概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1922年10月8日 | ||
出身地 | ヴァルデマルスヴィク | ||
没年月日 | 2007年11月5日(85歳没) |
身長182cm. 体重81kg。
左利き。(両利き)
ポジションはフォワード(左インナー、左ウィング)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、左サイドハーフ、右サイドハーフ)デフェンダー(リベロ)。
その佇まいから「イル・バローネ(男爵)」と呼ばれた。
48年のロンドン・オリンピックではプレイメーカーとしてスウェーデンの金メダル獲得に貢献。
その後移籍したACミランでは、同じく代表で活躍したグンナー・グレン( Gunnar Gren )、グンナー・ノルダール( Nils Gunner Nordahl )とともに “グレ・ノ・リ( Gre-No-Li )” トリオを形成、クラブの50年代黄金期を飾った。
20世紀の終わりにはスウェーデンの大手新聞社Aftonbladetの読者投票による20世紀最高のスウェーデン人選手に選出された。
獲得タイトル
クラブ
- IFKノーショーピング
- アルスヴェンスカン:1946年-1947年、1947年-1948年
- ACミラン
- セリエA:1950年-1951年、1954年-1955年、1956年-1957年、1958年-1959年
- ラテンカップ:1950–51、1955–56
- ヨーロピアンカップ準優勝:1957–58
代表
- スウェーデン
- ロンドンオリンピックの 金メダル:1948年
- FIFAワールドカップ準優勝:1958年
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1943-1946 | ![]() |
60 | (24) |
1946-1949 | ![]() |
48 | (22) |
1949-1961 | ![]() |
359 | (81) |
代表 | |||
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1947〜 1958年 | スウェーデン | 23 | (12) |
クラブ
リードホルムは1942年にIKスレイプニルで選手キャリアをスタートさせる。
1946年からはIFKノーショーピングへ移籍し、2度のリーグ制覇に貢献した。
1949年にイタリアのACミランへ移籍し、同年9月11日のサンプドリア戦でリーグデビューを飾るとレギュラーに定着した。
そして9月11日のサンプドリア戦で3人が揃い踏みし、3-1の勝利でスウェーデントリオの誕生を飾った。
イタリアのメディアはさっそくこの3人に「グレ・ノ・リ」の呼び名を与え、すぐにファンの間で定着していった。
49-50シーズン、リードホルムとグレンのアシストを受けたノルダールは37試合に出場して35ゴール、セリエAの得点王となった。
またリードホルムとグレンも同じく37試合に出場して、二人とも18ゴールを記録している。
翌50-51シーズンはノルダールが34ゴール、リードホルムが13ゴール、9ゴールのグレンもボールの配球役として活躍し、1907年以来となるミランのスクデッド獲得に貢献した。
そして在籍期間中に4度のリーグ制覇(1951年、1955年、1957年、1959年)と2度のラテンカップ制覇(1951年、1956年)、そして1958年のUEFAチャンピオンズカップでは主将として決勝のレアル・マドリード戦に出場し準優勝に貢献した(試合は2-3でミランの敗北)。
リードホルムはグンナー・ノルダール(セリエA通算257試合出場225得点の記録保持者)の得点の多くをアシストした。
代表
スウェーデン代表としては1946年に代表デビューを飾る。
1948年ロンドン・オリンピック。
8月2日にオーストリアとのトーナメント第1回戦が行われ、スウェーデンは3-0の快勝、準々決勝では韓国を12-0と粉砕した。
