ジェリー・ルーカス

バスケ

概略

Jerry Lucas: Career Mixtape
誕生日 1940年3月30日(80歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州・ミドルタウン
背番号(現役時) 32
身長(現役時) 203cm (6 ft 8 in)
体重(現役時) 104kg (229 lb)

 

ポジションはパワーフォワード、センター。

 

右利き。

 

愛称は「ルーク」。

 

1960年ローマオリンピックではバスケットボールアメリカ代表チームの一員として参戦し、金メダルを獲得した。

 

1960年代後半はプロバスケットリーグNBAのシンシナティ・ロイヤルズのセンターとして活躍し、1970年代前半にはニューヨーク・ニックスで1973年の優勝に貢献した。

 

203cmの長身でゴール下を支配し、歴代4位となるゲーム平均15.6リバウンド(トータルリバウンド12,942)を記録した。

 

1980年にバスケットボール殿堂入りした。

 

また1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出された。

 

受賞歴
  • NBAチャンピオン(1973)
  • 7× NBAオールスター(1964年の- 1969年の、1971年)
  • NBAオールスターゲームMVP(1965)
  • 3×オールNBAファーストチーム(1965年、1966年、1968年)
  • 2×オールNBAセカンドチーム(1964年、1967年)
  • NBAルーキーオブザイヤー(1964)
  • NBAオールルーキーチーム(1964)
  • NBAの50周年記念オールタイムチーム
  • NCAAチャンピオン(1960)
  • 2× NCAAファイナルフォーMOP(1960、1961)
  • 2×コンセンサスナショナルカレッジプレーヤーオブザイヤー(1961、1962 )
  • 3×コンセンサスファーストチームオールアメリカン(1960 – 1962)
  • 2× NCAAリバウンドリーダー(1961、1962)
  • No.11オハイオ州立バックアイズ永久欠番
  • 2× Mr.BasketballUSA(1957、1958)
  • 2×ファーストチームパレードオールアメリカン(1957、1958)

 

経歴

Jerry Lucas – Mr. Memo
クラブ経歴
1963 – 1969 シンシナティロイヤルズ
1969 – 1971 サンフランシスコウォリアーズ
1971 – 1975 ニューヨークニックス

 

クラブ

 

大学であらゆるレベルで成功を収め、大きな注目を集めてシンシナティ・ロイヤルズから指名を受けたルーカスだったが、プロになることに大きな願望を持たず、ビジネス・マーケティングの博士号を取得するために試合数の少ないABL(アメリカン・バスケットボール・リーグ)のクリーブランド・パイパーズと契約した。

 

しかし、NBAはカレッジバスケ界最大のスター選手の獲得を諦めず、ルーカスを所属するチームごとNBAに取り込もうとした。

 

NBAへの参入を持ちかけられたパイパーズはこれを受け入れたが、ABL最大のチームのリーグ離脱が決定すると、ABL自体の存続が危うくなったためにパイパーズはNBA参入を前にして解散する事態となり、続いてABLも消滅する事になった。

 

プレーする場を失ったルーカスは、1年前にドラフト指名を受けたロイヤルズと契約を結び、1963-64シーズンにNBAにデビューする。

 

ロイヤルズにはローマ五輪のチームメイトであったオスカー・ロバートソンがおり、二人の活躍でチームはプレーオフの常連となる。

 

1年目に平均17.7得点、17.4リバウンド、リーグトップとなるFG成功率52.7%を記録して新人王を受賞すると、翌シーズンには平均21.4得点、20.0リバウンドという数字を残し、史上4人しか達成していないシーズン平均20得点、20リバウンド以上を達成した。(ルーカスのほかは、ボブ・ペティット、ウィルト・チェンバレン、ネイト・サーモンド)

 

ルーカスはオスカー・ロバートソンとともにロイヤルズを強豪へと成長させたが、プレイオフではボストン・セルティックスの壁を超える事ができなかった。

 

