グンナー・グレン

サッカー

概略

Gunnar Gren vs URSS Mondiali 1958
国籍  スウェーデン
生年月日 1920年10月31日
出身地 ヨーテボリ
没年月日 1991年11月10日(71歳没)

身長175cm、体重71kg。

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。

 

右利き。

 

「プロフェッサー」の異名を持つ。

 

スウェーデンが生んだファンタジスタ。

 

代表でもACミランでも同郷のグンナー・ノルダールとニルス・リードホルムとともに「グレ・ノ・リ・トリオ」という攻撃トリオを形成しサッカー界を席巻した。

 

1948年ロンドンオリンピック金メダリスト。

 

栄誉

クラブ

IFKヨーテボリ
  • アルスヴェンスカン:1941年
ACミラン
  • セリエA1950–51 ; 次点1949年-1950年1951年-1952年
  • ラテンカップ:1950–51

代表

スウェーデン
  • FIFAワールドカップ:1958年準優勝
  • 1948年のオリンピック:金メダル

個人

  • グールドボラン:1946
  • Allsvenskanトップスコアラー:1947
  • ヨーテボリサッカー協会ジャグリング賞:1934年
  • FIFAワールドカップオールスターチーム1958
  • ACミランの殿堂

 

経歴

 

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1937-1940 スウェーデンの旗 ゴルダBK 54 (16)
1941-1949 スウェーデンの旗 IFKヨーテボリ 168 (79)
1949-1953 イタリアの旗 ACミラン 133 (38)
1953-1955 イタリアの旗 フィオレンティーナ 55 (5)
1955-1956 イタリアの旗 ジェノアCFC 29 (2)
1956-1957 スウェーデンの旗 オーグリュテIS 4 (0)
1963-1964 スウェーデンの旗 GAIS 22 (2)
1976 スウェーデンの旗 IKオッデヴォルド 1 (0)
代表歴
1940-1958 スウェーデンの旗 スウェーデン 57 (32)

 

クラブ

 

ゴルダBKでトップリーグデビュー。

 

1941年にスウェーデンの強豪IFKイエテボリへの移籍を果たす。

 

8年間在籍したイエテボリでは164試合に出場し78ゴールを記録。

 

1945年にスウェーデン年間最優秀選手に選ばれ、47年にはリーグ得点王を獲得している。

 

1949年には、リードホルムとグレンの二人もACミランへの移籍を果たす。

 

そして9月11日のサンプドリア戦で3人が揃い踏みし、3-1の勝利でスウェーデントリオの誕生を飾った。

 

イタリアのメディアはさっそくこの3人に「グレ・ノ・リ」の呼び名を与え、すぐにファンの間で定着していった。

 

49-50シーズン、リードホルムとグレンのアシストを受けたノルダールは37試合に出場して35ゴール、セリエAの得点王となった。

 

またリードホルムとグレンも同じく37試合に出場して、二人とも18ゴールを記録している。

 

翌50-51シーズンはノルダールが34ゴール、リードホルムが13ゴール、9ゴールのグレンもボールの配球役として活躍し、1907年以来となるミランのスクデッド獲得に貢献した。

 

グレンは52-53シーズンまでミランに在籍、翌53-54シーズンにはフィオレンティーナに移籍し、ミランの「グレ・ノ・リ」トリオは4年で解散となった。

 

フィオレンティーナでは2シーズンプレーしたあと、55年に移ったジェノアで1シーズンを過ごす。

 

そしてグレンは56年にスウェーデンへ帰国。

 

故郷のエルグリテというクラブでセミプロとして39歳までプレーした。

 

セリエAでは7シーズンで133試合に出場し、38ゴールの記録を残している。

 

代表

 

スウェーデン代表としては1940年8月29日のフィンランド戦で代表デビューを飾る。

 

1948年オリンピック、8月2日にオーストリアとのトーナメント第1回戦が行われ、スウェーデンは3-0の快勝、準々決勝では韓国を12-0と粉砕した。

 

準決勝では、ともに戦争被害の少なかった北欧のデンマークと対戦、4-2とライバルを打ち破りスウェーデンは決勝へ進んだ。

 

決勝の相手はミティッチ、ボベク、チャイコフスキー、ブカシュなどA代表の名手をそのまま揃えた、ステートアマチームのユーゴスラビア。

 

決勝の試合は13日、6万人の観客を集めてサッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムで行われた。

 

ともに技術は高く、スウェーデンはフィジカルや体格の良さが強み、ユーゴにはスピードのある選手が多かった。

 

24分にグレンのゴールでスウェーデンが先制、ユーゴも42分にボベクが決めて、前半は1-1で終える。

 

後半開始直後に、グンナー・ノルダールが大会7点目となるゴールを決めて勝ち越し。

 

さらに67分にはPKを得て、これをグレンが沈めてユーゴを3-1と突き放した。

 

このあとリードホルムがゲームをコントロール、DFのクヌートとベルティルのノルダール兄弟も相手の反撃を抑え、そのままスウェーデンが逃げ切った。

 

スウェーデンはサッカー競技で初めて金メダルを獲得。

 

4試合で7得点を挙げたグンナー・ノルダールは、銅メダル・デンマークのハンセンとともに大会得点王に輝いた。

 