準決勝では、ともに戦争被害の少なかった北欧のデンマークと対戦、4-2とライバルを打ち破りスウェーデンは決勝へ進んだ。
決勝の相手はミティッチ、ボベク、チャイコフスキー、ブカシュなどA代表の名手をそのまま揃えた、ステートアマチームのユーゴスラビア。
決勝の試合は13日、6万人の観客を集めてサッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムで行われた。
ともに技術は高く、スウェーデンはフィジカルや体格の良さが強み、ユーゴにはスピードのある選手が多かった。
24分にグレンのゴールでスウェーデンが先制、ユーゴも42分にボベクが決めて、前半は1-1で終える。
後半開始直後に、グンナー・ノルダールが大会7点目となるゴールを決めて勝ち越し。
さらに67分にはPKを得て、これをグレンが沈めてユーゴを3-1と突き放した。
このあとリードホルムがゲームをコントロール、DFのクヌートとベルティルのノルダール兄弟も相手の反撃を抑え、そのままスウェーデンが逃げ切った。
スウェーデンはサッカー競技で初めて金メダルを獲得、4試合で7得点を挙げたグンナー・ノルダールは、銅メダル・デンマークのハンセンとともに大会得点王に輝いた。
そしてスウェーデンの活躍はイタリアやスペインのプロクラブの目にとまり、大会後に多くの選手が引き抜かれていく。
だが当時のスウェーデン協会は国内でプレーする選手しか代表に選ばなかったため、2年後のブラジルWカップで3位となったメンバーは、この決勝に出場した11人のうち、エリク・ニルソンとクヌート・ノルダールの2人だけだった。
1958年はスウェーデンで第6回Wカップが開催されることになっていたが、大会を1ヶ月後に控えた時点でもまだチームの編成は決まっていなかった。
国内に残るアマチュアとセミプロ選手でメンバーを固めるか、国外のプロリーグで活躍する選手たちをチームの中心据えるか、協会役員や関係者の間で議論が続いていたのだ。
最終的には英国人のジョージ・レイナー監督に判断が任され、4人のプロ選手が呼び戻されることになった。
招集されたプロ選手は、セリエAで活躍するグスタフソン、ハムリン、スコグルンド、そして36歳となった大ベテランのリードホルムだった。
故郷に戻っていた38歳のグレンは既に代表復帰を果たしており、ローマで兼任監督を務めていたノルダールはプレーが少なく不参加となった。
こうしてスウェーデン代表は、スピードを犠牲にして経験豊かなベテラン選手を中心に据えたチームで大会へ臨むことになった。
6月8日にWカップが始まり、スウェーデンはG/L初戦でシモンソンの2ゴールとキャプテン・リードホルムのPKでメキシコに3-0と快勝。
第2戦はハムリンの2得点で強敵ハンガリーを2-1と下して勝ち抜けを決め、ベテランを休ませた最終節ウェールズ戦では0-0と引き分けて余裕のG/L1位となった。
準々決勝は中1日のソ連を老獪なゲーム運びで疲れさせ、ハムリンとシモンソンのゴールで2-0の勝利。
そして準決勝は、前回王者・西ドイツとの対戦になった。立ち上がりから優勢に試合を進めたスウェーデンだが、24分にゼラーのクロスをボレーでシェーファーに叩き込まれ先制を許してしまった。
それでもリードホルムとグレンが落ち着いたゲーム運びで流れを引き戻し、33分にはショクルントのゴールで同点とする。
得点の場面に絡んだリードホルムが手を使ったようにも見えたが、主審はそのプレーを流していた。
後半に入った48分、ハムリンのファールに怒った西ドイツのユスコヴビアクが報復行為を行い、退場処分となる。
さらに終盤に入った74分、激しいタックルを受けた西ドイツキャプテン、フリッツ・バルターが重傷を負い、ピッチに残ったもののゲームに参加できなくなってしまう。
ファールのスウェーデン選手が退場となるが、実質10人対9人の戦いとなった。
80分、ハムリンのシュートの跳ね返りをグレンが決め勝ち越し。
そして88分にハムリンが鮮やかなステップで3人を抜き去り、ダメ押し点を叩き込んだ。
