概略
誕生日 | 1963年7月30日(57歳) |
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国 | ![]() |
出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク市 ブルックリン区 |
出身 | セント・ジョーンズ大学 |
ドラフト | 1986年 7位 |
背番号(現役時) | 17, 13 |
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身長(現役時) | 201cm (6 ft 7 in) |
体重(現役時) | 98kg (216 lb) |
シュート | 左 |
ポジションはスモールフォワード。
左利き。
「ゴッド・ハンド」との異名を持つ名シューター。
NBAのゴールデンステート・ウォリアーズで大半を過ごした左利きの名シューター。
1984年のロス五輪、1992年のバルセロナ五輪の金メダリスト。
現在は母校のセント・ジョーンズ大学のヘッドコーチを務めている。
2011年には、アメリカ大学バスケットボール殿堂、さらにネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂に選出された。
受賞歴 | |
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獲得メダル | ||||||||||||
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経歴
クラブ経歴 | |
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1985-1997 1997-2000 2000-2001 |
ゴールデンステート・ウォリアーズ インディアナ・ペイサーズ ゴールデンステート・ウォリアーズ |
代表歴 | |
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キャップ | ![]() |
少年時代から練習熱心で、ニューヨーク近辺では名の知られた選手だった。
大学4年間で平均得点は19.5。
3年生の時にはマイケル・ジョーダン、パトリック・ユーイングらとともに米国代表としてロサンゼルスオリンピックに出場し、金メダルを獲得した。
4年生時にはウッデン賞を受賞した。
大学を卒業するとゴールデンステート・ウォリアーズに全体7位で指名を受けた。
1年目の平均得点は14点だった。
フリースロー成功率は89.6パーセントで、これは新人としてはリーグ史上2番目に高い数字だった。
プロ入り3年目に入る頃、マリンはアルコール依存症の問題を抱えていた。
ドン・ネルソン監督の勧めによりアルコール中毒治療のプログラムを受け、22試合欠場したのち復帰を果たした。
このシーズンの平均得点は20点を越えた。
マリン入団以来のチーム成績は勝率5割前後で、1988年には20勝62敗まで落ち込んだものの、翌シーズンにミッチ・リッチモンド、さらに次のシーズンにティム・ハーダウェイがチーム入りし、1990年代のウォリアーズを支える人材が集まっていた。
1990年代に入る頃には、マリンとリッチモンド、ハーダウェイの3人はランTMC(3人のファーストネーム、ティム(T)、ミッチ(M)、クリス(C))と呼ばれ、それぞれがシーズン平均20得点以上を上げた。
TIM HARDAWAY、 MICH RICHMOND、 CHRIS MULLINの頭文字を当時人気ラッパーだったRUN DMCと重ねました。
3人の能力とネルソン監督の速攻重視の戦術により、ウォリアーズはリーグで最も得点力の高いチームになっていた。
マリンは1989年に平均26.5点でリーグ5位、以降も数シーズンにわたり平均得点で10位以内に入った。
1992年にはオールNBAファーストチームに選出された。
このシーズンが終了すると、マリンはドリームチームの一員として1992年バルセロナオリンピックに出場、金メダルを獲得した。
ウォリアーズは1992年に55勝27敗、1994年には50勝32敗の好成績を残したがプレイオフでは勝ち残れず、1994-95シーズン序盤でネルソン監督が辞任して以降は数シーズンの間勝率5割以下のチームになった。
マリンは右親指の靭帯断裂により1992-93シーズンの半分近くを欠場。
1994-95以降も脚の怪我などで多くの試合に欠場するなど、マリンの個人成績は低下していた。
1996-97シーズン終了後、マリンはインディアナ・ペイサーズにトレードされた。
ペイサーズの監督は、かつてのライバルでもありドリームチームのメンバーでもあったラリー・バードだった。
この頃のマリンは既に30代の半ばになっており、次第に中心的な選手からベンチからチームを助ける役割へと変化していった。
ペイサーズ3年目の1999-2000シーズンにはマリンが出場したのは47試合、うち先発したのは2試合のみだった。
出場時間が明らかに少なくなると、マリンはバード監督に対し間接的な不満を表明したこともあった。
ペイサーズがNBAファイナルに出場した1999-2000シーズンが終了すると、マリンは古巣のゴールデンステート・ウォリアーズに復帰した。
そこで20試合に出場し、それを最後に引退した。
引退後のマリンは、スペシャル・アシスタントコーチの職を得てウォリアーズにフロント入りした。
生涯平均得点は18.2、生涯通算得点は17,911点。
生涯通算出場数は986試合で、うちウォリアーズの選手として試合に出た807試合はチーム史上最多。生涯通算スティール数は1,530で、うちウォリアーズで上げた1,334本もチーム記録。
NBAオールスターゲームには5度選出された。
1991年と1992年には出場時間がリーグ最多。
現役時代には「ゴッド・ハンド」との異名を持つ名シューターとして知られ、スリーポイントシュートの成功数や成功率、フリースローの成功率はしばしばリーグ上位に入った。
1998年のフリースロー成功率93.9パーセントはリーグ首位。
エピソード
バスケットボール漫画「スラムダンク」。
このスラムダンクに出てくるキャラクターはNBA選手のモデルがいると言うのは有名な話です。
スラムダンクのシューターと言えば「三井寿」。
三井寿のモデルは、クリス・マリンか、マーク・プライスと言われています。
少年時代の憧れだったジョン・ハブリチェックにあやかり、背番号は17だった。
妻との間に3人の息子を持つ。
マリンはテニスファンでもあり、ジョン・マッケンローやブラッド・ギルバートの友人である。
プレースタイル
生粋のスリーポイントシューターとして活躍したクリス・マリンは、NBAの中でも屈指のスリーポイントシューターで、左利きのキレイなシュートフォームから放たれる放物線を描いたリングまで間の長いシュートは今でも多くのファンの記憶に残っていることでしょう。
シーズン平均のキャリアハイシュート確率がとにかく凄く、フィールドゴール.553、3ポイント.452、フリースロー.939となっていて、これだけ見てもシュートがどれだけ上手い選手か分かります。
スタッツ的にはレイ・アレンとよく似ていますが、やはりアウトサイド中心のプレイとなるのであのレイ・アレンであってもフィールドゴールが5割を超えたことがない中で、マリンは8シーズンに渡り5割を超えています。
身体能力は決して高い方ではなかったが、いとも簡単にディフェンスを外してしまう姿は特殊能力を使う宇宙人にも例えられ、とくに左手から放つショットは非常に高い精度を誇った。
チームメイトのティム・ハーダウェイは「マリンにボールを渡せばアシストになる」と語り、マジック・ジョンソンも「神の左手」とそのシュート力を称えた。
またドライブやミドルレンジのジャンプシュートも得意とし、3ポイントをチェックしすぎれば抜かれ、離せば打たれるといった非常につきにくい選手であった。
さらにフォワードながらパスのセンスも高く、
ルーキーイヤーから2ケタ平均得点を記録したクリスマリンは、3年目にはシーズン平均20得点をマークし、その後6年間20得点以上の平均得点でチームを支え、キャリアハイの平均シーズンでは26.5得点とNBAを代表するスコアラーとなりました。
現代のように3Pをどんどん打っていく時代に生まれていればシーズン平均得点は軽く30点を越えていただろうといわれています。
身体能力に恵まれたプレイヤーであるとはいえませんが、201cmの左利きから放たれる確率のよい3ポイントは相手にとって脅威だったのは間違いありません。