概略
誕生日 | 1953年8月30日(67歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ルイジアナ州シュリーブポート |
出身 | セントナリー大学ルイジアナ |
ドラフト | 1976年 8位 |
背番号(現役時) | 00 (永久欠番) |
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身長(現役時) | 215cm (7 ft 1 in) |
体重(現役時) | 105kg (231 lb) |
ポジションはセンター。
右利き。
愛称は「ザ・チーフ(酋長)」。
ラリー・バード、ケビン・マクヘイルとともに80年代のボストン・セルティックスの黄金期を築き上げたメンバーである。
1996年にNBA史上最も偉大な50選手に選出され、2001年にバスケットボール殿堂入りした。
受賞歴 | |
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主な受賞トピックス
- 4×NBAチャンピオン : 1981, 1984, 1986, 1997
- 9×NBAオールスターゲーム出場: 1981, 1982, 1983, 1984, 1985, 1986, 1987, 1990, 1991
- オールNBAチーム
- 2ndチーム:1982
- 3rdチーム:1989
- NBA50周年記念オールタイムチーム:1996
- No.00 ボストン・セルティックス永久欠番
主なNBA記録
- 21シーズン出場:歴代2位 (2019-20シーズンにヴィンス・カーターが22シーズン出場を達成。また、ケビン・ガーネット、ダーク・ノビツキー、モーゼス・マローン、ケビン・ウィリスが同様に21シーズン出場している。)
- 1,611試合出場:歴代1位
- プレーオフ16シーズン出場:歴代2位
- プレーオフ184試合出場:歴代4位
- オフェンスリバウンド4,598:歴代2位
- ディフェンスリバウンド10,117:歴代2位
- プレーオフオフェンスリバウンド571:歴代1位の記録
- ブロック2,357:歴代9位(セルティックスのフランチャイズ記録である。)
経歴
クラブ経歴 | |
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1976-1980 1980-1994 1994-1996 1996-1997 |
ゴールデンステート・ウォリアーズ ボストン・セルティックス シャーロット・ホーネッツ シカゴ・ブルズ |
大学卒業後、1976年のNBAドラフトの1巡目全体8位でゴールデンステート・ウォリアーズに指名されNBA入りする。
ウォリアーズ時代は出場時間に恵まれなかったが、1980年にセルティックスにトレードで移籍後、目覚しい活躍を見せる。
セルティックスにはラリー・バードがおり、ケビン・マクヘイルという強力フォワードがいた。
そこにパリッシュという大型センターが加わることによって理想的なトライアングルが形成された。
このトリオの活躍によりセルティックスは東地区の伝説的な強豪にチームになり、西地区のロサンゼルス・レイカーズと二強の時代になる。
80年代は東地区のどのチームも「打倒・セルティックス」に目標を置いていたといっても過言ではない。
セルティックスの黄金期というとバードが注目されがちだが、ゴール下を占領しリバウンドを取り捲り、ブロックショットを連発するパリッシュの存在も重要なファクターであった。
パリッシュは1994年にシャーロット・ホーネッツに移籍し2年間プレーをした。
その後1996年にマイケル・ジョーダンがカムバックし再び強さを取り戻していたシカゴ・ブルズに移籍し1年間プレーをし、NBAファイナルを制覇した。
すでに43歳になっており優勝後引退した。
エピソード
映画『カッコーの巣の上で』の登場人物に似ていた事から「ザ・チーフ」(酋長)のニックネームで呼ばれた。
趣味は、ジャズの鑑賞と何と 「 柔道 」 でした。
屈強な身体能力は、そこでも鍛えられたのでしょう。
実際、晩年でもマッチアップした若いセンターとガチでやり合って、怯んだ様子は全くありませんでした。
