ドラジェン・ペトロヴィッチ

バスケ

概略

Drazen Petrovic – Best Plays and Highlights – Greatest Player Ever?
誕生日 1964年10月22日
没年月日 1993年6月7日(28歳没)
ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア
クロアチアの旗 クロアチア
出身地 シベニク
ドラフト 1986年 60位
背番号(現役時) 44, 3
身長(現役時) 196cm (6 ft 5 in)
体重(現役時) 91kg (201 lb)

 

ポジションはシューティングガード。

 

右利き。

 

愛称は「バスケ界のモーツァルト」。

 

ユーゴスラビア代表、クロアチア代表の中心選手としてオリンピック、世界選手権などで何度もメダルを獲得した。

 

またNBAで最初に成功を修めたヨーロッパ出身選手の1人と考えられている。

 

兄のアレクサンダル・ペトロヴィッチもバスケットボール選手で1984年ロサンゼルスオリンピック、1986年バスケットボール世界選手権では共にユーゴスラビア代表として銅メダルを獲得している。

 

NBA史上初と言って差し支え無い、ユーロから来た選手で初めてNBAチームのエースとなった選手。

 

NBAでのスターとしての期間は僅か2シーズンで終わってしまいましたが、その足跡は決して色あせる事は無いでしょう。

 

昨今のNBAでこそ普通にユーロはじめアメリカ国外出身の選手達が多数活躍していますが、今日の隆盛にはペトロヴィッチのような先駆者の存在がある事を覚えておいて欲しいです。

 

2007年にはFIBA殿堂入りも果たした。

 

2008年には、ユーロリーグ史上の偉大な50人に選ばれている。

 

受賞歴
  • オールNBAサードチーム(1993)
  • 2×ユーロリーグチャンピオン(1985、1986)
  • EuroLeague Finalsトップスコアラー(1985)
  • FIBAヨーロッパセレクション(1987)
  • 4×ユーロスカー(1986、1989、1992、1993)
  • 2× Mr。EuropaAward(1986、1993)
  • 2× FIBAサポルタカップチャンピオン(1987、1989)
  • 2× FIBAサポルタカップ決勝トップスコアラー(1987、1989)
  • FIBAコラックカップ決勝トップスコアラー(1988)
  • スパニッシュリーグトップスコアラー(1989)
  • スパニッシュカップ決勝トップスコアラー(1989)
  • FIBA世界選手権MVP(1986)
  • FIBA EuroBasket MVP(1989)
  • ユーゴスラビアのベストアスリート(1985)
  • ユーゴスラビアスポーツマンオブザイヤー(1985)
  • クロアチアのスポーツマンオブザイヤー(1985、1986)
  • FIBAの50人の偉大な選手(1991)
  • 50人の最大のユーロリーグ貢献者(2008)
  • オリンピック功労章(1993)
  • No. 3 retired by Brooklyn Nets
  • No. 10 retired by Cibona

 

経歴

Remembering Dražen Petrović
クラブ経歴
1979-1983
1984-1988
1988-1989
1989-1991
1991-1993
KKシベンカ
KKツィボナ
レアル・マドリード
ポートランド・トレイルブレイザーズ
ニュージャージー・ネッツ

 

クラブ

 

クロアチアのシベニクでセルビア人の父親とクロアチア人の母親の間に生まれた。

 

13歳の時にユーゴスラビア1部リーグに所属するKKシベンカのユースチームのセレクションを受けて加入、15歳の時にはトップチームに昇格した。

 

彼はチームの若きスターとして1982年、1983年のコラチカップでは共に準優勝している。

 

1983年のユーゴスラビアクラブ選手権では試合終了間際に2本のフリースローを決めてKK ボスナを破り優勝したが翌日になってユーゴスラビアバスケットボール協会より、審判による不正な笛があったとしてノヴィ・サドでの再試合を行うと決定が下されたが彼らは再試合を拒絶したため優勝は剥奪された。

 

