概略
誕生日 | 1984年5月29日(36歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ![]() ブルックリン区 |
出身 | シラキュース大学 |
ドラフト | 2003年 3位 |
背番号 | 00 |
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身長 | 203cm (6 ft 8 in) |
体重 | 109kg (240 lb) |
ウィングスパン | 213cm (7 ft 0 in) |
足のサイズ | 34cm |
シューズ | エア・ジョーダン |
ポジションはスモールフォワード、パワーフォワード。
右利き。
ニックネームは「メロ」。
NBAでも屈指の1on1スキルを持ち得点を量産するスタープレーヤー。
デンバー・ナゲッツやニューヨーク・ニックスなどで活躍した。
2003年のNCAAトーナメント制覇、オリンピックでは2008年の北京オリンピックおよび2012年のロンドンオリンピック金メダリスト、2016年リオデジャネイロオリンピック金メダリストという実績を持つ。
受賞歴 | |
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獲得メダル | ||||||||||||||||||||||||
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経歴
クラブ経歴 | |
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2003-2011 2011-2017 2017-2018 2018-2019 2019 |
DEN デンバー・ナゲッツ NYK ニューヨーク・ニックス OKC オクラホマシティ・サンダー HOU ヒューストン・ロケッツ POR ポートランド・トレイルブレイザーズ |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
クラブ
NBAドラフトではレブロン・ジェームズ、ダーコ・ミリチッチに次いで、デンバー・ナゲッツに全体3位で指名された。
カーメロはルーキーシーズンの開幕戦から先発に抜擢され、6試合目には早くも30得点をあげ、当時30得点以上をあげた史上2番目に若い選手となり(最年少はコービー・ブライアント)、2月9日のメンフィス・グリズリーズ戦では20得点をあげ、通算1000得点を史上3番目の若さで達成した。
カーメロは史上4人目となる、6ヶ月全てのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占(イースタンではレブロン・ジェームズが同様に独占)し、週間MVPにも2度選ばれるなど、新人らしからぬ活躍を見せ、このシーズンは新人の中では1位、全体でも12位となる平均21.0得点をあげ、平均6.0リバウンドを記録した。
チームも前年の17勝65敗という酷い不振から43勝39敗という大躍進を遂げ、実に9年ぶりとなるプレーオフ進出も果たした。
新人王争いではレブロンとの一騎討ちとなり、個人成績でもチーム成績でも上回るカーメロが有力視されていたが、投票では惜しくもレブロンに譲ったが、カーメロこそ新人王に相応しいとの声も多く挙がった。
プレーオフ1回戦ではミネソタ・ティンバーウルブズと対戦し、1勝4敗で完敗。
華々しいNBAキャリアをスタートさせたカーメロだが、プレーオフではこの1回戦の壁に苦労することになる。
第3戦では24得点10リバウンドのダブル・ダブルをプレーオフ史上最年少の19歳331日で達成。
翌2004-05シーズンは調整不足が原因で体重オーバーのままシーズンに突入。
シーズン前半は大苦戦し、プレーオフ進出も危ぶまれたが、ヘッドコーチがジョージ・カールに変わってから一転。
オールスター後、リーグ1位の勝率と怒濤の巻き返しの末に第7シードでプレーオフに進出した。
