ビル・シャーマン

概略

誕生日 1926年5月25日
没年月日 2013年10月25日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州・アビリーン
身長(現役時) 185cm (6 ft 1 in)
体重(現役時) 80kg (176 lb)

 

ポジションはシューティングガード。

 

右利き。

 

ボストン・セルティックスの1950年代後半の黄金期を支えた選手の一人であり、コーチとしても多くのチームをプレーオフに導いた。

 

1976年に選手として殿堂入りを果した。

 

また1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出されている。

 

2004年にはコーチとしても殿堂入りし、2つの部門で殿堂入りした史上3人目の選手となった。

 

受賞歴
 

  • 4× NBAチャンピオン(1957年、1959年- 1961年の)
  • 8× NBAオールスター(1953 – 1960)
  • NBAオールスターゲームMVP(1955)
  • 4×オールNBAファーストチーム(1956 – 1959)
  • 3×オールNBAセカンドチーム(1953、1955、1960)
  • NBA25周年記念チーム
  • NBA50周年記念チーム
  • No. 21 retired by Boston Celtics
  • コンセンサスファーストチームオールアメリカン(1950)
  • 2×ファーストチームAll-PCC(1949、1950)
  • No. 11 retired by USC Trojans

 

  1. FT成功率リーダー:7回 (1953年;85.0%, 1954年;84.4%, 1955年;89.7%, 1956年;86.7%, 1957年;90.5%, 1959年;93.2%, 1961年;92.1%)
  2. NBAベスト50選手:1996年

経歴

 

クラブ経歴
1950〜1951 ワシントン・キャピタルズ
1951 – 1961 ボストン・セルティックス

 

彼は1950年、NBAドラフト2巡目17位で、ワシントン・キャピタルズの指名を受けます。

 

このチームは元々BAAで1946年からスタートしたチームなんですが、1949-1950シーズンからBAAとNBL合併に伴いNBAに加わりました。

 

シャーマンは早速チームトップの12.2得点を挙げる活躍を見せましたがチームは10勝25敗というチーム成績で、しかもチームはこのシーズンを最後に解散してしまいました。

 

ですのでこのチームはワシントン・ウィザーズとは何の関係も無いのです。

 

ともあれ、チームが無くなってしまっては仕方ありません。

 

キャピタルズの選手達は他チームへと再度ドラフトされる事となります。

 

1951年1月9日、このドラフトで彼を指名したのはフォートウェイン・ピストンズ(デトロイト・ピストンズ)でした。

 

そして4月26日、ピストンズはチャック・シェアのドラフト指名権とのトレードでシャーマンをセルティクスへと送ったのであります。

これはセルティクスのレッド・アワーバックがピストンズ側に働きかけた結果でした。

 

シェアは6-11のセンターで、後にシーズンダブルダブルをマークする事となります。

 

今日よりも遥かにセンターが重要なこの時代にあっては、ピストンズの判断もあながち間違っているとは言えないでしょう。

 

まあ結果はセルティクスの大勝ちトレードとなった訳ですが・・・。

ともあれ、兵役、そしてこのチーム解散とトレードという紆余曲折を経て、遂にシャーマンは約束の地、セルティックスへとやってきました。

 

僅か6-1、185cmの小兵はNBAでボブ・クージーとバックコートコンビを形成する事となります。

 

そんなシャーマンは1952-1953シーズンにはNBA史上初めて、FG成功率.400を超えたガードの1人となったのです。

 

そう、彼は模範的なシュータータイプの選手でした。

そして、そこへエド・マコーリーとのトレードであの伝説の巨人、ビル・ラッセルが1956年に加わり、ここにセルティックス王朝が遂に誕生します。

 

ここからセルティックスはチーム史上初優勝→準優勝→怒涛の8連覇を達成する事となりました。

 

シャーマンはその連覇の最中、’60-’61シーズンまで現役を続行したので、都合4つの優勝リングを得た事になります。

シャーマンは個人としてもFT成功率で7回リーグトップ(しかも5シーズン連続という記録つき)となり、そのうち1958-1959シーズンに記録した93.2%は1976-1977シーズンまで更新されませんでした。

 

また、プレーオフでのFT連続成功記録56は今日でもNBAレコードです。

 

オールスター選出8回、オールスターMVP受賞1回、オールNBAファーストチームには1956~1959年の連続で選出。

 

2ndチームにも1953・1955・1960年に選出されています。

 

そんなシャーマンもこれまた後に殿堂入りするサム・ジョーンズへと出場時間が移っていき、FT成功率1位を保持したまま1961年に早くも引退。

 

そして彼のセカンドキャリアはコーチングへと移行して行ったのです。

 

また、1950年から1955年まではプロ野球のマイナーリーグ、ブルックリン・ドジャースにも所属し、プレーしていたという異色な経歴を持っている。

 

エピソード

 

シャーマンはテキサス州アビリーンに生まれたが、育ったのはカリフォルニア州である。

 

高校も地元のポータービル高校を卒業し、その後にアメリカ海軍に2年間所属し第二次世界大戦にも出撃した。

 

復員後、1946年にサザン・カリフォルニア大学へ進学し、またバスケットを始める。

 

サザンカリフォルニア大へ進学したシャーマンはバスケットボールと野球の両方で活躍します。

 

野球において彼は大学での実績を踏まえてブルックリン・ドジャーズのマイナーでプレー、1951年にはドジャーズにコールアップされましたが実際にプレーする事はありませんでした。

 

