |
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2012 ロンドン | |
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2016 リオデジャネイロ | |
世界選手権 | ||
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2006 日本 | 大会MVP |
ユーロバスケット | ||
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2001 トルコ | 大会ベスト5 |
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2003 スウェーデン | 大会ベスト5 |
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2007 スペイン | 大会ベスト5 |
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2009 ポーランド | 大会MVP |
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2011 リトアニア | 大会ベスト5 |
ジュニア世界選手権 | ||
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1999 リスボン |
経歴
選手経歴 | |
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1999-2001 2001-2008 2008-2014 2014-2016 2016-2019 2019 |
![]() メンフィス・グリズリーズ ロサンゼルス・レイカーズ シカゴ・ブルズ サンアントニオ・スパーズ ミルウォーキー・バックス |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
クラブ
7歳の時に生まれ故郷のサン・ボイ・ダ・ジョブレガットのバスケチーム(Cantera Basquet Llor Sant Boi)に入団し、バスケットボールを始める。
その後、10代始めにCBコーネリアというバスケチームに移籍。この頃の彼の身長は185cmで、ポイントガードを務めていた。
これら国内下部リーグのユースチームでの活躍が目に留まり、16歳で国内トップリーグの名門FCバルセロナのユースチームにスカウトされる。
FCバルセロナからのスカウトをきっかけに、彼のキャリアは大きく飛躍することになる。
まず、FCバルセロナのユースチームでジュニアリーグ制覇。
1998年、ミュンヘンで開催されたジュニア国際大会(アルバート・シュヴァイツァー・トーナメント)でスペインのジュニア代表として参加し優勝。
同年、ヴァルナ (ブルガリア)で開催されたU-18欧州選手権にU-18スペイン代表として参加し優勝。
1999年に、18歳でFCバルセロナのトップチームに昇格しプロデビュー。
これが「自分の未来はプロバスケットの世界にある」と決心させた。
同年夏にリスボンで開催されたジュニア世界選手権にU-18スペイン代表として参加。
フアン・カルロス・ナバーロ、ラウル・ロペス、フェリペ・レジェス、カルロス・カベサスらを擁したスペインは決勝戦で、ニック・コリソン、ボビー・シモンズ、キーオン・ドゥーリングらを擁するU-18アメリカ代表を倒し見事優勝。
後にこのスペインの世代は黄金世代(Golden Boys)と呼ばれるようになる。
リーガACBでのラストシーズンとなった2000-2001シーズンは圧巻だった。
国内リーグ(リーガACB)とスペイン国王杯(コパ・デル・レイ)の両方を制し、両方でMVPを受賞した。
特に、スペイン国王杯の決勝戦(vsレアル・マドリード・バロンセスト)では、スペイン史上有数の選手でスペイン代表のアルベルト・エレーロス相手に、10代ながら堂々のプレイをし、26点を獲得した。
この試合にNBAのスカウト達も注目し、ガソルにコンタクトを取った。
これら国内リーグでの活躍と1999年のジュニア世界選手権優勝。
この二つがガソルにNBA行きを決心させた。
2001年のNBAドラフトにエントリーすることを決意したガソルだったが、FCバルセロナとの契約がまだ残っていたため違約金が発生した。
パウはこの違約金の一部を自ら支払っている。
それ程までにガソルはNBAに挑戦したかったのである。
2001年のNBAドラフトでアトランタ・ホークスから全体3位指名を受けた後、シャリーフ・アブドゥル・ラヒームとのトレードでメンフィス・グリズリーズ入りを果たした。
