ヤオ・ミン(姚明)

バスケ

概略

【バスケ】身長229cm!“歩く万里の長城”と称された中国の巨人 姚明(ヤオ・ミン)のプレイ動画集!【NBA】【センター】
誕生日 1980年9月12日(40歳)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
出身地 上海市
出身 中華人民共和国の旗 上海シャークス
ドラフト 2002年 1位
背番号(現役時) 11
身長(現役時) 229cm (7 ft 6 in)
体重(現役時) 141kg (311 lb)
ウィングスパン(現役時) 226cm  (7 ft 5 in)
血液型 A型
足のサイズ 38.0cm

 

ポジションはセンター。

 

右利き。

 

愛称は「明王朝」、「歩く万里の長城」、「姚主席(Chairman Yao)」。

 

バスケットボールの中国の英雄。

 

NBAのヒューストン・ロケッツで活躍した。

 

大男たちの集まるNBAの中でも非常に身長が高い選手であり、リーグを代表するセンタープレーヤーだった。

 

2016年のバスケットボール殿堂入りを果たした。

 

受賞歴
  • 8×NBAオールスターゲーム出場 2003~2009, 2011
  • オールNBAチーム
    • 3×2ndチーム 2004, 2006, 2008
    • 2×3rdチーム 2007, 2009
  • NBAオールルーキーチーム 2ndチーム 2003
  • CBAチャンピオン:2002
  • CBAファイナルMVP:2002
  • No.11 ヒューストン・ロケッツ永久欠番
  • No.15 上海シャークス永久欠番
  • 2002年FIBA世界バスケットボール選手権All-Tournament Team(センター部門1位)
  • 2006年FIBA世界バスケットボール選手権・PPG試合平均得点ランキング1位
  • 2004年アテネ五輪男子バスケットボール・RPG試合平均リバウンドランキング1位
  • バスケットボール殿堂
獲得メダル
男子バスケットボール
中華人民共和国の旗 中国
FIBAアジア選手権
1999 福岡
2001 上海 大会MVP
2003 ハルビン 大会MVP
2005 ドーハ 大会MVP
ジュニアアジア選手権
1998 カルカッタ

 

経歴

【バスケ】アジアが生んだスター!ヤオ・ミンについて約5分で解説してみた【NBA】
[ヤオ・ミン] 229cmの絶対に壊せない巨大な絶壁!
クラブ経歴
1997-2002
2002-2011
上海シャークス 上海シャークス
ヒューストン・ロケッツ ヒューストン・ロケッツ
代表歴
キャップ 中華人民共和国の旗 中国 1998-2011

 

クラブ

 

9歳でバスケットボールを始め、10歳の頃には180cm、13歳になる頃には2mにまで達した。

 

中学生でユース代表チームに選ばれ、17歳で地元の上海シャークスと契約し、中国プロバスケットボールリーグプレイヤーになった。

 

1997-98シーズン、1試合平均10得点、9リバウンドを獲得した。翌シーズンは負傷で大半を棒に振る。

 

1999-2000シーズン、1試合平均21得点、14リバウンドの成績に加え、5ブロックと活躍する。

 

翌2000-01シーズンには1試合平均27得点、19リバウンドを記録し、20歳にしてリーグのMVPを獲得した。

 

2002年のNBAドラフト全体1位でヒューストン・ロケッツに指名された。

 

長身を生かしたポストプレーや豪快なブロックショットが魅力で、ルーキーシーズンながらNBAオールスターゲームにファン投票で選出されるなどし、デビューから2シーズンは全試合に出場した。

 

デビュー以降周囲からは「期待外れ」との声も囁かれてはいたが、3シーズン目となる2004-05シーズンには2年連続でNBAシーズン得点王に輝いていたトレイシー・マグレディがロケッツに加入し、マグレディとのコンビでチームのレギュラーシーズンの勝率を6割にまで上げる活躍を見せた。

 

しかし姚、マグレディは共に怪我が多かったため、2人が共に在籍した6年間で一緒に出場する機会は少なかった。

 

2005-06シーズンから足の怪我に悩まされるようになり、2007-08シーズンまでの3シーズンは毎シーズン30試合前後の欠場を強いられた。

 

2006-07シーズンには大台の1試合平均25得点、9.4リバウンドという記録を残している。

 

2008-09シーズンはレギュラーシーズンに77試合出場し、プレーオフでも自身初となる初戦突破を果たした。

 