オールスターのNBAルーキーチャレンジでは31得点をあげ、MVPを獲得している。
プレーオフではこの年のチャンピオンのサンアントニオ・スパーズとのシリーズに先勝したものの、その後、カーメロがブルース・ボウエンによってうまく封じ込まれ、4連敗でシリーズを終えた。
前年成績が伸び悩んだカーメロは2005-06シーズンに入るとシュートセレクションの改善に大きく成功し、平均26.5得点を記録して初のオールNBA3rdチームに選出される。
3月17日のメンフィス・グリズリーズ戦では30得点をあげてレブロンに次ぐ史上2番目の早さで通算5000得点を達成した。
3月第2週には週間MVPを獲得するが、この期間中カーメロは5本のウィニングショットを決めるという勝負強さを発揮している。
チームは故障者続出の影響でカーメロが加入して以来初めて勝率を落として44勝38敗の成績に終わり、プレーオフではまた1回戦でロサンゼルス・クリッパーズの前に1勝4敗で敗退した。
オフにはナゲッツと5年8000万ドルで契約延長し、世界選手権にアメリカ代表として出場。
主に得点面で大きく活躍し、2006-07シーズンはその勢いを維持したまま突入。
シーズン序盤にはアレックス・イングリッシュの持つ6試合連続30得点以上達成というチーム記録に並ぶなどし、得点王レースではコービー・ブライアントとトップ争いを演じた。
しかし12月16日のニューヨーク・ニックス戦での乱闘騒ぎでマーディー・コリンズを殴ったカーメロは15試合の出場停止処分を受ける羽目になった。
しかしその間ナゲッツはフィラデルフィア・セブンティシクサーズとトレードを行い、アンドレ・ミラーらとの交換で大物選手のアレン・アイバーソンの獲得に成功。
当時得点王ランキング1位と2位につけていたカーメロとアイバーソンのデュオは、リーグ最強のスコアリングデュオとして大きな注目を集めるようになった。
カーメロ個人はアイバーソンと得点機会を分け合うことになったため、得点王レースではコービー・ブライアントに破れ2位に終わったが、28.9得点6.0リバウンドの好記録を残し、2年連続でオールNBA3rdチームに選ばれた。
2月2日にはチームメイトのJ.R.スミスが運転する車が事故に遭い、その車にカーメロも同乗していたが(車はカーメロ所有のもの)、3日後の試合では31得点10リバウンド10アシストをあげてキャリア初のトリプル・ダブルを達成し、事故の影響を微塵も見せなかった。
待たされたオールスターゲームにも、故障者の代理という形ではあるが、ようやく初出場を果たしており、20得点9リバウンドをあげている(ナゲッツにとっては2001年のアントニオ・マクダイス以来のオールスター選手)。
カーメロの活躍やアイバーソンの移籍と大きな話題が続いたが、ナゲッツ自体はカーメロの出場停止処分や前年に引き続き故障者の続出で45勝37敗の平凡な成績に終わり、プレーオフではまたしても1回戦でスパーズの前に敗退した。
2007-08シーズンのナゲッツは1987-88シーズン以来の50勝超えとなる50勝32敗を記録するが、プレーオフは5年連続1回戦敗退となり、カーメロ&アイバーソンのデュオは期待されたほどの効果を見せることはなかった。
カーメロ自身は25.7得点7.4リバウンドと上々の数字を残すが、オールNBAチームの選考からは漏れ、またプレーオフ期間中には飲酒運転で捕まるなどチームキャプテンにあるまじき態度が批判された。
2008-09シーズンを迎えて、ナゲッツも変革の時を迎えた。
カーメロというフランチャイズビルダーのもとでの5年間、毎年プレーオフには進出してきたが、5年連続で1回戦敗退を続けており、現体制に限界を感じたナゲッツはチームの改革に踏み切ったのである。
シーズン前には殆ど無償でマーカス・キャンビーを放出。さらにエドアルド・ナヘラも放出したことで、新シーズンのナゲッツは苦戦が予想された。