1年目は、言葉や生活習慣の違いに苦労したが、両親をアメリカに呼び寄せたり、同期のシェーン・バティエと親交を深めたりすることで、生活面の不安は徐々に減っていった。
プレー面では、当時まだ線が細かったため、守備でパワー負けすることはあったが、オフェンススキルのセンスと多彩さはNBAでも即戦力で、安定したプレーを見せ、1年目から平均17.6点,8.9リバウンド, 2.7アシストとチームの中心選手となる活躍をし、2001-2002シーズンの新人王を受賞した。
しかし、グリズリーズはリーグの最下層チームとして低迷。
デビュー2年はプレーオフにも出場できずにいたが、ヘッドコーチが名将、ヒュービー・ブラウンに交代したのをきっかけに、チーム成績は上昇。
2003-2004シーズンにフランチャイズ史上初のプレーオフ進出を果たした。
このときガソルの成績は下降したが、ブラウンが10人ローテーションを行ったためである。
しかしながらプレーオフではファーストラウンド敗退に終った。
続く2004-2005シーズンも8位シードながらプレーオフに進出するが、またしてもファーストラウンド敗退の苦汁をなめている。
2005-2006シーズンは、大幅な入れ替えを行ったチームの大黒柱として奮起。
キャリア最高の数字を残し、自身初のNBAオールスターゲーム出場を決めた。
これまではヨーロッパ出身者特有の、ビッグマンながら柔らかいシュートタッチが持ち味の1つだったが、このシーズンはアシストにも開眼。
前シーズンに比べ2本以上の上昇を果たした。
またチームは3年連続でプレーオフ進出を果たした。
しかし、またしても1勝もできずに1回戦敗退。
大黒柱として苦しい経験を味わうことになった。
世界選手権での負傷(後述)によって、2006-07シーズンの開幕には間に合わせることができなかった。
当初は年明けの2007年1月の復帰と報じられたが、12月15日のアトランタ・ホークス戦で復帰。
徐々に出場時間を延ばして試合感覚を戻していった。
2007-08シーズン途中の2月、プレーオフに向けてクワミ・ブラウン、ジャバリス・クリッテントン、引退していたアーロン・マッキーの契約権、将来のドラフト1巡目指名権2つとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。
レイカーズが大きな損失無く大幅な補強に成功したこのトレードは、その他のウェスタンカンファレンスの強豪チームに危機感を抱かせ、その後のシャキール・オニール、ショーン・マリオン、ジェイソン・キッド、カート・トーマスなどの大物選手のトレードの呼び水となった。
ガソルの加入によりレイカーズは躍進を遂げ、彼自身は初めてプレーオフで勝利し、勢いのまま自身初のNBAファイナルに進出。
ファイナルではボストン・セルティックスに敗れたものの、続く08-09シーズンには決勝でオーランド・マジックを破って優勝した。
ガソル自身は相手のエースのドワイト・ハワードをレギュラーシーズン以下の成績に押さえ込む一方で、FG成功率は60%超えを記録するなど攻守にわたって活躍した。
更に09-10シーズンもファイナルに出場。ボストン・セルティックスとの再戦となったこの戦いでは、ケビン・ガーネットを圧倒する活躍を見せ、見事に連覇に貢献した。
2014年7月12日、シカゴ・ブルズへの移籍が発表された。
2015年1月11日のミルウォーキー・バックスとの対戦で、キャリアハイの46ポイントを記録した。
2015年1月22日には、NBAオールスターゲームのスターターにも選出され、弟のマーク・ガソルとのオールスターゲームでの共演が実現した。
2016年7月4日、サンアントニオ・スパーズと2年3000万ドルで契約。
3度目のNBAチャンピオンへの最後のチャンスに挑むことになった。
加入1年目の2016-17シーズンは、開幕から、ティム・ダンカンに替わるスターターとして39試合に出場し、オフェンスでの貢献はあるものの、ディフェンスに関しては引退直前であった昨シーズンのダンカンに及ばず、出場時間が限定されていた。
2017年1月19日のデンバー・ナゲッツ戦前のウォームアップ中に左手第4中手骨を骨折し、長期の欠場を余儀なくされた。
オールスターゲーム後に戦線復帰。
シーズン最終戦のユタ・ジャズ戦で通算20000得点を記録し、ダーク・ノヴィツキーに次ぐ ヨーロッパ出身選手の通算20000得点 、更にカリーム・アブドゥル=ジャバー、ティム・ダンカン、ケビン・ガーネットに次ぐ、リーグ史上4人目の 通算20000得点 15000リバウンド 3500アシスト 1500ブロックショット を達成した。
2017年7月に1度スパーズとの契約を解消したが、21日に3年4800万ドルで契約を結び直した。
2019年3月2日、サンアントニオ・スパーズとの契約バイアウトに合意した。
その2日後の4日、ミルウォーキー・バックスと契約。
移籍前から左足の怪我に悩まされていたが、5月10日に疲労骨折していた左足を手術し、プレイオフの残りを全休することが報じられた。
