概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年8月29日(44歳) | ||
出身地 | コペンハーゲン | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 77kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ、センターフォワード)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ゴールの外科医」。
2000年代に活躍したデンマーク代表のストライカー。
絶妙な飛び出しとポジショニングでゴールを奪う名選手。
欧州主要4リーグ(イタリア・セリエA、イングランド・プレミアリーグ、スペイン・リーガ・エスパニョーラ、ドイツ・ブンデスリーガ)でプレーした経験のある5人目の選手となった(他4人はフロリン・ラドチョウ、ゲオルゲ・ポペスク、アベル・シャヴィエル、ピエール・ウォメ)。
獲得タイトル
クラブ
フェイエノールト
- エールディビジ:1998–99
- ヨハン・クライフ・シャール:1999
- UEFAカップ:2001–02
ACミラン
- セリエA:2003–04
- コッパ・イタリア:2002–03
- スーペルコッパ・イタリアーナ:2004
- UEFAチャンピオンズリーグ:2002–03
個人
- 1994年U-19デンマーク最優秀選手賞
- 1996年オランダ年間若手最優秀選手賞
- 2002年ワールドカップ・ブロンズブーツ(4ゴール)
- 2002年デンマーク最優秀選手賞
- 2004年UEFA EURO 2004 オールスターチーム
- 2004年デンマーク最優秀選手賞
経歴
代表歴 | |||
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1992 | ![]() |
3 | (2) |
1992 | ![]() |
8 | (8) |
1993-1995 | ![]() |
16 | (12) |
1995-1997 | ![]() |
10 | (5) |
1996 | ![]() |
1 | (0) |
1997-2010 | ![]() |
112 | (52) |
クラブ
キューゲBKの下部組織でサッカーを学び、1992年11月に16歳でトップチームに昇格でキャリアをスタート。
1994年12月、オランダのSCヘーレンフェーン移籍すると2年目にレギュラーに定着しコンスタントに得点を重ね、1996年にはデンマーク年間最優秀若手選手に選ばれた。
ヘーレンフェーンで3シーズンを過ごした後、1997年にイングランドのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍するも、リーグ戦23試合で3得点と結果を残すことは出来ず。
翌1998年にはフェイエノールトに移籍すると初年度にオランダ・リーグ優勝、2001-02シーズンのUEFAカップ決勝のボルシア・ドルトムント戦では決勝点になる3点目を挙げる活躍などで優勝に貢献した。
2002年にイタリアのACミランへ移籍。
当時のチームにはウクライナ代表のアンドリー・シェフチェンコやイタリア代表のフィリッポ・インザーギが在籍していたこともあり、スタメンでの出場は叶わなかったが、スーパーサブとしてUEFAチャンピオンズリーグ 2002-03優勝や2003-04 セリエA優勝に貢献。
トマソン自身はサッカー人生において思い出深い出来事としてフェイエノールトでのUEFAカップ優勝とACミランでのチャンピオンズリーグ優勝の双方を挙げている。
2004-05シーズン終了後にドイツ・ブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトに移籍し、2007年冬の移籍市場でスペインのビジャレアルCFにレンタル移籍。
2007-08シーズンからは完全移籍となった。
2008-09シーズンには古巣であるフェイエノールトへと復帰を果たし、2009年4月26日のADOデン・ハーグ戦でエールディビジ通算100得点を達成した。
2010-11シーズンは右足の怪我のため出場機会はなく、2011年5月に医師から「復帰までに全治3カ月かかり、その後再びピッチに立てる保証はない」と診断されたことを受けて、同年6月7日に現役引退を発表した。
代表
デンマーク代表としては1997年3月のクロアチア戦で代表デビューし、1999年6月9日に行われたUEFA EURO 2000予選のウェールズ戦で代表初得点を決めた。
UEFA EURO 2000では無得点だったが、2002 FIFAワールドカップグループリーグ第1戦のウルグアイ戦で2得点、第2戦のセネガル戦と第3戦のフランス戦で1得点ずつを決め合計4得点をあげグループ首位でのベスト16進出に貢献し、自身も大会得点ランキングの4位になった。
UEFA EURO 2004でもグループリーグ第2戦のブルガリア戦で1得点、第3戦のスウェーデン戦で2得点の合計3得点をあげベスト8進出に貢献した。
代表チームでは主将を務め精神的支柱としてチームを牽引し、2008年2月6日のスロベニアとの親善試合でポウル・ニールセンの持つ歴代最多代表通算52得点に1得点と迫ったが、選手としてのピークが過ぎていたこともあり、その後2年間近く無得点に終わった。
2010 FIFAワールドカップグループリーグ第3戦の日本戦の81分にPKから得点を決め、歴代最多得点記録に並んだが、デンマークはこの試合に1-3で敗れグループリーグ敗退。
2010年8月8日に代表からの引退を表明した。
国際Aマッチ112試合出場は歴代2位 、52得点は前述の通りポウル・ニールセンと共に歴代最多記録である。
エピソード
ある日本の個人サイトに「2002 FIFAワールドカップが開催された2002年にデンマーク代表が和歌山で合宿を行った際に、トマソンと聴覚に障害を持つ地元の少年との間で心温まる交流があった」とするエピソードが掲載され、インターネットを中心に話題となり、2006年4月に、このストーリーを綴った『少年とストライカーと約束』が双葉社より出版された。
トマソンには、聴覚に障害のある姉がいて、その結果、トマソンは手話ができるという設定だった。
しかし、2010年5月にNHKで放送された2010 FIFAワールドカップ関連番組の中で、インタビューを受けたトマソン本人が「その話は知りません。僕は手話もできないし、兄弟も姉妹もいません」と否定。
番組内で「このストーリーはフィクションでした」と結論付けた。
指導者として
2011年6月6日、ワールドカップの終了後引退をすることを表明し、2011-12シーズンからSBVエクセルシオールのアシスタントコーチに就任することが発表された。
2013年6月17日、エクセルシオールの監督に就任した。
2013年12月26日、14位で残留争いに苦しみ、ルート・ブロートをシーズン途中で解任していたローダJCからのオファーを受けて、ジュピラー・リーグ7位のエクセルシオールを去ってローダJCの監督に就任したものの、結局エクセルシオールは新監督マリヌス・ダイクハイゼンのもとで後半戦立て直しに成功し、リーグ戦3位から入れ替え戦を経て昇格に成功。
一方でローダJCは後半戦15試合でわずか勝ち点11とさらに失速し、最下位で降格。
トマソンはシーズン後に解任された。
2015年6月19日、フィテッセのアシスタントコーチに就任した。
2016年3月7日、アシスタントコーチとしてオーゲ・ハレイデ率いるデンマーク代表に復帰した。
プレースタイル
動き出しの速さ&質に定評があり、得点嗅覚に優れるFW。
高さに恵まれたFWで、足元の技術も高い。
だが最適のポジションは、センターフォワードの背後のシャドーストライカーのポジションだろう。
瞬間的なスピードとポジショニングを生かして得点を重ねたが、一方で豊富な運動量と、自ら囮となる動きで相手の守備陣を引きつけ味方の得点チャンスを生み出していた。
デンマーク代表時代の監督だったモアテン・オルセンからは「常に自分のプレーよりチームのことを優先して考える、究極のチームプレーヤー」と評されている。