ところがシーズン開幕して間もない時期にデトロイト・ピストンズとの間でアイバーソンとチャンシー・ビラップスのトレードが成立。
ビラップス加入の効果はナゲッツを大きく変化させた。
カーメロ個人はビラップスという百戦錬磨のベテランを相棒に得たことでチームリーダーとしての負担が大きく軽減されプレーに集中することができ、特にディフェンス面ではオフに北京オリンピックでコービー・ブライアントらとプレーしたことでディフェンスに対する意識が大きく向上した。
また持ち前の得点力も大いに発揮し、12月10日のミネソタ・ティンバーウルブズ戦の3Qでは、1クォーターだけで33点を記録した。
1月4日のインディアナ・ペイサーズ戦では手を骨折するというアクシデントに見舞われ、手術する選択肢もあったが、カーメロは手術で試合を欠場するよりも添え木で固めて強行出場する道を選んだ。
また3月1日のインディアナ・ペイサーズ戦ではジョージ・カールHCの交代命令に従わなかったとして1試合の出場停止処分を受けたが、処分明けの試合ではカールHCから交代を指示されると、全速力でベンチに戻るという一幕が見られた。
カーメロの活躍やビラップスの獲得、これまで度重なる故障に悩まされてきたケニオン・マーティンやネネイらビッグマンの復活もあり、ナゲッツは好調のシーズンを送り、1990年代以降では最高勝率となる54勝28敗を記録。
カーメロ自身は22.8得点6.8リバウンドと近年では最も低い数字に終わったが、プレーの質が向上したことが評価され、オールNBA3rdチーム復帰を果たした。
プレーオフではニューオーリンズ・ホーネッツを破ってついに宿願の1回戦突破を果たし、カンファレンス準決勝ではダラス・マーベリックスを降して、カンファレンス決勝まで進出した。
2009-10シーズンは69試合で平均38.2分、28.2得点6.6リバウンド3.2アシスト1.3スティールMVP投票で6位に入った。プレーオフ1回戦ではユタ・ジャズと対戦し、30.7得点(リーグ3位)・8.5リバウンド3.3アシスト2.0スティールと奮闘したものの2勝4敗で敗退した。
2011年2月22日、チャウンシー・ビラップス、シェルデン・ウィリアムス、アンソニー・カーター、レナルド・バークマンと共に、大型トレードにより、ニューヨーク・ニックスへ移籍。
ニックスでの船出は決して順風なものではなかった。
元々ハーフコートでの1on1を好むカーメロと、ラン&ガンで活きるアマレ・スタウダマイアーとの相性や、スタイルが正反対であるにも関わらずプレーエリアが被る2人のスター選手が共存できるのか疑問を持たれた。
また、ニックスへの移籍劇は「メロドラマ」と揶揄されたが、チームに対する批判を繰り返してニックスへのトレード要求をした上での移籍であったが、この移籍の過程でニックスはカーメロと引き換えにダニーロ・ガリナリを初めとした当時の主力の多くを放出してしまったためにカーメロは自身のイメージを払拭すると共にこのトレードが間違いではないことを証明する必要もあった。
カーメロは個人としては活躍をしてプレーオフ進出に導いたものの、デンバー・ナゲッツ時代から懸念されていた守備面での意識の低さをニックスでも見せ、ボストン・セルティックスとのシリーズは1回戦最大の注目カードと見なされたものの、カーメロのそばを悠々と相手選手が通り過ぎていくという状況を作り出した(とはいえ本来メロの性格を考えたら自分でシュートを乱発しそうな状況でパスをさばこうとするという一面も見られた)。
結局はスウィープ負けを喫した。
続く2011-2012シーズン、ビラップスの放出と共になんとカーメロをポイントフォワードに起用するという決断をマイク・ダントーニは下した。
結局カーメロとアマレの相性の問題は改善されずアマレはスポットシューターになったがこれが全く機能せずにニックスは勝ち星を挙げられずに本拠地でもブーイングを食らうことになった。
しかもロックアウトの影響で短縮シーズンとなったが、体重過多でシーズンを迎えたため本人の動きも鈍く自身のシュートタッチも非常に悪かった。