移籍後の出場試合はレギュラーシーズンの3試合のみとなった。
代表
2004年のアテネオリンピックでスペイン代表デビュー。
しかし12チーム中7位に終わった。
2008年の北京オリンピックでは銀メダルを獲得、個人では平均19.6得点と大会得点王となる活躍を見せた。
決勝ではガソル兄弟を中心とした高さでアメリカを苦しめ、試合終盤までアメリカ代表に食い下がり、スペイン代表の強さを改めて世界に示した。
2012年ロンドンオリンピックの開会式ではスペイン選手団の旗手を務めた。
2016年リオデジャネイロオリンピックで、代表に復帰している。
銅メダル獲得。
2006年8月から9月にかけて開催された2006年バスケットボール世界選手権日本大会に出場。
スペインはダーク・ノビツキー擁するドイツ代表や開催国の日本代表などを降し、グループBを1位で通過した。
ファイナルラウンドでは順当に勝ち進むもの、準決勝のアルゼンチン代表相手には1点差の辛勝だった。しかも、このアルゼンチン戦でガソルは負傷退場し、弟のマーク・ガソルに助けられながらベンチを後にした。
診断の結果は第5中足骨基部骨折。
全治3か月で、NBAの11月開幕までの復帰は絶望的になってしまった。スペインの決勝戦の相手は、大方の予想だったアメリカ代表ではなく、欧州王者のギリシャ代表だった。
スペイン代表は「Pau tambien juega(パウも共にプレイしている)」と書かれたTシャツを着て入場した。
ガソルは足を引きずりながらも、ベンチから声援を送った。
当初はガソル欠場で不安視されていた試合だが、スペインが圧倒的な強さを誇って序盤からギリシャを圧倒、ギリシャはアメリカ戦の疲れからかシュート成功率が非常に低かった。
終わってみれば70-47の大勝で、スペインは初の「世界王者」のタイトルを勝ち取った。
優勝が決定すると、ガソルは弟マークや仲間達と抱擁を繰り返し、目に涙を浮かべながら喜びを分かち合った。
ガソルは大会のオールスターファイブ(最も活躍した5選手)に選出された。
また、この中からメディア投票によって決定する大会MVPにも選ばれた。
決勝は欠場したものの、ダブル・ダブルを3回記録するなどスペインを牽引し、それらの好成績が高く評価された結果といえる。
エピソード
パウ・ガソルは親友のコービー・ブライアントとのエピソードが満載だ。
アメリカに移り住んだ時点で英語を流暢に話すことができたガソルだが、コービー・ブライアントと特別な関係を築く鍵となったのが母国語のスペイン語であったとインタビューで語っている。
「チームメイトになった最初の試合から、さっそくコービーはプレイやカバーについてスペイン語で話し始めたんだ。それは素晴らしかったよ。彼がイタリア語を話せることは知っていたけれど、スペイン語まで話せるとは思っていなかったんだ。彼は父親がイタリアでプレイしていた関係で、子供の頃にイタリアに住んでいたからね」
「彼はスペイン語を話せるバネッサと結婚して、それを習得した。かなり使いこなしていたよ。特に私がレイカーズに移籍した最初の年は、相手チームの選手は、私たちが何を話しているか分からない様子だった。彼らは『お前たちは何を話しているんだ?』と言っていた。それは、とても愉快だったね。そのおかげで私とコービーは良好な関係を築くことができた。彼がそういう空気を作ったんだ」
このガソルのエピソードについて、『ClutchPoints.com』のパオロ・ソンコ記者は「試合中にチームメイトの母国語で会話することは、チームリーダーとして素晴らしい態度であると同時に、相手チームをかく乱する戦術にもなる。まさに『一石二鳥』だ。だが、これはブライアントだからこそできた特別なやり方だった」とコメントしている。
チームメートの士気を高めるために、現役時代から『飴と鞭』を使い分けていたコービー・ブライアント。
2009年と10年にレイカーズが連覇を達成した際、当時の相棒パウ・ガソルのモチベーションを高めるため、驚きの行動を取っていたことを、本人が『247 Sports』とのインタビューで明かしている。
そのエピソードを紹介する前に、2008年のレイカーズとガソルについて触れておかなければならない。
ガソルは、2007-08シーズン中のトレードによりグリズリーズからレイカーズに加入。
コービーとの相性が良かったこともあり、チームは同年NBAファイナルに勝ち進み、ライバルのセルティックスと激突した。
当時のセルティックスは、ポール・ピアース、ケビン・ガーネット、レイ・アレンの『ビッグ3』結成初年度で、まだケミストリーが不完全だったレイカーズを押し切り、球団史上17回目の優勝を果たした。
優勝まであと一歩だったガソルとコービーだったが、その数ヵ月後に開催された北京五輪では、敵同士として決勝で激突することになった。
