概略
誕生日 | 1965年8月24日(55歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | カリフォルニア州リバーサイド |
出身 | UCLA |
ドラフト | 1987年 11位 |
永久欠番 | ペイサーズ 31 |
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ポジション(現役時) | シューティングガード |
身長(現役時) | 201cm (6 ft 7 in) |
体重(現役時) | 88.5kg (195 lb) |
ポジションはシューティングガード。
右利き。
インディアナ・ペイサーズ一筋で活躍したNBA歴代屈指の3Pシューター。
歴代NBAプレイヤーの中でも 屈指のピュアシューターの一人。
「ミラータイム」という数々の奇跡の逆転劇を演出し伝説を残した。
アメリカ代表としても活躍しアトランタ・オリンピックやワールドカップの金メダル獲得に貢献した。
受賞歴 | |
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経歴
経歴 | |
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1987-2005 | インディアナ・ペイサーズ |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
クラブ
1987年のNBAドラフト1順目11位でインディアナ・ペイサーズに指名された。
当初ペイサーズは、セント・ジョーンズ大学のマーク・ジャクソンを指名する予定だったが、ドニー・ウォルシュ球団社長の閃きで、急遽ミラー指名に切り替えたという。
その後ジャクソンは18位で地元のニューヨーク・ニックスに指名され、ペイサーズでもプレーしている。
1994年のイースタン・カンファレンス決勝の第5戦では、アウェイのマディソン・スクエア・ガーデンで宿敵ニューヨーク・ニックス相手に第4クウォーターの12分間で25得点、1試合合計39得点を挙げ、チームを93-86の勝利に導いた。
しかし、その後2連敗し、NBAファイナル進出はならなかった。
翌1995年のイースタン・カンファレンス準決勝第1戦でも同じくマディソン・スクエア・ガーデンでニックスと対戦し、試合終了まで残り16.4秒で6点を追う状況で、ミラーはスリーポイント2本、フリースロー2本で8得点し、107-105で逆転勝利し、またしてもニックスを奈落の底に突き落とした。
このときのミラーはスリーポイントを決めた後、ニックスのインバウンズパスをスティール、そして自ら3ポイントラインまでドリブルで下がり、スリーポイントを決めるという離れ業をやってのけた。
その後、ペイサーズがジョン・スタークスにファウル、スタークスは2本のフリースローを外し、リバウンド争いでファウルを受けたミラーが最終的に2本のフリースローを決めたものである。
4勝3敗でこのシリーズに勝利し、イースタン・カンファレンス決勝に進出するが、オーランド・マジックに敗れた。
1998年にペイサーズは3年ぶりにイースタン・カンファレンス決勝に進出する。
この第4戦で、残り3秒で93-94と負けている状況で、ミラーはマイケル・ジョーダンのマークを振り切り、スリーポイントシュートを決め、逆転勝利を収める。
このシリーズも最終戦までもつれるが、第7戦に敗れて3勝4敗でまたもカンファレンス決勝で敗退となる。
2000年、フィラデルフィア・セブンティシクサーズとのイースタン・カンファレンス準決勝第1戦でミラーとチームメートのジャレン・ローズが40得点ずつ取り、108対91で勝利する。
なお、1試合で同じチームの2人が40得点を獲得したのはNBAプレーオフ史上4回だけである。
結局4勝2敗でこのシリーズに勝利し、カンファレンス決勝もニックス相手に4勝2敗で勝利し、ペイサーズにとってもミラーにとっても初のNBAファイナル進出となった。
NBAファイナルでミラーは1試合平均24.3得点するが、ロサンゼルス・レイカーズ相手に2勝4敗で敗退した。
2002-2003シーズン頃からはチームの若手に出場時間を譲り自身の出場時間は1試合平均で30分程度と大黒柱としての役割は減っていたが、バスケットボールへの態度等でもチームを牽引していた。