カーメロ自身も厳しい立場に追いやられ、カーメロが離脱している間にジェレミー・リンによる「リンサニティ現象」が巻き起こったものの、それもカーメロの復帰と共に終焉を迎えるというタイミングの悪さも重なった。
またこの間にHCであるダントーニが解任されるが、ダントーニはダントーニでデロン・ウィリアムスとのトレードを画策していたようである。
東地区7位で迎えたプレーオフ1回戦ではマイアミ・ヒートと対戦。
スター選手を揃えたチーム同士なうえ、相手エースのレブロン・ジェームスとはプロ入り前からのライバル関係ということもあって注目を集めるも、チームとしても個人としても力の差が顕著に表れてしまい、結果、01年4月29日以来11シーズンぶりとなるプレーオフでの勝利(1勝)をあげるが、最後はヒートの前に屈した(1勝4敗)。
しかもこのシリーズでは試合中にJ・R・スミスと口論するというチームリーダーにあるまじき行為を見せた。
2012-2013シーズンはアマレの離脱もあってPFとして出場。
ここでカーメロ自身意識が大きく変わったのか、それとも元々PFで出ていた時には守備も頑張っていたからか、新シーズンでは守備面でも貢献するようになった。
また、新加入のジェイソン・キッドの影響もあってか、それまでは自分本位にシュートを乱発することが多かったのが、味方へボールを回すことに意識を向け始めた事で、徐々にではあるがチームメイトからもカーメロのリーダーシップ向上を評価されるようになった。
相変わらず自身の得点は1on1が中心とはいえロンドンオリンピックで大当りした3Pも決めており、前半戦はMVP級の活躍をして昨シーズンはブーイングを受けていたホームゲームでMVPコールを受けるほどの活躍ぶりだった。
しかし相性が悪いと思われていたレイモンド・フェルトンの離脱と共にチームは停滞、本人の怪我もありニックスはだんだんと敗戦が増えていった。
しかし出場した試合では相変わらずの活躍でケビン・デュラントの4年連続得点王を阻むと共に、自身初の得点王も狙える位置につけた。
特に4月における活躍はずば抜けており、わずかの差とはいえデュラントとの得点王レースを制すと共にオールNBA2ndチームにも選出された。
しかしチームとしては前半の好調ぶりとは一転、カーメロやスミスの1on1や3Pシュートに頼る不安定なチームになっていた。
プレーオフ1回戦は2年前にスウィープされたボストン・セルティックスとのリベンジマッチとなった。
セルティックスもけが人が多くて厳しい台所事情であったが、ニックスもたとえ不調であってもカーメロやスミスの1on1に頼った試合展開であった。
それでも4勝2敗で99-00シーズン以来、自身2度目となる1回戦突破を果たした。
しかし続くイースタン・カンファレンス・セミファイナルでインディアナ・ペイサーズと対戦。
守備の固いペイサーズに苦戦を強いられ2勝4敗でシーズンを終えた。
MVP投票ではレブロン・ジェームズ、ケビン・デュラントに次ぐ3位に入った。
2013-2014シーズンはアンドレア・バルニャーニの加入など話題の大型補強をしたものの、キッドらベテランが引退してしまいリーダー不在の状況で開幕を迎えた。
シーズン中、リーダー不在の影響かチームはまとまりを欠いた。
カーメロ自身も怪我の影響か満足な活躍ができず、1月24日のシャーロット・ボブキャッツ戦では自身初の1試合60得点以上となる62得点を上げるもチームは常に低調で、プレーオフ進出を逃してしまった。
これはチームとしてはアイザイア・トーマスが球団社長を務めていた時以来の悪夢となるが、本人としてもキャリア初のプレーオフ不出場という厳しい事態となった。
自身8年ぶり2度目の2000得点を達成し、平均27.4得点はケビン・デュラントに次ぐリーグ2位、8.1リバウンドは自己最高。
3P成功率が初めて40%を超え、フリースロー成功率は自己最高の84.8%を記録。
2013-2014シーズン終了前、フィル・ジャクソンが球団社長に就任。