こうして大会前は期待の薄かった地元スウェーデンが、ついに決勝まで勝ち上がったのである。
決勝の相手は、新星ペレとガリンシャの登場で大会に旋風を起こしていたブラジルだった。
試合前、「先制してブラジルを慌てさせれば勝機がある」と語ったレイナー監督。
その思惑通り、開始4分にグレンとのコンビネーションでリードホルムが先制点を決める。
しかしブラジルはまったく慌てることなく反撃、9分にガリンシャが驚異的なフェイントと加速でDFをかわし、その折り返しからババの同点ゴールが決まった。
その後ブラジルはさらに得点を重ね、55分にはペレの伝説ゴールも生まれて一方的な展開となった。
スウェーデンは、リードホルムのパスからシモンソンのゴールで終盤1点返すのが精一杯、完全に主役の座を奪われブラジルに2-5と完敗を喫してしまった。
地元の利と老獪さで勝ち上がってきたスウェーデンも、ブラジルの勢いを止める事が出来なかったのである。
結果として1958年FIFAワールドカップ・スウェーデン大会では主将として大会に挑み、同国の決勝進出に貢献し準優勝に輝いた。
エピソード
53年にグレンがフィオレンティーナに、ノルダールがローマにそれぞれ去った後も、ミラン一筋でプレーを続ける。
リードホルムはフィジカルトレーニングの重要性を理解していた初の選手の一人であった。
その為、練習時間の中で他の選手よりも多くの時間をフィジカルトレーニングに費やした。
また週に2回は100メートル走、3000メートル走、投げ槍、砲丸投げと高跳びを行ったという。
この事が40歳近くまで現役を続ける事が出来た要因となった。
監督時代
現役引退後は指導者の道へ進み、古巣のACミランやフィオレンティーナで監督を務めた。
そして1979年にASローマの監督に就任すると、2度のリーグ制覇(1979年、1983年)、3度のコッパ・イタリア制覇(1981年、1983年、1984年)、1984年のUEFAチャンピオンズカップ準優勝(決勝でリヴァプールFCにPK戦の末に敗退)に導いた。
ローマ時代にはパウロ・ロベルト・ファルカンやブルーノ・コンティらの攻撃陣と、当時のイタリアでは珍しいゾーンディフェンスを採用して成功を収めた。
晩年もイタリア国内に留まり、息子と共にブドウ園を運営していた。
2007年11月5日にアレッサンドリア県の自宅で死去、85歳没。
プレースタイル
ミランの歴史の1ページ目を書き上げた伝説の「グレ・ノ・リ」トリオの1人。
ボールコントロールテクニック、キラーパス、決定力、そしてカリスマ的な統率力を備えた。
リードホルム理知的なピッチの指揮者だった。
当初はインサイドハーフ、30代後半にはリベロとして常にチームの中核をを担い、ピッチ上の監督として振舞った。
戦術眼に長け冷静な判断力をもち、フィジカルや空中戦に秀で、足元のプレーも得意とするなどオールラウンド・プレイヤーぶりを見せた。
左右両足の柔らかいボールタッチ、背筋の伸びたスムーズな身のこなし、正確無比のパスワーク、卓越した戦術眼、強力なヘディングとミドルシュート。
ミッドフィルダーとしてのあらゆる資質を備えた完成度の高いプレイヤーであり、自らそれを認めて憚らなかった。
「私のシュートは凄かったよ。一度など、クロスバーに当ったボールが、そのまま味方のペナルティエリアまで跳ね返ってオウンゴールになったほどだ」
「ファウルを犯して相手からボールを奪うのはあまりに簡単だ。私はファウルなどしなくともボールを奪うことができたよ。だから10年間一度も警告を受けたことがなかった」
この最後のエピソードが示す通り、イタリア的なメンタリティとは全く異なる模範的名スポーツマンシップとフェアプレー精神の持ち主でもあった。
「ある日のサン・シーロで、私がパスをミスしたら、スタンドから『オー』という声が上がったことがあった。それまで2年間、一度もミスをしていなかったからね」
という言葉通り、そのパスは正確無比で知られていた。
テクニックがある上に空中戦にも強く、攻撃的な位置で能力を発揮したかと思えば、キャリア後半にはリベロでも起用され、守備ラインを統率しながらチーム全体を掌握した。