カンファレンス・セミファイナルでロサンゼルス・レイカーズと対戦したが、2戦目に左足首を怪我し、3戦目以降は出場ができなかった(その後チームは7戦目まで戦った末敗れている)。

 

2009-10シーズンは怪我によりシーズンの全試合を欠場した。

 

2010-11シーズンにはチームから怪我防止のために出場機会の制限を課されてシーズンに臨んだものの、レギュラーシーズン5試合に出場した後に怪我が見つかり、残りの試合を全て欠場した。

 

2011年7月20日、度重なる怪我の影響のため現役引退を表明。2017年2月にロケッツから背番号「11」を永久欠番に認定することが発表され、同月3日に永久欠番授与式が執り行われた。

 

代表

 

2004年のアテネ五輪では、1試合平均得点20.7点、1試合平均リバウンド9.3回(同五輪では最多)を挙げ、中国代表をベスト8に導いた。

 

また2006年のバスケットボール世界選手権においては、大会最高の一試合平均25.3得点を挙げて平均最多得点(得点王)となり、出場チームの24カ国中、中国代表チームはベスト16(順位としては9位)に進出した。

 

なおその前の2002年におけるバスケットボール世界選手権においても、All-Tournament Team(センター部門第1位)に選出されている。

 

同大会では、個人成績としては3位となる1試合平均21点を記録し、出場チームの16カ国中、中国代表チームを大会12位に導いた。

 

2008年の北京オリンピックでも中国代表を率いて、1試合平均得点が19点(同五輪で2位)、リバウンドが8.2(同五輪で3位)、ブロックは1.5(同五輪はで4位)という活躍で、チームとしても前回のアテネ五輪に続いて再び世界のベスト8に進出した。

 

また、2003年には、ローレウス世界スポーツ賞における男子年間最優秀成長選手に選出された。

 

エピソード

【バスケ】ヤオ・ミン のあまり知られていない10の事実【NBA解説】
Yao Ming's Top 40 | Career Plays

姚明の父親、姚志遠(ヤオ・ジーユァン)は身長208cmの元バスケットボール選手であり、母親の方鳳娣(ファン・フェンディー)も、188cmの元バスケット選手で、中国代表チームでプレーしていた。出生時の体重は11.2ポンド(約5kg)。

 

子供の頃に服用した薬の副作用で、左耳の聴力が失われている。

 

NBAオールスターゲームではルーキー・シーズンから7年連続、9シーズン中8度選出されている。

 

アジア人で初めてNBAのトップレベルで活躍できるプレーヤーとなっただけでなく、チームの中心選手としての活躍は中国でのバスケット人気を押し上げている。

 

テレビCM等多くの広告で起用されたり、また、スポーツ店では彼のポスターや等身大パネルが置いてある。

 

中国でNBA人気が飛躍的に高まったのは、ヤオの活躍によるところが大きい。

 

その人気の高さを示すデータがある。

 

NBA1年目の2003年1月17日、ヤオは初めて『ビッグディーゼル』ことオニールと対戦。229センチのヤオと、216センチのシャックとのマッチアップは試合前から注目された。

 

当時レイカーズに所属したオニールはキャリア全盛期で、インサイドでは無敵の存在だった。

 

それにもかかわらず、試合開始から放った3本のシュートを、ルーキーのヤオが連続してブロックしたことが大きな話題となった。

 

当然この試合は中国でも放送され、実に2億人が視聴したと言われている。

【バスケ】ヤオ・ミン のあまり知られていない10の事実【NBA解説】

2003年に「中国十大傑出青年」の1人に選ばれた。

 

アテネオリンピック、北京オリンピックの入場行進で中国チームの旗手を務めた。

 

2013年に中国人民政治協商会議全国委員に就任しており、非常に大柄なために特等席を用意されている。

 

2016年、中職聯籃球俱楽部株式有限公司の董事長兼総経理に就任。

 

2017年2月23日、中国バスケットボール協会の新会長に就任。

 

NBAレジェンドのケビン・ガーネットが、アメリカ代表として出場し、金メダル獲得に貢献した2000年のシドニー五輪でのエピソードを明かした。

 

シドニー五輪での印象的なシーンとして知られる、フランス戦でビンス・カーターが218cmのフレデリック・ワイス越しにダンクを決めた場面について聞かれたガーネットは、チーム内である『賭け』をしていたことを語った。

 

