概略
国籍 | ![]() ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1971年9月20日(49歳) | ||
出身地 | ヘルシンボリ | ||
身長 | 178cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
右利き。
愛称は「バイキングの英雄」、「ヘンケ」、「先生」など。
1990年代から2000年代にかけて活躍したスウェーデン代表のストライカー。
長年、在籍したセルティックスでは「リビング・レジェンド(生ける伝説)」と呼ばれ崇められた。
獲得タイトル
クラブ
フェイエノールト
- KNVB Cup: 1993–94, 1994–95
セルティック
- Scottish Premier Division/Scottish Premier League: 1997–98, 2000–01, 2001–02, 2003–04
- Scottish Cup: 2000–01, 2003–04
- Scottish League Cup: 1997–98, 2000–01
- UEFA Cup runner-up: 2002–03
バルセロナ
- La Liga: 2004–05, 2005–06
- Supercopa de España: 2005
- UEFA Champions League: 2005–06
ヘルシンボリ
- Svenska Cupen: 2006
マンチェスター・ユナイテッド
- Premier League: 2006–07
代表
スウェーデン
- FIFA World Cup third place: 1994
個人
- Guldbollen: 1998, 2004
- Swedish Forward of the Year: 2001, 2002, 2003, 2004
- Scottish Premier League Golden Boot: 1998–99, 2000–01, 2001–02, 2002–03, 2003–04
- SFWA Footballer of the Year: 1999,2001
- SPFA Players’ Player of the Year: 1999, 2001
- Scottish Premier League Player of the Month: September 2000, November 2002
- European Golden Boot: 2001
- UEFA Euro 2004: Team of the Tournament
- UEFA Euro 2004: Goal of the Tournament
- UEFA Centurion Award (100 international caps): 2011
- Scottish Football Hall of Fame
- Victoria Scholarship Award: 2007
- Tidernas Guldboll (All-time best Swedish football player): 2005
- All-time UEFA Cup/Europa league goalscorer: 40 goals
特別賞
- UEFA Golden Player: Greatest Swedish Footballer of the last 50 Years (November 2003, to celebrate UEFA’s Jubilee)
- Honorary Doctor of the University from the University of Strathclyde: 2005
- Honorary MBE (Member of the Order of the British Empire): 2006
経歴
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1993-2009 | ![]() |
106 | (37) |
地元ヘルシンボリで得点を量産したラーションはオランダの強豪フェイエノールトへ移籍する。
97年まで4シーズンを過ごし、93-94、94-95シーズンのオランダカップ優勝に大きく貢献した。
93年10月のアメリカ・ワールドカップ予選フィンランド戦で代表デビューを果たし、途中出場で決勝点を記録。
本大会ではスーパーサブとしてプレイし、ブルガリアとの3位決定戦ではゴールを挙げた。
ブロンドのドレッドヘアーという独特の風貌と同国の3位入賞に貢献する活躍でその名を世界に知らしめた。
97-98シーズンからはスコットランド・プレミアリーグ(SPL)のセルティックに在籍。
7年間で4回のリーグ優勝、5回の得点王と燦燦たる歴史を作り上げた。
99年11月には両足を骨折するという大怪我を追ったが、不屈の闘志で復帰し00年欧州選手権にも出場。
2000-2001シーズンには、SPLとカップ戦で合計50ゴールを記録し、チャーリー・ニコラスが1982年に記録した48ゴールの記録を抜くスコットランドのシーズン最多得点の新記録を樹立すると同時にリーグ最優秀選手、そして欧州得点王“ゴールデン・シュー”を獲得した。
このようにSPLだけではなく欧州の舞台でも卓越したパフォーマンスを見せるラーションに各国のビッグクラブからのオファーが殺到したが、彼はそれらを全て断りセルティックに残留。
サポーターは彼を「リビング・レジェンド(生ける伝説)」と呼んだ。
02-03シーズンにはUEFAカップ決勝に進出したが、ジョゼ・モウリーニョ(現チェルシー監督)率いるポルトに2-3と惜敗。
ラーションの2つのゴールも空しく、あと一歩のところで王冠を逃した。
2002年ワールドカップで3得点を挙げ、母国のベスト8入りに大きく貢献した後、ラーションは代表を引退し、セルティックに専念することを決める。