そしてドジャーズがこの年の9月27日に審判への抗議の結果としてベンチ全員が退場処分を課せられたため、シャーマンはMLB史上唯一の、1試合も出場せずに退場処分を受けた選手という謎の勲章を得たのです。

 

結局1955年以降、彼はバスケットボールに専念する事となります。

 

1950年には全米ファーストチームにも選ばれ、また、パシフィックコースト・カンファレンスのMVPに1949年、1950年と連続で選出された活躍を見せた。

 

カレッジ時代の通算成績は平均18.6ポイントである。

 

シャーマンのコーチとしてのキャリアは、まずアメリカン・バスケットボール・リーグ(ABL)のロサンゼルス・ジェッツで選手兼HCとなります。

 

19試合で平均5.6得点というスタッツを挙げていたシャーマンでしたがチームはシーズン中に解散し、シャーマンのプロ現役生活は新人時代同様に半ばで終わったのです。

 

が、シャーマンはABLに残り、今度はクリーヴランド・パイパーズへ。

 

HCとしてシャーマンはチームを率い、なんと優勝してしまったのです。

 

彼はこの2シーズンで43勝26敗という戦績を残したのです。

 

が、今度はこのABLというリーグ自体が解散してしまいます。

 

つくづく解散に縁の深い人です。

シャーマンはカリフォルニア州立大学のHCとなって2シーズンで27勝20敗をマークした後、一度は解説者へと転職します。

 

そして2年後、遂に彼はNBAへ帰り、サンフランシスコ・ウォリアーズ(現ゴールデンステート・ウォリアーズ)のHCとして2シーズンで87勝76敗を記録したのです。

 

が、その後またしても彼はNBAを離れて、今度はABAのロサンゼルス・スターズを率います。

 

1969-1970シーズン、彼は43勝41敗でコーチ・オブ・ザ・イヤーに選出されます(2人同時選出)。

 

翌シーズンには早くもチームがユタへ引っ越しましたが、シャーマンはスターズを優勝へと導きます。

そしてやっと、シャーマンは今度こそNBAに戻って来ました。

 

ロサンゼルス・レイカーズがシャーマンを1971年にHCとして迎え入れたのです。

 

当時のレイカーズはミネアポリスからロサンゼルスへ移転してファイナルへ進出すること実に7度、悉く敗れていました。

 

そしてこの時点でチームにいたのがウィルト・チェンバレン、ジェリー・ウエスト、ゲイル・グッドリッチといった面々だったのです。

 

レイカーズは彼の指揮の元、一気に飛躍します。

 

シーズン冒頭エルジン・ベイラー引退から一気にチームは纏まり、NBAどころかアメリカのプロスポーツ史上最多記録となる33連勝をマークしたチームはシーズン通算でも69勝を挙げます。

 

この記録が更新されるまでにはマイケル・ジョーダン王朝期のシカゴ・ブルズ第二期を待たねばなりませんでした。

 

記録上、史上最強のレイカーズだったと言って良いでしょう。

 

そしてこのチームはシーズンの勢いのままにプレーオフを4-0、4-2で勝ち上がるとファイナルへ。

 

1970年ファイナルでは勝てなかったニックスを4勝1敗で退け、遂にロサンゼルス・レイカーズとして初の優勝を掴んだのです。

 

ジェリー・ウエストにとっては現役時代唯一の、またチェンバレンにとってはレイカーズ時代唯一のファイナル制覇でありました。

 

また、シャーマン自身にとってもABL、ABA、NBAと3つのリーグをHCとして優勝へ導いたという事になります。

 

なお、NBAと旧ABAの両方で優勝を勝ち取ったHCは彼以外にはアレックス・ハンナム(彼もチェンバレンを擁したシクサーズでNBAを制しました)のみです。

そんなシャーマンが発明したのが「朝のシュートアラウンド」。

 

試合当日の神経質になりがちな気持ちを抑える手段としてシャーマンはこれをABL、ABA、NBAのいずれでも導入しました。

 

レイカーズがNBAを制した1972年ファイナル以降は全チームがシュートアラウンドを採用したのであります。

このシーズンにコーチ・オブ・ザ・イヤーにも選出されたシャーマンはこの後は優勝は無く、1976年にHCを辞してフロントに入ります。

 

この年、彼は選手としてバスケットボールの殿堂入りを果たしました。

 

そしてGMとして1980・1982年、社長として1985・1987・1988年にレイカーズが優勝するお膳立てをしてみせたのです。

 

カリーム・アブドゥル=ジャバーとマジック・ジョンソンを軸にチームを作り上げた成果です。

1988年に第一線を離れたシャーマンはレイカーズのスペシャルコンサルタントとして引き続きチームに籍を置きます。

 

2004年にはHCとしてもバスケットボールの殿堂入りを果たし、ジョン・ウッデン、レニー・ウィルケンズと並んで史上3人目となる選手・HC両部門での殿堂入りとなりました。

 

1971年にはNBA25周年にあたり選定された25人の偉大な選手に、更に1996年にはNBA50周年で再度、今度は50人の偉大な選手に選出されてもいます。

 

選手、HC、フロントのいずれのカテゴリーでも成功を収めたシャーマンはコートの外でも偉大なオールラウンダーだったのです。

 

2013年10月25日にカリフォルニア州の自宅で死去

 

87歳没。

 

プレースタイル

 

シュート力のあるガードとして活躍した。

 

特にフリースローの成功率は極めて高く、93.2%の成功率を記録したシーズンもあった。

 

通算でもフリースロー成功率88.3%、フィールドゴール成功率42.6%という記録を残している。

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