2004年のアテネ五輪で屈辱の銅メダルという結果に終わったアメリカは、コービーらが中心の最強チームで臨み、見事に強豪スペインを破って金メダルを獲得した。
コービーはオフに勝者になれたものの、ファイナルでも負け、オリンピックでも銀メダルという結果に終わったガソルは、数ヵ月の間に2度も栄冠を逃したことになる。
そんな矢先、コービーは、ガソルの感情を逆撫でする行動に出た。
「僕が好きな話で、パウはこの話をするたびに嫌がるんだけれど、今日は話すよ。僕たちは、08年のファイナルでセルティックスに負けた。あの時のファイナルはフィジカル色の強いシリーズで、こてんぱんにやられた。その年のオフにはオリンピックに出場して、僕たちアメリカが金メダルを獲得した。それでトレーニングキャンプの初日に、僕はパウのロッカーの前に金メダルをぶら下げておいたんだ」
「彼は、母国を心の底から愛している。彼にとって、母国の存在はすべてなんだ。だから、すごく怒ってね。『どういうつもりだ!』という感じになったから、僕はこう言ったんだ。『パウ、聞いてくれ。君はセルティックスに負けて、オリンピックでは俺たちに負けた。今シーズン負けて3連敗になることだけは避けよう。優勝を勝ち取ろう』とね」
前年のファイナルでの敗因の一つには、ガーネットとマッチアップした際にフィジカルの差で苦戦を強いられたガソルの存在が挙げられていた。
コービーは「(08-09シーズンの)パウは素晴らしかった。彼にとっては、フィジカルの部分でのステップアップが重要だったんだ。チームにとっても必要だったことを彼は実行してくれた。それで2シーズン続けて優勝できたんだ」と語った。
コービーの檄を受けて肉体強化に取り組んだ結果、ガソルは08-09シーズンからフィジカル色の強いプレーでも負けなくなり、同シーズンのプレーオフではポストシーズンでのキャリアハイとなる40.5分というプレータイムを記録。
マジックとのファイナルでは、当時リーグNo.1センターと言われたドワイト・ハワードを抑え、キャリア初優勝を成し遂げた。
そして09-10シーズンには、セルティックスにリベンジを果たして2連覇を飾った。
コービーの行動は、一歩間違えればデュオの間に大きな亀裂が入っていてもおかしくなかった。
ガソルに意図を理解させたコービーもさることながら、怒りをモチベーションに変え、選手として一回り大きくなったガソルもまた、称賛に値する。
この話以外にも、コービーがガソルの闘争心をかきたてるために取った行動があると、ガソルがスペインのテレビ番組『La Resistencia』に出演した際に明かした。
「レイカーズ時代には、チームメートから2つニックネームを付けられた。一つは映画『グラディエーター』の主人公からとったもので『スパニアード』で、チームのみんなが映画のサウンドトラックをかけたりしていたよ。もう一つはコービーが付けたもので、『パブロ』だ。彼はいつだって僕の内なる闘争心に火を点けようとしていて、この名前は由来はパブロ・エスコバルからきているんだ」
パブロ・エスコバルとは、コロンビア最大の麻薬密売組織メデジン・カルテルを創設し、『麻薬王』という悪名を世界中に轟かせた人物だ。
ガソルは、歴史に残る犯罪者の名前をニックネームにされた理由をこう明かした。
「彼が自分をパブロと呼んだ理由は、麻薬王には関係なかった。容赦ない本能的な部分を自分に真似てもらいたかったからだ。それだけのアグレッシブさを僕にもたらすために、パブロ・エスコバルと自分とを比較したんだ」
付けられて気持ちのいいニックネームではないが、ガソルの説明を聞くとコービーの意図は理解できる。
コービーの言動によりスイッチが入ったガソルは、その後、肉体強化に取り組んだ。
そして2008-09シーズンからフィジカル色の強いプレーでも負けなくなり、レイカーズの連覇に貢献した。
周りから誤解を受けるような手法だが、これが機能したのはガソルとコービーの間に強い信頼関係があったからこそ。
金メダルの話も含め、2人がパートナーとして認め合っていたことを表すエピソードだ。
プレースタイル
ゴール付近で驚異的な強さを誇るビッグマン。
バリエーション豊富なシュートセレクションを持っており、状況に応じてフックシュートやドライブイン、またジャンプシュートで得点を量産する。
ローポストからハイポストまで攻撃範囲が広く、スピードもあるため相手センターをゴール下から引きずり出しての1オン1にも強い。
ヨーロッパ出身選手らしくフリースローを苦手にしていない(ただし3ポイントシュートは滅多に打たないが、決めることも可能)。
パスセンスも高く、自らフィニッシュに行くと見せかけてフリーの味方に絶妙なアシストを送る。
ディフェンス面でもリバウンド、ブロックショットの能力にも長けており、アンセルフィッシュで、汚れ役も厭わない。
その一方でセンターとしては細身な体系のためパワー勝負を弱点としている事や、メンタル面の弱さがプレーに影響する事も決して少なくなく、「ソフト」と揶揄される事も多い。