NBAファイナル進出には至らなかったが、1967年までは毎シーズンプレーオフに進出した。

 

1967-68シーズン、ロイヤルズは7シーズンぶりにプレイオフ進出を逃したが、ルーカスはこの頃に始めたサイドビジネスで成功を収めるなどコート外でも活躍し、これがファンから「ハードワークを尽くさない」と批判される事になった。

 

1969年に往年の名選手ボブ・クージーがヘッドコーチに就任すると、シーズン開幕直後にトレードでサンフランシスコ・ウォリアーズへと放出される。

 

ウォリアーズでは移籍2年目の1970-71シーズンに平均19.2得点、15.8リバウンドを記録し、同時にシーズン通算1,000リバウンド以上を達成したネイト・サーモンドと強力なインサイドを形成した。

 

1971年にウィリス・リードやデイブ・ディバッシャーのバックアップとしてニューヨーク・ニックスに移籍した。

 

当時のニックスはウィリス・リード、デイブ・ディバッシャーなどの名選手を擁してファイナル制覇に燃えていた。

 

ルーカスはリードの故障によりスタメンになる。

 

ルーカスは全盛期と変わらない時間をプレーする事になり、チーム2位の平均16.7得点、同1位の13.1リバウンド、同2位の4.1アシストを記録する活躍を見せて、ニックスのファイナル進出の大きな力となった。

 

翌シーズン、完全復活したリードは先発に戻り、控えとなったルーカスは数字は大きく下降させたが、バックアップとしてチームを支えた。

 

彼と同時期にアール・モンローも加入し、NBAファイナルに進出したニックスはロサンゼルス・レイカーズを破り自身初となるチャンピオンリングを獲得する。

 

翌1973-74シーズンもニックスでプレーし、このシーズンを最後に現役を引退した。

 

代表

 

在学中の1960年、20歳のルーカスはオスカー・ロバートソン、ウォルト・ベラミー等と共にアメリカ代表チーム選出されローマ五輪に出場する。

 

予選ラウンドを3戦全勝1位で抜け出たアメリカチームは、当時アマチュアスポーツ強化を国策としてオリンピックでは無類の強さを見せていたソビエト連邦を決勝で破り、金メダルを獲得した。

 

エピソード

Jerry Lucas 10pts 9reb 3a (Knicks at Bullets 3.4.1973 Full Highlights)

オハイオ州で生まれたルーカスは早くからその才能を開花させた。

 

地元のミドルタウンハイスクールのチームを州のチャンピオンに導き、彼は1957年、1958年のオハイオ最優秀選手に選ばれている。

 

卒業後はオハイオ州立大学に入学、センターとしてチームを牽引し、1960年から1962年の3シーズンビッグ・テン・カンファレンスチャンピオンに導く。

 

彼自身も3年連続でシカゴ・トリビューンが選ぶビッグ・テンのMVPに選出された。

 

さらに、1960年にはNCAAチャンピオンにも輝き、ルーカスは1960年・1961年2年連続でMOP (Most Outstanding Player) に選出された。

 

また、1961年・1962年の2年連続で全米バスケットボール記者協会 (USBWA) が選ぶカレッジ最優秀選手(現在は初代受賞者のオスカー・ロバートソンを称えて「オスカー・ロバートソン・トロフィー」と呼ばれる)を受賞した。

 

在学中の3年間で計82ゲームに出場し、トータル得点1,990ポイント(ゲーム平均24.3ポイント)・トータルリバウンド1,411(ゲーム平均17.2リバウンド)・フィールドゴール成功率62.4%という驚異的な成績を記録している。

 

プレースタイル

NB60s: Jerry Lucas

203cmという身長でゴール下を支配し、歴代4位となるキャリア平均15.6リバウンドを記録した。

 

類稀なリバウンド能力と得点力も兼備しゴール下を制圧した。

 

歴代屈指のリバウンダーだった。

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