パリッシュは地元シュリーブポートのウッドロウン高校で平均26.6ポイント、18.0リバウンドの成績を残し1972年にセントナリー大学ルイジアナに入学した。
州内でも注目の選手であり3年間ルイジアナ州学生代表に選ばれ、州のプレイヤー・オブ・ザ・イヤーにも選出された。
1975年には大学バスケットのMVPにも選ばれ、1976年にはスポーティング・ニュースが選ぶオールアメリカにも選ばれている。
1974-75シーズンにマークした15.4リバウンド、1975-76シーズンの18.0リバウンドはともに合衆国学生1位の成績であった。
ロバート・パリッシュは、ボストン・セルティックスの象徴だったラリー・バードのリーダーシップの方が好きだったと振り返った。
“ザ・チーフ”の愛称で親しまれたパリッシュは、1976年のドラフト1巡目全体8位でゴールデンステイト・ウォリアーズ入り。
1980年に名門セルティックスへ移籍すると、先発センターとしてインサイドの要を担い、バードやケビン・マクヘイルとともに1980年代に計3回のチャンピオンに輝いた。
シャーロット・ホーネッツでの2年間を経て、キャリア21年のラストイヤーとなる1996-97シーズンをブルズで過ごしたが、最終的に優勝するこの年の出来事を『CLNS Media』の『Cedric Maxwell Podcast』で明かした。
ある日のスクリメージで、パリッシュらセカンドユニットのチームが、ジョーダンらの主力組に4連続で勝利。
これにエースのジョーダンが腹を立てた。
しかし、当時33歳のジョーダンに対し、同43歳のパリッシュはベテランとして言い返したという。
「彼に対して毅然とした態度をとれる人間がいないから、私が彼に立ち向かった。
そうしたら、彼は『気をつけないとぶっ飛ばすぞ』と言った。
『私はお前を恐れていない。もっと最悪のヤツらと一緒にプレイした経験がある。
お前は私に恐れをなしているのか?』と返してやった。
彼は顔に平手打ちを食らったかのような表情で私を見ていたよ。(3年目の24歳だった)
ディッキー・シンプキンスは、私がマイケルとそんな風に口を利いているのが信じられないようだった」
パリッシュが11年間在籍したセルティックスには、バードという絶対的な存在がいた。
パリッシュから見て3歳年下だが、バードのリーダーシップは理想的だったとジョーダンと比較しながら回想している。
「言うまでもなく、ブルズではマイケルが序列の一番手だ。
知っての通り、彼のチーム。
周囲は彼がやりたいことをやれるようにしていた。
選手は誰もが独自のスタイルを持ち、チームを牽引する方法を持っている。
マイケルの場合は、チームメイトを挑発してやる気を煽った」
「ラリーは私たちのリーダーで、セルティックスでみんなの手本だった。
ボーカルリーダーではなく、その背中でどうプレイすべきか仲間に語った。
ラリーのスタイルと哲学が最高のリーダーを作ると思う。
どちらのリーダーシップも尊重するけど、私はラリーのスタイルをより好むね。
トラッシュトークでけんか腰な態度を取るマイケルは損な役回りだったかもね(笑)」
1996-97シーズンのブルズはレギュラーシーズン69勝を挙げ、NBAファイナルでユタ・ジャズを下して2連覇を達成。
パリッシュは4個目のチャンピオンリングを手にして、自身の花道を飾った。
93年にマリファナ所持で送検されてしまった。
プレースタイル
近年では珍しくないが、当時は少なかったセブンフッター (身長7ft以上)のセンターであり、ゴール下で他に類を見ない強さを見せた。
ゴール下を支配した職人センター。
アキーム・オラジュワンほどではありませんでしたが、器用な選手でした。
シャキール・オニールやパトリック・ユーイングほどではありませんでしたが、パワフルな選手でした。
カリーム・アブドゥル・ジャバーほどではありませんでしたが、技巧派の選手でもありました。
突出したところはありませんでしたが穴もない、全てにおいて「80点」のプレーヤーといった印象を受けました。
シャックやユーイングみたいにフリースローが下手くそではなかったし、総合的に見れば素晴らしいセンターの選手です。
リムプロテクターとしてディフェンスでの貢献も素晴らしくセルティックスでの2,357回のブロックは、いまだに破られていないチーム記録だそうです。
決して派手ではありませんでしたが、チームを縁の下で支えた、いなければならない名黒子と言えた選手でした。