ジャクソンはまずシーズン終了後にマイク・ウッドソンを解任し、ロサンゼルス・レイカーズ時代の教え子だったデレック・フィッシャーをヘッドコーチに招聘した。
それでもチームの方向性に懐疑的だったカーメロは、FAとなりシカゴ・ブルズやヒューストン・ロケッツなどと交渉し、移籍の可能性を模索した。
だが最終的には、新生ニックスの新たな方向性を信じ、ニックスとマックス契約に近い5年1億2400万ドルで再契約した。
そして迎えた2014-2015シーズンだったが、チームはジャクソンらが新たに導入したトライアングルオフェンスの習得に戸惑い、チームワーストの16連敗も喫してしまった。
そして2015年1月に入りJ・R・スミスをクリーブランド・キャバリアーズに放出するなど、チーム再編成を余儀無くされ、カーメロ自身もチームの低迷と左膝の負傷に苦しむ日々が続いた。
そして地元ニューヨークで開催されたNBAオールスターゲームに出場したのを最後に、左膝の手術のためにシーズン残り全試合を欠場し、2015-16シーズンに復活を期すことになった。
2017-2018シーズン前の2017年9月25日、エネス・カンター、ダグ・マクダーモット、将来のドラフト2巡目指名権とのトレードでオクラホマシティ・サンダーに移籍。
これにより、サンダーにラッセル・ウェストブルック、ポール・ジョージ(インディアナ・ペイサーズからトレード加入)、カーメロのビッグスリーが結成されることとなった。
2018年1月27日のデトロイト・ピストンズ戦で史上21人目となる通算2万5000得点を達成した。
この試合でカーメロは21得点を記録、試合はサンダーが121-108で勝利した。
自身5年ぶりのプレーオフでは1回戦でユタ・ジャズと対戦し、2勝4敗で敗退した。
全6試合で先発したものの平均32.3分で11.8得点と低調な成績だった。
シーズン終了後の2018年7月25日、アトランタ・ホークスとフィラデルフィア・セブンティシクサーズとの3チーム間トレードでホークスに放出され、その後解雇された。
2018年8月13日、ヒューストン・ロケッツと1年240万ドルで契約したが、攻守における衰えが激しく、チームにフィット出来なかったため早々とチームを構想外となった。
ロケッツでは僅か10試合の出場、平均29.4分13.4得点5.4リバウンドのスタッツを残した。
彼がフリーエージェントとなって約1年たった2019年11月15日、ポートランド・トレイルブレイザーズと契約を結んだ。
これに、互いに2003年のNBAドラフトでNBAへの切符を掴んだ盟友、元マイアミ・ヒートのドウェイン・ウェイドは、「ようやくこの時が来た!」と喜びをあらわにした。
11月20日のニューオーリンズ・ペリカンズ戦でおよそ1年ぶりにNBAのコートに帰ってきた。
チームは敗れたものの、アンソニーは10得点をマークした。
代表
2004年、アメリカ代表としてアテネオリンピックに出場した。
アメリカ代表はオリンピックではNBA選手が出場するようになった1992年から3大会連続で金メダルを獲得していたが、3位の銅メダルに終わった。
彼自身はヘッドコーチのラリー・ブラウンとの不仲が報道されて、ほとんど出場機会をもらえなかった。
2006年、日本で行われた世界選手権の代表にもなった。
彼はドウェイン・ウェイド、レブロン・ジェームズらとともに、チームを引っぱったがギリシャに敗れ3位の銅メダルに終わった。
なお、8月23日に行われたイタリア戦ではアメリカ代表記録となる35得点をあげた。
これまでの記録は1990年のケニー・アンダーソンの34得点だった。
また、大会ベスト5にも選ばれた。
2008年、北京オリンピックでもチームの主要得点源として活躍。
準決勝のアルゼンチン戦ではチーム最多の21得点をあげ、フリースローは13本中13本を成功させ、アメリカ代表の1試合のフリースロー成功率と成功数の新記録を作った。
決勝のスペイン代表戦では13得点をあげ、アメリカの金メダル獲得に大きく貢献した。