1年間の兵役を務めた後、1984年にザグレブを本拠地とするKKツィボナに移籍した。

 

彼が移籍した初年度、チームはユーゴスラビア選手権とナショナルカップに共に優勝、欧州チャンピオンズカップ決勝で彼は36得点をあげて、チームは87-78でレアル・マドリード・バロンセストを破り優勝した。

 

翌年も決勝でアルヴィーダス・サボニス率いるBCジャルギリス戦で22得点をあげる活躍を見せ、チームは連覇を果たした。

 

同年のナショナルカップでも古くからのライバルであるボスナ戦で46得点をあげて優勝した。

 

1987年にはヨーロピアンカップ・ウィナーズカップ決勝で28得点をあげてビクトリア・リベルタス・ペサロを破り自身3度目のヨーロッパ大会優勝を果たした。

 

4年間のチーム在籍で彼はユーゴスラビアリーグでは平均37.7得点、ヨーロッパのクラブ大会で平均33.8得点、40得点以上、50得点以上をあげる試合は何度もあり、出場した112試合中の自己ベストは62得点であった。

 

1986年のヨーロピアンリーグの対CSPリモージュ戦では10本の3ポイントシュート(前半だけで7本の3ポイント)を含む51得点10アシストをあげている。

 

また同じ大会でのイタリアリーグチャンピオンのオリンピア・ミラノ戦では45得点、25アシストをあげた

 

彼に対して1986年のNBAドラフトでポートランド・トレイルブレイザーズがドラフト3巡目全体60番目に指名していたが、彼は1988年にスペインリーグのレアル・マドリード・バロンセストと400万ドルの契約を結び入団した。

 

リーグ戦は5位に終わったがカップ戦で優勝、ヨーロッピアンウィナーズカップ決勝でスナディエロ・カセルタを破り優勝した。

 

リーガACBでの活躍は1年間であったが、彼は未だにリーガACB記録であるファイナルでの42得点、1試合最多3ポイントシュート成功数8の記録を残している。

 

更なる高みであるNBAにチャレンジすることを決意した彼に対してポートランド・トレイルブレイザーズはレアル・マドリードへの契約違約金(およそ150万ドル)を支払うことで彼はついにNBAでプレイすることとなった。

 

輝かしい実績をあげた彼は、1989-90シーズンよりNBAのポートランド・トレイルブレイザーズでプレイすることとなったが、言葉の障壁もあり、またバックコートにクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターがいたこともあり満足するプレイ時間を与えられることはなかった。

 

ヨーロッパ最優秀選手に選ばれたこともある彼は平均12分しかプレイさせてもらえず1試合平均7.4得点をあげるに留まった。

 

1990/91年シーズンになるとプレイタイムは平均7分まで減り、彼の不満は爆発するようになった。

 

38試合が終了(そのうち20試合は出場時間0)したところでデンバー・ナゲッツとの三角トレードで彼はニュージャージー・ネッツに移籍することとなった。

 

ナゲッツが絡んだこのトレードで、ペトロヴィッチはネッツへと移籍したのです。

 

名将ビル・フィッチに率いられていた当時のネッツは’86年を最後にプレーオフから離れていたものの、この年を最後に引退したレジー・セウス、2年目のムーキー・ブレイロック、怪我持ちビッグセンターのブウイ、そして期待の新人デリック・コールマンを擁していました。

 

ペトロヴィッチはこのチームにあって出場時間を20.5分と伸ばし、12.6得点を挙げてようやくNBAでの足がかりを得ます。

 

1991年1月23日に加入したネッツは、ケニー・アンダーソン、デリック・コールマンがいたがチームは1986年のエクスパンションで誕生して以来一度もプレーオフに進出したことがないチームであった。

 

そして’91-’92シーズン、遂にペトロヴィッチの才能がNBAでも開花します。

 