「あの瞬間、一瞬時間が止まったような感じになった。誰も知らなかっただろうけれど、自分たちは、ヤオ・ミンに関する賭けをしていたんだ。一番最初にヤオ・ミン越しにダンクを決めた選手が100万ドル(約1億1000万円)を勝ち取るという賭けをね」

 

アメリカは予選で中国と対戦し、119-72で快勝。ガーネットは、同試合で身長229cmの『ヤオ超え』を狙った選手が多かったと、当時を振り返った。

 

「誰もできなかったんだけれど、自分たちはトライしたんだ。でも、彼にブロックされるか、こちらがミスするかのどちらかだった」

 

そして話はカーターのダイナミックな人間超えダンクに移行。

 

「それで、ビンスがフレデリック超えのダンクを決めた瞬間、『やりやがった。100万ドルを取ったぞ』と思ってね。ただ、ヤオじゃなかったなと後で気づいた。あの瞬間は、自分も興奮してビンスをプッシュした。映像を見てもらえれば分かるけれど、興奮して拳を振るう彼に危うく殴られそうになったんだよ。でも、あのダンクを見た瞬間は、『やったな。100万ドルを取ったな』という感じだった」

 

ダンクだけで100万ドルという超高額な懸賞金は、NBAスター選手が集まったチームUSAならでは。

 

残念ながら誰も成し遂げられなかったものの、当時NBAでの2年目を終え、伝説として語り継がれている2000年のダンクコンテスト優勝を飾ったカーターでも、『歩く万里の頂上』と呼ばれたヤオの頭上は、高かった。

 

プレースタイル

Rockets Cuts | Ep. 17 | Yao Top Plays | Houston Rockets

類稀な長身とダンク、フックシュート、ジャンプシュートといった様々なシュートを使いこなせる技術を持つ。

 

柔らかなシュートタッチやゴール下でのムーブは、彼の出身地から「シャンハイ・シェイク」と呼ばれる。

 

また、ビッグマンでありながらフリースローも非常に得意である。

 

ディフェンス面においてもゴール下での彼の高さは脅威といえる。

 

入団当初はフィジカルなプレーに負けることもあったが、徐々に強さも発揮するようになり、リーグを代表するセンタープレーヤーの1人であった。

 

オフェンスなら歴代でもかなりのレベルに達します。

 

フックシュート、フェイダーウェイ、ミドル、フィンガーロール、センターとは思えないほど多彩なシュートを持ち、鈍重ですがステップも多彩。

 

パスもうまい。

 

怪我さえなければどこでもエースになれますし、エースの補佐も可能、身長ほど威圧感はないし、小さい選手にブロックされるのをネタにされるのが多かったが、ドラフト1位に恥じない実力を見せてくれた。

 

サイズのわりに柔らかいシュートタッチを活かしたポストプレイが得意な選手です。

 

ハンドリングもなかなかいいですし、ポストでのムーブの豊富さはかなりのものです。

 

あのサイズでなかなか高確率なフックシュートも打ってきます。

 

いろいろと伝説的なヤオ・ミンだけに、あるシンプルな真実が忘れ去られがちだ。

 

それは、彼は本当に、本当にバスケットボールがうまかったということである。

 

ヤオ・ミンはヒューストン・ロケッツでレギュラーシーズンの486試合に出場し、1試合平均19.0得点、9.2リバウンド、1.9ブロック、フィールドゴール成功率52.4%、フリースロー成功率83.3%を記録した。

 

また、2シーズンで1試合平均20得点、10リバウンド、1.5ブロック、FG成功率50%以上を記録しており、複数シーズンでこの数字をマークした7フッター(213センチ以上)は、ほかにカリーム・アブドゥル・ジャバー、パトリック・ユーイング、アーティス・ギルモア、シャキール・オニール、アキーム・オラジュワン、デイビッド・ロビンソン、ラルフ・サンプソンのみ。そうそうたる顔ぶれだ。

 

強く、だが機敏なヤオ・ミンは、守備ではリングを相手の攻撃から守ることができ、攻撃では柔らかいタッチでショットを決めることができた。

 

相手のセンターたちにとっては、それまでに直面したことのない大変さだった。

 

2011年、オニールは「ヤオ・ミンはとても機敏だった。そしてインサイドでプレイできた。アウトサイドでもプレイできた」と述べている。

「あれらのケガがなければ、おそらく彼は歴代でも五本の指に入るセンターになっていただろう」。

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