概略
誕生日 | 1933年6月24日 |
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国 | ![]() |
出身地 | ノースカロライナ州・ウィルミントン |
背番号(現役時) | 24永久欠番 |
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身長(現役時) | 193cm (6 ft 4 in) |
体重(現役時) | 97kg (214 lb) |
ポジションはシューティングガード。
右利き。
愛称は「ミスタークラッチ」。
ボストン・セルティックスに12年間所属し、8連覇を含む、10度の優勝に導いた。
1959年から1966年までのセルティックスの8回連続のチャンピオンシップに参加した、ボストン・セルティックスの3人(チームメイトのビル・ラッセルとK・C・ジョーンズと共に)の1人でもありました。
1984年に殿堂入りを果たした。
また1970年にNBA25周年を記念したオールタイムチームに選出され、1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出された。
受賞歴 | |
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経歴
クラブ経歴 | |
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1957 – 1969 | ボストンセルティックス |
ジョーンズは大学卒業後の1957年のNBAドラフトでボストン・セルティックスにピックアップされ入団する。
ルーキーイヤーから数シーズンは、ボブ・クージー、ビル・シャーマンの控え選手としてプレイ、ビル・ラッセルを擁し黄金期を迎えたチームを影から支えた。
無名大学の無名選手としてセルティックスに入団し、ボブ・クージー、ビル・シャーマンというリーグ屈指のバックコートコンビの控えを務めながら技術を磨いていった。
セルティックスはジョーンズ入団2年目の優勝から連覇をスタートさせ、ジョーンズはシャーマンが引退した1961年から主力としてセルティックスの連覇を支える。
1961-62シーズンに平均18.4得点を記録して初めてオールスターに選出され、プレイオフ地区決勝でウィルト・チェンバレン擁するフィラデルフィア・ウォリアーズとの対戦を迎えると、最終戦の終了間際にチェンバレンをかわして決勝シュートを沈め、試合後にチェンバレンから「最高の選手」と称賛された。
シャーマンが引退する頃には中心選手として活躍し、そしてクージーがチームを離れて以降はK・C・ジョーンズと「ジョーンズ・ボーイズ」というバックコートを結成、サムは得点でチームを牽引し、勝負所でのシュートを次々と沈めていった。
このコンビはセルティックスの連覇が継続されていく原動力となった。
ジョーンズは正確なバンクショットを武器にチームの得点源として活躍を続け、1964-65シーズンにはキャリアハイとなる平均25.9得点を記録している。
連覇記録は1967年に8回で途切れる事になったが、翌年には早くも王座に返り咲き、チーム最年長のジョーンズもプレイオフ平均20得点を超える活躍で優勝に貢献した。
翌1968-69シーズン、12年のキャリアで10度目のファイナルに進出し、前年に続いて長年のライバルであるロサンゼルス・レイカーズと対戦する。
悲願の優勝に執念を燃やすレイカーズはシリーズを優位に進めたが、ジョーンズは負ければ1勝3敗と王手をかけられる第4戦で逆転シュートをブザービーターで決め、シリーズの流れを引き戻す重要な働きを見せた。
2勝2敗の五分にシリーズを戻し、その後セルティックスは第7戦に勝利してシリーズを制し、ジョーンズはビル・ラッセルの11回に次ぐ10回目の優勝を果たすと、有終の美をもって選手生活に幕を下ろした。
ジョーンズは8連覇を経験した数少ない選手の一人となった。
1969年に引退した。
エピソード
ノースカロライナで生まれたジョーンズは、大学も地元のノースカロライナセントラル大学に入学した。
殿堂入りしたコーチ、ジョン・マクレンドンの下、得点力でチームを牽引し、在学中の4年間の成績はトータル得点1,770ポイント(ゲーム平均17.7ポイント)、トータルリバウンド909(ゲーム平均9.1リバウンド)という好成績を記録している。
ジョーンズはバスケットボールを引退した後、1969年から73年までフェデラルシティカレッジで、1973年から74年に母校であるノースカロライナ中央大学でコーチを務めました。
彼は1974年から75年にかけてニューオーリンズジャズのアシスタントコーチを務めました。
プレースタイル
勝負強いプレーから「ミスタークラッチ」と呼ばれた。
クラッチタイムに強い、クラッチスコアラーとして知られており、ジョーンズは彼の世代の最高のシューティングガードの1人として認識されています。
彼の最大の武器は正確なジャンプショット。
とくにバックボードを使ったバンクシュートが得意でした。
ジョーンズは正確なバンクショットを武器にチームの得点源として活躍した。
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