大会期間中カーメロは11.5得点4.3リバウンドの成績だった。
2012年、ロンドンオリンピックでは層の厚いチームでスタメンに名を連ねることはできなかった。
しかしシックスマンとしてチームに貢献してベンチメンバーとしては最多得点を叩き出し、金メダルに貢献した。
エピソード
慈善活動も行っており、特に故郷のボルティモアでは3on3のチャリティーゲーム開催や青少年センターを創設するなど、熱心な活動を展開している。
カーメロはニューヨーク市ブルックリン区でプエルトリコ人の父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれた。
父はカーメロが2歳の頃に癌で他界している。
一家はカーメロが8歳の頃にボルティモアに転居。カーメロはこの地でバスケットボールのほかに、殺人や薬物中毒が蔓延するスラム街で「生き残る」ための術も学んだ。
カーメロ・アンソニーはジョーダン34を着用してプレーしています。
カーメロ・アンソニーは自分のシグネチャーモデルを持っています。
しかしJORDAN MELOシリーズはメロがニックスからOKCに移籍のタイミングで終わってしまいました。
メロの最後のシグネチャーモデルはmelo m13というモデルです。
m13はメロの最後のシグネチャーシューズということで、ネットではプレ値が付いている状態です。
メロのシリーズは終了したものの、メロはジョーダンブランドと契約をしているので今後もメロはジョーダンのバッシュを履きプレーするでしょう。
プレースタイル
非常に高いオフェンススキルを持ったフォワード。
個人技での得点を量産するタイプで、終盤にボールを任されると輝く。
ジャブステップからの1on1が素晴らしかった。
NBAでも屈指の1on1を得意とするプレーヤー。
クイックリリースされる3ポイントシュートや、ジャブステップで相手のディフェンダーとの距離を一瞬で離してから、ジャンプシュートを決めたり、豪快にドリブルからダンクを決めるなど、攻撃オプションが非常に多い。
1クォーターにおける得点数でNBA史上2番目に高い33得点をあげるといった記録や、ニューヨーク・ニックスにおける1試合での個人の得点数では最高の62点を叩き出すなど、身長203cm、体重109kgの身体から繰り出される力強く素早いポストプレーは、相手チームにとって非常に脅威である。
また、クラッチシューターとしても知られており、2005-2006シーズンには第4クォーターおよびオーバータイムにおいて、5つのウィニングショットを決めている。
その反面、ディフェンスに対する意識が低く、多くの批判を浴びている。
数多くの受賞歴を誇るが、NBA All-Defensive Teamに選ばれたことは一度もない。
カーメロは得点能力が高いスコアラー型のプレイヤーです。
ペイントエリア、ミドルレンジ、ロングレンジどこからも得点することができます。
とくにミドルレンジが得意で、ジャブステップからジャンプシュートはカーメロの鉄板技でしょう。
また、ポストプレーから左右どちらからでも打てるターンアラウンドシュートなど攻撃パターンは多彩です。
その上、カーメロのジャンプシュートはディフェンスも反応できないくらいクイックです。
あのコービー・ブライアントでさえ、「カーメロを守るのは難しい」と言っています。
しかし、逆にいえばどれも個人プレーということになります。
現在のNBAはボールムーブメントをより重視するため、カーメロがボールを持つたびにボールが止まってしまう状態になってしまいます。
なので、カーメロはもっとボールを回してチームメイトを巻き込み、その流れでキャッチ&シュートを決める必要があります。
でなければどのチームともフィットすることが難しくなってしまいます。
2018年に少しの期間だけ所属していたヒューストン・ロケッツが良い例だったと思います。
現在所属するトレイルブレイザーズはNBAでも有数の1on1を重視するチームです。
そのトレイルブレイザーズで輝きを取り戻した。