セウス引退と入れ替わるようにやってきた新人PG、ケニー・アンダーソンが加入したこのネッツにおいて、ペトロヴィッチは全82試合で先発SGとして完全定着、FG成功率.508、3ポイント成功率.444で20.6得点3.1リバウンド3.1アシストをマークしてみせたのです。

 

SGでFG成功率5割超なんて、マイケル・ジョーダン以外には殆ど存在しないハイアヴェレージです。

 

そしてペトロヴィッチの飛躍に足並みを揃えるかのようにネッツの成績も14勝プラスで40勝となり、ネッツは遂にプレーオフ出場を果たしたのです。

 

ネッツでの初プレーオフ、キャヴスと対決したペトロヴィッチは初戦で40得点を叩き出し、第2戦でも23得点、そして第3戦では20得点3リバウンド6アシストをマークする大活躍を見せました。

 

結局1勝3敗で1stラウンド敗退となったものの、ネッツに久々に明るい希望が見え始めた事は明らかでした。

 

ブレイザーズ時代と異なり43試合の出場で、1試合平均20.5分が彼に与えられて平均12.6得点の数字を残すと、翌シーズンには全試合に先発出場、平均36.9分の出場、20.6得点(チームの得点リーダー)、ガード選手としてはトップレベルのシュート成功率50.8%(リーグのガード中4位)、3ポイントシュート成功率44.4%(リーグ2位)の成績を残し、チームの年間最優秀選手に選ばれた。

 

そして’92-’93シーズン。

 

フィッチに代わってネッツHCに就任したのはなんとドリームチームのHC、チャック・デイリー。

 

そしてブレイロックが去ったネッツはケニー・アンダーソン、コールマン、そしてペトロヴィッチのBIG3体制を確立します。

 

五輪のダメージがあったか70試合の出場に留まったペトロヴィッチでしたが、FG成功率.518(全ガード中2位)、3ポイント成功率.449(リーグ2位)、22.3得点(リーグ11位)2.7リバウンド3.5アシストとスタッツを更に向上させます。

 

2/28のニックス戦でケニー・アンダーソンがシーズン終了となったにも拘わらずチームは43勝と更に成績を向上させ、ペトロヴィッチ自身もNBAオール3rdチーム入りを果たしたこのシーズン、しかし彼はオールスターには選ばれませんでした。

 

キャヴスから3人、ペイサーズからシュレンプがイースト代表として選ばれたこのオールスターにおいて、ペトロヴィッチはこのシーズンのハイスコアラー上位13名中唯一オールスターに選ばれなかったのです。

 

この事実はペトロヴィッチをいたく失望させました。

 

そしてプレーオフ、ネッツはまたもキャヴスと対戦します。

 

このシリーズ、ペトロヴィッチがFG成功率5割を超えた2試合はネッツが勝ち、.430を割り込んだ3試合ではネッツが敗戦というある意味分かり易いシリーズでした。

 

ケニー・アンダーソン不在のまま2勝3敗というのは、むしろネッツは健闘したと言うべきなのでしょう。ケニー・アンダーソンが復帰するであろう来季こそはネッツも更に躍進するはずだ、そう見えました。

 

しかしながら、ペトロヴィッチ自身はネッツに対しても不満が募り始めていました。

 

’93年オフのユーロバスケットでクロアチア代表としてポーランドへ向かった彼はチームメイトとの温度差、未だ契約延長をしてくれないチームに失望していたのです。

 

そしてペトロヴィッチはアメリカ人レポーターに対して、NBAでの自身への敬意の欠落(オールスター不選出など)故にユーロへの出戻りを考えている事、ギリシアの2チームが3年750万ドルのオファーをオファーする用意がある事を告げたのです。

 

パナシナイコスBCと口頭で合意している、という噂もありました。これらが本気だったのか、ネッツへの単なるプレッシャーとしてのものだったのか、今ではもう分かりません。

 

ペトロヴィッチはクロアチアの首都ザグレブへの飛行機に乗らずに、ドイツ人モデルにして女子バスケット選手だったガールフレンドと一緒にドライヴでクロアチアへ戻る事を選びます。

