概略
誕生日 | 1970年2月8日(50歳) |
---|---|
国 | ![]() |
出身地 | バージニア州チェサピーク |
出身 | ジョージタウン大学 |
ドラフト | 1992年 2位 |
永久欠番 | ヒート 33 |
---|---|
身長(現役時) | 208cm (6 ft 10 in) |
体重(現役時) | 123kg (271 lb) |
ウィングスパン(現役時) | 228cm (7 ft 6 in) |
ポジションはセンター。
右利き。
愛称は「ZO(ゾー)」。
センタープレイヤーとして上背はないが、剛力を発揮してインサイドを支配し、強烈な印象を残した。
1999年と2000年にNBA最優秀守備選手賞を受賞した好ディフェンダーであり、2000年シドニーオリンピック金メダリスト。
2014年、バスケットボール殿堂入りを果たした。
受賞歴 | |
---|---|
|
|
経歴
クラブ経歴 | |
---|---|
1992-1995 1995-2003 2003-2004 2004-2008 |
シャーロット・ホーネッツ マイアミ・ヒート ニュージャージー・ネッツ マイアミ・ヒート |
代表歴 | |
---|---|
キャップ | ![]() |
ジョージタウン大学のスター選手として名をとどろかせた。
1年先輩にディケンベ・ムトンボがいた。パトリック・ユーイングも大学の先輩にあたる。
モーニングは同大学卒業後1992年のNBAドラフトでシャキール・オニールに次ぐ全体2番目でシャーロット・ホーネッツから指名されてNBA入りした。
ルーキー離れした活躍を見せ新人王候補にも残るが、オニールに敗れる。
しかし、オールルーキーファーストチームに選出される。
ホーネッツはラリー・ジョンソンとケンドール・ギルなど有能な選手が揃い、「フューチャーブルズ」(未来のシカゴ・ブルズ)と呼ばれるほど強豪チームになるのではないかと期待される。
1994年バスケットボール世界選手権にドリームチームIIとして出場し優勝した。
3年間ホーネッツでプレーした後、95-96シーズン開幕前にヒートに移籍した。
ヒートでは、パット・ライリーの指揮のもと強豪チームとなる。
チームメイトのティム・ハーダウェイと何度も優勝のチャンスを掴むが、優勝を味わうことはなかった。
98-99シーズンと99-00シーズンにはNBA最優秀守備選手賞を受賞した。
2000年に開催されたシドニーオリンピックでアメリカ代表としてプレー。
見事金メダルを獲得する。それからがモーニングの試練になるのであった。
オリンピックも終了し、帰国したモーニングに衝撃の事実が告げられる。
モーニングは巣状糸球体硬化症(腎臓の疾患)を患っていた。
選手生命にもかかわる事態となったが、モーニングは腎臓の移植手術を決断。
シーズン終了前の13試合に出場するなど、鋼鉄の体を見せるが、プレーオフでは結果を残せず。
続く01-02シーズン終了後モーニングは引退を発表した。
ところが、モーニングは引退から1年後にニュージャージー・ネッツと契約。
だが、モーニングの状態はよくなく、12試合に出場したのみで再び引退。
不死身といわれたモーニングも終わりだと思われた。
しかし、04-05シーズンにモーニングは再びNBAのコートに帰ってきた。
シーズン開幕後はネッツでプレーしていたが、ビンス・カーターとのトレードでトロント・ラプターズに移籍、ラプターズではプレーせずに古巣のヒートに復帰した。
こうしてヒートに戻ってきたモーニングは、04-05シーズンに移籍したシャキール・オニールの控えセンターとして活躍し、オニールや新しいスター、ドウェイン・ウェイドらと共にNBAの頂点を目指し、2006年にはキャリアで初めての優勝を果たした。
優勝が決まったNBAファイナル第6戦でモーニングは5ブロックと大暴れし、チームの優勝に大きく貢献した。
優勝した後のヒートは急速に衰え、翌06-07シーズンはプレイオフには進出したものの、1回戦でシカゴ・ブルズに全敗で敗退し、翌07-08シーズンもシーズン序盤から大きく負け越した。
モーニングは開幕前からこのシーズンを最後に引退することを表明していたが、12月20日のアトランタ・ホークス戦で右ひざ脚蓋腱を断裂してしまい、シーズン中の復帰は絶望視されてしまう。
シャキール・オニールらチームメイトに抱えながらコートを去る時、モーニングの口からは「It’s over」という言葉が漏れたという。
その後モーニングは引退を表明し、08-09シーズン、3月30日のマジック戦、引退セレモニーが43分間にわたって行われた。
同時に、現役時代の背番号「33」ヒートの所属選手で初のヒートの永久欠番となった。