2004-2005シーズン前半の2004年11月19日、デトロイト・ピストンズ戦で起こった乱闘事件によりペイサーズはロン・アーテスト、ジャーメイン・オニール、スティーブン・ジャクソン、アンソニー・ジョンソン、ミラーが出場停止となり、特にアーテストがシーズンの全試合、ジャクソンが30試合、オニールが25試合(その後15試合に軽減)と長期の出場停止処分となり、その間ミラーは先発選手としてリーダーシップを取って、1試合平均20得点近い成績を残した。
また2005年3月19日のレイカーズ戦では39歳にして39得点を記録している。
2005年2月、ミラーはTNTのレポーターである姉シェリルを通じシーズン終了後の引退を表明した。
同年5月、プレーオフでペイサーズが敗退したのち、ミラーは引退した。
なお、最後の試合となった2005年5月19日カンファレンス準決勝第6戦のピストンズ戦では27得点だった。
2006年3月、インディアナ・ペイサーズがミラーの背番号31を永久欠番にすることを発表し、3月30日に永久欠番のセレモニーが行われた。
2007年8月 スター選手が集まったボストン・セルティックスにベンチプレーヤーとして現役復帰するという話が浮上するも、ミラー本人とセルティックス側双方が否定した。
代表
1994年、全米代表としてドリームチームIIに参加、バスケットボール世界選手権に参加して優勝。
1996年アトランタオリンピックの全米代表チームの一員として金メダルを獲得。
2002年にも全米代表としてバスケットボール世界選手権に参加するが敗れ、これはNBA選手が参加するようになってから全米代表が初めて優勝できなかった大会となった。
エピソード
『俺はリング欲しさの移籍なんてしない』と言いペイサーズ一筋でそのキャリアを終えた。
生い立ち
ミラーは生まれつき脚が曲がっており正常に歩くことができなかったので、ギプスをつけるなどの矯正を数年行い、正常に歩けるようになった。
なおミラーの家族は、兄のダレルがMLBのキャッチャー、妹のタミーがカリフォルニア州立大学でバレーボール選手とスポーツ一家である。
レジー・ミラーにはシェリルというお姉さんもおりバスケットボール選手でオリンピック金メダルまで獲得しています。
女ジョーダンなんて呼ばれていましたよね。
1995年にはバスケットボール殿堂入りも果たしているほどの選手でした。
幼少期、レジーとシェリルは賭けバスケで稼いだというエピソードもありますね。
その賭けバスケの内容はこんな感じ。
賭金は10ドル。まずレジーが自信満々な2人に吹っかける。
コンビを組む姉・シェリルは弱そうな服装をして相手を油断させ
まずは相手に一気に5点先取させる。そこから猛反撃し余裕で10ドルゲット!
そのお金でマクドでハンバーガーを食べていたそうですよ。
さらにはこんなエピソードも。
レジーが高校生の時、30得点オーバーを記録し喜んで両親に報告しましたが、同じ日にシェリルが105点取っていた為両親はレジーの報告を聞いた時、喜んでいるふりをするのが大変だったとか…。
もはや女ウィルト・チェンバレンですよね…。
ミラータイム
レジー・ミラー選手を語る上で欠かせないのがミラータイム伝説だ。
試合終盤、チームの敗戦が濃厚で、チームメイトもファンも勝利を諦めていた時間帯からレジー・ミラー選手が次々と3ポイントシュートなどで得点を積み重ね、奇跡の逆転劇を演じるというものだ。
レジー・ミラーといえば、アウェイでブーイングを浴びせられれば浴びせられるほどその力を発揮し、数々の奇跡的な逆転劇を何度も演出しました。
中でも特筆すべきはNYCニックス相手の2試合じゃないでしょうか?
まずは1994年のイースタン・カンファレンス決勝の第5戦。
アウェイで宿敵ニックス相手に第4Qの12分間でなんと25得点!
1試合合計39得点を挙げ、チームも93-86で勝利。
そして翌年、1995年イースタン・カンファレンス準決勝第1戦!
またもやアウェイで宿敵ニックス・・・
試合終了まで残り16.4秒で6点ビハインド
ミラーは3Pシュート2本、フリースロー2本で8得点して、107-105で逆転勝利!
スティールから3Pラインまでドリブルで戻って振り向きざま3Pシュートを決めるんですからえげつないです!
これらとは別に1998年のイースタン・カンファレンス決勝でのマイケル・ジョーダン率いるCHIブルズ戦。
残り3秒で1点差でペイサーズが負けている状況。
そこでミラーはジョーダンのマークを振り切り、3Pシュートを決め逆転勝利。
これも劇的でしたよね。
というのも、CHIブルズが6回の優勝を果たしたプレイオフの中で崖っぷちまで追い込まれたのはこの時のペイサーズと、1992年のNYCニックスだけなんです。
今見ても鳥肌の立つシーンですよね!