 

そして運命の1993年6月7日、17:20。29才の誕生日まで4ヵ月半を残していたペトロヴィッチは、ドイツはバイエルン州インゴルシュタットから15マイルほど北に位置するデッケンドルフで、ガールフレンドが運転するフォルクスワーゲン・ゴルフの助手席で睡眠をとっていました。

 

激しい雨に濡れたアウトバーンで、その悲劇は起きました。

 

スリップしていた車を避けようとしたトラックがガードレールにぶつかってしまい、道を塞いでしまったのです。

 

トラックのドライヴァーはトラックを離れて後続の車を止めようとしましたが、数秒後にペトロヴィッチを載せたフォルクスワーゲンが衝突してしまったのです。

 

そして運転していたガールフレンド、同乗していた元女子バスケット選手、ペトロヴィッチのうち、ペトロヴィッチだけがその事故で即死してしまったのでした。

 

シートベルトを締めていなかった事が致命的だったようです。

 

彼の訃報に、ネッツのGMを務めていたレジェンドセンター、ウィリス・リードは「私にとっては息子を亡くしたようなものだ」と涙を流したそうです。

 

チームメイトとの軋轢はいざ知らず、チームフロントは彼に敬意を持っていたように思えます。

 

実際ペトロヴィッチの背番号3はネッツの永久欠番となりました。

 

そのキャリアの短さ、オールスター未選出である事などを考え合わせてもこれは異例の措置です。

 

代表

 

15歳の時にトルコで行われたU-18バスケットボールバルカン選手権に出場、銅メダルを獲得した。

 

その後ジュニアのバルカン選手権で金メダル、シニア大会でも銀メダルを獲得した。

 

1982年にギリシャで行われたジュニアバスケットボール欧州選手権で銀メダルを獲得した。

 

シニアになってからの最初の主要大会出場となった1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダル、1986年バスケットボール世界選手権では準決勝でのソビエト連邦代表とのゲームに1点差で敗れて銅メダルとなったが、大会最優秀選手に選ばれた。

 

1987年のバスケットボール欧州選手権ではホスト国であるギリシャ代表に敗れて銅メダル、地元ザグレブで行われた1987年夏季ユニバーシアードでは優勝、1988年のソウルオリンピックではソビエト連邦に敗れて銀メダルを獲得した。

 

アルゼンチンで行われた1990年バスケットボール世界選手権ではブエノスアイレスで行われた決勝でソビエト連邦を破り優勝した。

 

クロアチア独立後初のオリンピックとなった、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」に予選ラウンドであたり敗れたが準決勝でEUNを破り決勝で再びドリームチームと対戦した。

 

開始10分ではクロアチアが25-23とリードしたが後にNBA史上偉大な50人に選ばれる選手を何人も擁するアメリカ代表が117-85で勝利した。

 

この試合で彼は24得点をあげた。クロアチア代表として1992年、1993年に彼は40試合に出場、1002得点をあげ、1993年5月31日のエストニア代表戦では48得点をあげた。

 

エピソード

[HD] Drazen Petrovic – TOP 35 PLAYS

彼の飽くなき向上心は止まるところを知らず、周囲の度肝を抜くこともしばしばだった。

 

ペトロヴィッチは練習の鬼と化し、まるで何かに取り憑かれているかのように練習に没頭した。

 

チームメイトだったジェイソン・ウィリアムズは当時こう語っている。

 

「これまであんなに練習熱心なヤツは見たことがない。チーム練習の1時間半前から個人練習を始め、終了後も2時間は1人黙々とシュート練習を繰り返している。それも毎日だ」。

 

こんなエピソードもあった。

 

遠征先で午前中の練習が終わった後、多くの選手は昼寝をするか軽食を摂ってリラックスする。

 

ある日の午後、ヘッドコーチのチャック・デイリーがホテルのジムに足を運ぶと、そこにはマシンで汗を流しているペトロヴィッチの姿があった。

 