そしてスウェーデンの活躍はイタリアやスペインのプロクラブの目にとまり、大会後に多くの選手が引き抜かれていく。

 

だが当時のスウェーデン協会は国内でプレーする選手しか代表に選ばなかったため、2年後のブラジルWカップで3位となったメンバーは、この決勝に出場した11人のうち、エリク・ニルソンとクヌート・ノルダールの2人だけだった。

 

1958年はスウェーデンで第6回Wカップが開催されることになっていたが、大会を1ヶ月後に控えた時点でもまだチームの編成は決まっていなかった。

 

国内に残るアマチュアとセミプロ選手でメンバーを固めるか、国外のプロリーグで活躍する選手たちをチームの中心据えるか、協会役員や関係者の間で議論が続いていたのだ。

 

最終的には英国人のジョージ・レイナー監督に判断が任され、4人のプロ選手が呼び戻されることになった。

 

招集されたプロ選手は、セリエAで活躍するグスタフソン、ハムリン、スコグルンド、そして36歳となった大ベテランのリードホルムだった。

 

故郷に戻っていた38歳のグレンは既に代表復帰を果たしており、ローマで兼任監督を務めていたノルダールはプレーが少なく不参加となった。

 

こうしてスウェーデン代表は、スピードを犠牲にして経験豊かなベテラン選手を中心に据えたチームで大会へ臨むことになった。

 

6月8日にWカップが始まり、スウェーデンはG/L初戦でシモンソンの2ゴールとキャプテン・リードホルムのPKでメキシコに3-0と快勝。

 

第2戦はハムリンの2得点で強敵ハンガリーを2-1と下して勝ち抜けを決め、ベテランを休ませた最終節ウェールズ戦では0-0と引き分けて余裕のG/L1位となった。

 

準々決勝は中1日のソ連を老獪なゲーム運びで疲れさせ、ハムリンとシモンソンのゴールで2-0の勝利。

 

そして準決勝は、前回王者・西ドイツとの対戦になった。

 

立ち上がりから優勢に試合を進めたスウェーデンだが、24分にゼラーのクロスをボレーでシェーファーに叩き込まれ先制を許してしまった。

 

それでもリードホルムとグレンが落ち着いたゲーム運びで流れを引き戻し、33分にはショクルントのゴールで同点とする。

 

得点の場面に絡んだリードホルムが手を使ったようにも見えたが、主審はそのプレーを流していた。

 

後半に入った48分、ハムリンのファールに怒った西ドイツのユスコヴビアクが報復行為を行い、退場処分となる。

 

さらに終盤に入った74分、激しいタックルを受けた西ドイツキャプテン、フリッツ・バルターが重傷を負い、ピッチに残ったもののゲームに参加できなくなってしまう。

 

ファールのスウェーデン選手が退場となるが、実質10人対9人の戦いとなった。

 

80分、ハムリンのシュートの跳ね返りをグレンが決め勝ち越し。

 

そして88分にハムリンが鮮やかなステップで3人を抜き去り、ダメ押し点を叩き込んだ。

 

こうして大会前は期待の薄かった地元スウェーデンが、ついに決勝まで勝ち上がったのである。

 

決勝の相手は、新星ペレとガリンシャの登場で大会に旋風を起こしていたブラジルだった。

 

試合前、「先制してブラジルを慌てさせれば勝機がある」と語ったレイナー監督。

 

その思惑通り、開始4分にグレンとのコンビネーションでリードホルムが先制点を決める。

 

しかしブラジルはまったく慌てることなく反撃、9分にガリンシャが驚異的なフェイントと加速でDFをかわし、その折り返しからババの同点ゴールが決まった。

 

その後ブラジルはさらに得点を重ね、55分にはペレの伝説ゴールも生まれて一方的な展開となった。

 

スウェーデンは、リードホルムのパスからシモンソンのゴールで終盤1点返すのが精一杯、完全に主役の座を奪われブラジルに2-5と完敗を喫してしまった。

 

地元の利と老獪さで勝ち上がってきたスウェーデンも、ブラジルの勢いを止める事が出来なかったのである。

 

結局ワールドカップにはこの1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会が唯一の参加となった。

 

この時、既に37歳となっていたが、中心選手として牽引し同国の準優勝に貢献した。

 

その後、同年10月26日のデンマーク戦を最後に代表を引退。

 

国際Aマッチ通算57試合出場32得点を記録した。

 

エピソード

 

現役引退後は指導者の道へ進み、古巣のIFKヨーテボリを始め、スウェーデン国内のクラブなどで監督を務めた。

 

1991年11月10日に71歳の誕生日を迎えた10日後に死去、71歳没。

 

プレースタイル

 

グレンは今で言えば攻撃的なMF。

 

テクニックに優れファンタジスタといわれるそのプレースタイルは攻撃において違いを生み出し、いくつもの決定機を作り上げてきた。

 

右寄りの位置から多彩なパスを送り、シュートもうまかった。

 

得点力がある選手だが「プロフェッサー」の異名を持つグレンは自ら得点を決めるより、正確無比なパスと計算されたプレーでゴールをお膳立てすることを得意とした。

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