しかし得点力不足に悩むチームを見た国民はラーションを代表に戻すべく署名を始めた。
同国首相やレナート・ヨハンソンUEFA会長もリストに連なる署名は最終的に11万人を超える人数を集めた。
さらに息子の「パパはなぜもう代表でプレーしないの?」という問いかけもありラーションは代表復帰を決意。
EURO2004ではイタリア、デンマーク、ブルガリアという強豪と同グループに入りながらブルガリア戦で2得点を決めるなど計3得点を記録。
準々決勝でオランダに惜しくもPK戦で敗れたものの、02年W杯に続きベスト8を果たした。
そして2004-2005シーズンラーションとセルティックに別れの時が訪れる。
契約期限の切れた彼が移籍先に選んだのはバルセロナ。
サミュエル・エトーやルドヴィク・ジュリーといったフォワードにスタメンの座は譲ることが多くなったものの、途中出場でも結果を残すなどベテランの味を見せた。
シーズン途中で靭帯に重傷を負うものの、シーズン終盤に復帰。05-06シーズンにはスウェーデン代表でワールドカップ出場権を獲得するとともに、エトーやメッシーのバックアップとして活躍。
特にエトーがカメルーン代表としてアフリカ・ネーションズカップに出場するためにチームを離脱していた際にはセンターフォワードの重責を見事に担い、シーズン通算で11得点を挙げた。
そして5月17日に行われたアーセナルとのチャンピオンズリーグ決勝では途中出場にも関わらず、巧みなポストワークからエトーの同点弾とベレッチの決勝弾をアシスト。
バルセロナを優勝に導く値千金の活躍を見せた。
来シーズンからはチームを離れ故郷のクラブでかって在籍していたヘルシンボリIFと契約することを事前に明らかにしていただけに、ファンにはビッグイヤーという最高の置き土産となった。
バルセロナのサポーターはラーションのことを忘れないだろう。
2006年ドイツW杯でも中心選手として活躍し、グループリーグのイングランド戦で試合終了間際に同点弾を決めるなどしてチームは決勝トーナメントへ進出した。
決勝トーナメント1回戦の開催国のドイツとの試合ではPKを外し、チームも敗退。
7月17日、代表引退を決意した。
ハビエル・サビオラ、サミュエル・エトー、リオネル・メッシの3名のフォワードを欠くバルセロナが再獲得を目指すとの報道がなされたが、2006年12月にマンチェスター・ユナイテッドが3ヶ月間の期限付きで獲得することが発表された。
これはスウェーデン国内リーグの開催期間が4月~10月と短い点を突いた「裏ワザ」的な獲得であり、前線の駒不足に悩んでいたマンチェスター・ユナイテッドの補強となった。
デビュー戦となったFAカップ、3rdラウンドのアストンビラ戦でゴールを決めた。
1月31日のワトフォード戦でプレミアリーグでの唯一のゴールを決めた。
チームやファーガソン監督からは直接残るように要請を受けたが、退団後はヘルシンボリでプレーした。
2007-08シーズンのスウェーデンリーグでの活躍で、代表監督のラーシュ・ラーゲルベックに説得されEURO2008の同国代表に選出、代表復帰を果たした。
大会終了後には、「代表チームが必要としてくれるのであれば、引退はしない。」と、今後も代表でプレーしていく意向を示した。
2009年、南アW杯予選アルバニアと引き分け、予選敗退をもって改めて代表から引退した。
2009年11月1日、リーグ最終節のIFエルフスボリ戦をもって現役を引退。
試合終了後の引退セレモニーではマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督や元同僚のカルレス・プジョル、シャビ・エルナンデス、そしてスウェーデン代表でチームメイトだったズラタン・イブラヒモビッチから贈られたビデオレターがスクリーンに映し出され、それを観たラーションの目には涙が浮かんでいた。
エピソード
ゴール後の舌出しパフォーマンスは有名だったが本人いわく「スコットランド中の親御さんから『子供が真似するからやめて欲しい』とお叱りの手紙を頂いた」ため晩年は封印している。
2000-01シーズンにESMヨーロッパゴールデンシューを獲得した際のインタビューでリーグのレベルの低さを指摘されたことについて、「スコットランドリーグは世界一ではないかもしれないが、世界最低のリーグからはかけ離れていると思う。どこでプレーしていようとも、ストライカーの仕事は変わらない、ゴールを決めることじゃないか」と答えた。
2004-2005シーズンFCバルセロナに入団した際、最初の背番号は17だったが、同オフ中にハビエル・サビオラがASモナコにレンタル移籍したため背番号7に変更になった。
そのためジャパンツアーでは17番をつけて試合に出場していた。
引退後のインタビューで「唯一後悔していることといえば、マンチェスター・ユナイテッドに残らなかったことだ。監督、チームメイト、サポーターから信頼されていたし、もう少し残ってチームの手助けをすればよかった」と漏らしており、ファーガソンのことを「3か月しか一緒に仕事をしなかったが、私の人生にとって偉大な人だ。監督としても私の中ではベストだ」とも語っている。
プレースタイル
身長は178cmとそれほど高くないが、打点の高いヘディングや高いキープ力を活かしたポストプレー、さらには類まれなる決定力を武器に得点を量産するストライカー。
打点の高いヘディングに加え、足元の技術に優れ、安定したポストプレーから得点を生み出すバランスの良いストライカー。
当初はウイングプレーヤーであったが、セルティック移籍後にストライカーとしての才能を開花させ、欧州ゴールデンブーツにも輝いた。
タイミングの良い飛び込みと抜群の跳躍力、そして類まれな得点感覚でヘディングでのゴールを数多く挙げた。
さらには高さだけでなく、瞬発力も併せ持ちサイドに開いてプレイすることもある。
またキープ力も高く、前線でポストプレーをこなすこともできる。
両足骨折というアクシデントに見舞われたものの、復帰後は本来持っていた身体能力に加えテクニック面でも大きく向上。
世界でも有数のオールラウンドな能力を持ったストライカーである。