デイリーは苦笑いしながらこう言って聞かせたそうである。

 

「ドラジェン、君はすでに素晴らしいシェイプだよ。君が今すべきことはただひとつ、休養を十分に取って今夜の試合に備えることだけだ」。

 

もうひとつ、ペトロヴィッチがチームメイトを唸らせた点があった。

 

それは彼の尋常ならざるアグレッシブさと気性の激しさである。

 

それまでのヨーロッパ出身選手は、NBAに溶け込むことを最優先課題とし、また言葉の問題もあり、波風を立てることを極力避けるのが普通だった。

 

しかしペトロヴィッチは違った。

 

ウィリアムズは言う。

 

「ドラジェンは木の棒を振り回しながら林の中を歩いているようなものだった。あのジョーダンやレジー・ミラーにも物怖じすることなく突っかかっていく。トラッシュトークなんて日常茶飯事だったよ」

 

ペトロヴィッチの凄まじいまでの練習への取り組みと揺るぎない自信、そして果てることのない向上心は、着実に結果へと結びついていった。

 

1993年のプレーオフ、クリーブランド・キャバリアーズにチームが敗戦した後、欧州選手権の予選に出場しているクロアチア代表のいるポーランドに向かった。

 

彼はアメリカ人レポーターに対して、チームメートや契約延長交渉の進まないチーム、自身へのリーグの敬意のなさに対して不満があり、ギリシャリーグへの移籍を考えていることをもらした。

 

2つのギリシャのクラブチームが3年間750万ドルの契約を用意していることが明らかにされていた。

 

一説によるとパナシナイコスBCとの契約に彼が合意しているという噂もたっていた。

 

一身上の都合でチームメートと共にクロアチアに帰国しなかった。

 

同年6月7日、彼はドイツのバイエルン州インゴルシュタット近郊のデッケンドルフの雨に濡れたアウトバーンで交通事故に遭い28歳で亡くなった。

 

地元警察によるとコントロールを失ったトラックが中央分離帯を突破して、対向車線であるミュンヘンからの三車線を塞ぐ形で停まってしまい、そこに彼が助手席で睡眠中だったフォルクスワーゲン・ゴルフが数秒後に突っ込んだという。

 

この事故で亡くなったのは彼1人であり、操縦していたドイツ人モデルや、彼との交際がささやかれていたトルコ人のバスケットボール選手は負傷しただけだった。

 

彼が亡くなった原因としてシートベルトをしていなかったこと、視界が悪かったことが原因とされた。

 

彼の死後、ツィボナ・スタジアムは同年10月4日にドラジェン・ペトロヴィッチ・バスケットボールホールと改称し、ザグレブには彼の名前がつけられた通りができた。

 

11月11日にはニュージャージー・ネッツが彼の背番号3番を永久欠番としマクドナルド選手権のトロフィーは1994年からドラジェン・ペトロヴィッチ・トロフィーと呼ばれるようになった。

 

1995年4月29日にはスイス、ローザンヌにあるIOCの公園に彼のモニュメントがお披露目した。

 

これは史上2人目のことであった。

 

2001年7月9日にゴラン・イワニセビッチはパトリック・ラフターを破りウィンブルドン選手権初優勝を果たすとスプリトで行われた10万人の観衆を前にした優勝パレードで彼の背番号の入ったレプリカジャージを着た。

 

2002年にバスケットボール殿堂入りを果たし、死後13年が経過した2006年にはザグレブにドラジェン・ペトロヴィッチ・メモリアルセンターが完成した。

 

プレースタイル

Drazen Petrovic | WAY OF DRAGON

ほとばしる情熱と闘志あふれるプレー、そして小憎たらしいまでの勝負強さを兼ね備え、見る者すべてを魅了した稀代のパフォーマー。

 

NBAでは、在籍たった4シーズンでしたが3P:43.7%  FG50.6%と驚異の数字を残した歴代屈指のスコアラー。

コメント

タイトルとURLをコピーしました