なお、本人曰く「師匠」であるパトリック・ユーイング(現シャーロット・ホーネッツアシスタントコーチ)が同席できるよう、このマジック戦のハーフタイムが選ばれたのだという。
モーニングは大粒の涙を流し、現役生活に幕を下ろした。
エピソード
肝臓疾患と2度の復帰
NBAで最も活躍できる30歳の翌年にモーニングは腎臓疾患を患い、移植手術をうけることとなり、手術後復帰はしましたが思うような回復が見られず、それが原因で2度の引退と復帰を繰り返します。
腎臓移植のページを見ても完治後に適度な運動は必要であると記されていますが、激しい運動や高いところから飛び降りることは危険とも書かれていて、NBAのコートの上でプレイすることなど危険以外のなにものでもないのがよく分かります。
しかも猛者揃いの当時のインサイドとあっては、心配する声が多く挙がったのも頷けます。
それでも4年後のシーズンに見事な完全復活を果たしたモーニングは、古巣のヒートで苦しくも学生時代から目の上のたんこぶともいえる存在だったシャックの控えセンターとしてプレイします。
プレイタイムも短く、個人スタッツはシーズン平均1ケタ得点と全盛期から比べると当然衰えは感じましたが、それでも経験からくるインサイドアタックやディフェンスはファンを魅了するものでした。
そして翌年の2005-6シーズンでは念願のチャンピオンリングを獲得します。
この年も主役はウェイドやシャックでしたが、ベンチメンバーのモーニングの活躍は誰しもが認めるところでした。
スタープレイヤーであっても遠いNBAのチャンピオンリングを、腎臓疾患や2度の引退から獲得したモーニングのプレイは伝説として今後も引き継がれるでしょう。
シグニチャーモデルのバッシュ
アロンゾモーニングは現役時代にナイキからシグニチャーモデルのバッシュが発売されています。
その名もAIR ALONZO。
現在は中古品であってもその姿を拝むのは難しいでしょう。
乱闘
アロンゾ・モーニングといったら熱く、力強く、頼もしい印象ですが、接触の多いインサイドでは相手とのいざこざも多くデニス・ロドマンとは何度もやりあっています。
ニューヨーク・ニックスとのプレーオフで元チームメイトのラリー・ジョンソンとの乱闘騒ぎが特に有名になってしまっています。
なかなかの乱闘ですが一番注目されたのはニックスのヘッドコーチ「ジェフ・ヴァン・ガンディ」です。
この乱闘を身体を張って止めようと、選手達に比べたらかなり小さい身体でモーニングの足にしがみつきます。
プレースタイル
まるでボディビルダーのように筋骨隆々であり、驚異的なフィジカルの強さを誇っていた。
上背(高さ)の脅威はないものの、強力なフィジカルと技術でインサイドを支配していた。
208cmの身長はセンターとしては決して高い方ではなかったが、鍛え上げられた肉体はフィジカル面で相手を圧倒し、ミドルレンジからのシュートも高確率で決める事ができた。
自分より大きな選手を、「上手さ」よりむしろ「力」でねじふせるという、ちょっと異色な存在でした。
見た目によらずシュートも上手な選手でシュートレンジも広かった。
圧倒的なパワーと高度なシュート技術を持つ、『剛』と『柔』の選手であった。
モーニングはセンターとしてはシュートエリアが非常に広く、手首を少しばかり返すような独特なフォームからのぺリメーターからのジャンプシュートを得意とするほかに、フリースローも器用にこなすことができていた。
パワープレーを得意とするセンターは、フリースローを苦手とすることが多いが、モーニングはそれを苦にしていなかった。
パワーだけでなく、機動力も持ち合わせており、ゴール下での機敏な動きのほか、コートを全速力で駆け抜けてダンクシュートを叩き込むこともあった。
また、最優秀守備選手賞に2度選ばれるなどディフェンス面での評価が非常に高く、攻守両面でインサイドを支配できる存在として、同期のシャキール・オニールとともにリーグを代表するセンターとして活躍した。
インサイドを完全に支配することのできる選手であり、特にゴール下でのディフェンスは圧巻で、ブロックショットでは毎シーズン驚異的な数字を残し、過去2年連続で最優秀ディフェンス賞を受けた。
リバウンドも得意としており、幅のある身体でポジションを取り、確実にリバウンドをむしり取っていた。
オニールとインサイドで黄金期を築いた。
また全盛期のオニールに対抗できていた、数少ない選手の一人である。
ミドルレンジのジャンプシュートも年々正確さを向上させ、全盛期には20得点10リバウンドを毎試合のように達成していた。
晩年は怪我や病気の影響で満足なプレーとは程遠かったが、それでもブロックの威力は凄まじく、不屈の闘志でヒート優勝にも貢献した。