下の動画の1分18秒~が1995年イースタン・カンファレンス準決勝第1戦のシーン
さらに2分24秒~が1998年のイースタン・カンファレンス決勝のシーンですね。
トラッシュトーク
マイケル・ジョーダンやゲーリー・ペイトンも強烈なトラッシュトークで有名ですがレジー・ミラーのそれもかなり強烈なものだったそうです。
例えばジョーダンはマグジー・ボーグスに『打ってみろよ、このくそチビ野郎!』とわざとシュートを打てるスペースを空けて言った事があるそうです。
プレイ中、常に相手プレイヤーにこういった言葉を浴びせ続けるのがトラッシュトーカー。
ミラーがジョーダンに浴びせたトラッシュトークの内容は不明ですが噂では相当陰湿な言葉だったようでとうとうジョーダンがブチ切れてミラーに殴り掛かっていきました。
そして双方テクニカルファウルをコールされミラーは退場。
ジョーダンは処分なし。
ちょっとおかしい判定でしたね。
しかしジョーダンが1度目の引退から復帰する際のトレーニング時にはミラーがジョーダンドームに招待されいているのでプライベートでの仲が悪いという事はないかと思われます。
大学時代
ミラーはカルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学し、1984年-1985シーズンにはNITトーナメント(National Invitational Tournament)決勝に進出、1986年-1987シーズンにはPac-10でシーズン優勝した。
カリーム・アブドゥル=ジャバーに続くUCLA歴代2位の通算得点を記録し、1シーズンでの記録では最多得点、1試合あたりの最多得点、最多フリースロー成功数などのタイトルを獲得している。
プレースタイル
歴代NBAプレイヤーの中でも屈指のピュアシューター。
NBAプレイヤーの中では身体も細く、ジャンプ力があるわけでもなく決して身体能力的に恵まれていたわけではないミラーですがそのシュートレンジの広さとシュート力は凄まじいものがありました。
レジー・ミラーのプレースタイルといえば、何と言っても「精度の高い3Pシュート」をあげる人が多いと思います。
3P成功数はレイ・アレンにつぐ歴代2位であり、1位のレイ・アレンに「歴代最高のシューターはレジー・ミラー」と言わしめるほどの伝説的なシューターです。
なぜそれほどまでに、多くの人の脳裏に、そして記憶に焼き付けられているのかというと「クラッチシューター」としての活躍に理由があるのかもしれません。
レジー・ミラーは大舞台で勝負を決める一撃を決める、誰もが恐れるシューターでした。
「ミラー・タイム」と呼ばれる、ミラーの神がかったクラッチプレーは、あの神様ジョーダンも止められなかったほどです。
有名なのは1995年のイースタンカンファレンスの準決勝でニューヨーク・ニックスと対戦した試合です。
なんと残り16秒で6点負けいた場面で、9秒間で8点を一人で稼ぎ出して逆転勝利に導いたのです。
ミラーは筋肉隆々のNBAプレーヤーの中でもかなり細身の体型ですので、物腰も柔らかい雰囲気だと思うかもしれません。
しかし、ミラーのプレー内容以外にも有名な一面が、過激なトラッシュトークです。
神様ジョーダンをもブチギレさせるほどです!
でも、このような強気の一面が、大きな舞台でもしっかりシュートを決めきるハートの強さに繋がっているのかもしれません。
引退後のインタビューでも「全盛期ならカリーを倒せる」などやっぱり強気です。
レジー・ミラーのプレイスタイルはとにかくシュートの正確性が素晴らしい点取り屋。
シュートフォームも綺麗で長身から素早いタイミングでシュートを打ってきて、美しい放物線を描いてリングに吸い込まれます。
201センチと長身にも関わらず痩せ型で手足もスラーっと長くてキレイなスタイル。
しかし足も速い訳でもないし、ドリブルで切り込んでいく訳でもなく淡々とシュートを遠いレンジから決めるんです。
その際にはスピードで相手を振り切る訳ではなく、味方のスクリーンを使って相手のマークマンをひっぺがして一瞬のズレを作ってボールをもらってすぐにシュート打って決める。
この繰り返しなんです。
まるで精密機械のようにボールがリングに吸い込まれていくんです。
とにかくスクリーンの使い方が上手くて右サイドにいたかと思ったら、ペイントゾーンの味方のスクリーンを使って左サイドに流れてきた時にはフリーになってたりします。
1枚のスクリーンだけでなく2枚使ったりしてチームとしてレジー・ミラーをフリーにして得点を取る感じ。
みんながミラーのために身体を張ってフリーにするスクリーン役をやってました。