概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1969年2月22日(51歳) | ||
出身地 | ドンヘルベルフ | ||
身長 | 184cm | ||
体重 | 85kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。
利き足は右。
愛称は「ミスター1000ボルト」、「ワイルド・ボア(野生の猪)」。
1990年代に活躍したベルギー代表のアタッカー。
1990年代後半から2000年代前半にかけてベルギー代表の中心選手だった。
シャルケなどで活躍しUEFAカップ制覇に貢献した。
獲得タイトル
クラブ
KVメヘレン
- ベルギー・ファースト・ディビジョン:1988–89
- 欧州スーパーカップ:1988
- アムステルダム・トーナメント:1989
- ジュール・パパートカップ:1990
スタンダールリエージュ
- ベルギー・カップ:1992–93
- インタートトカップ:1996年(準優勝)
シャルケ04
- UEFAカップ:1996–97
- DFPポカール:2001-02
代表
ベルギー
- FIFAフェアプレートロフィー:2002年ワールドカップ
個人
- 年間最優秀若手選手:1989-90
- 海外ベストベルギーサッカー選手:2001、2002
- ベルギースポーツ功労賞:2002
- FIFAワールドカップの参加:1990、1994、1998、2002
- FIFAフェアプレートロフィー:2002年ワールドカップ
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1985-1988 | ![]() |
30 | (9) |
1988-1991 | ![]() |
87 | (22) |
1991-1996 | ![]() |
136 | (67) |
1996-2000 | ![]() |
104 | (21) |
2000-2001 | ![]() |
30 | (8) |
2001-2003 | ![]() |
34 | (6) |
通算 | 421 | (133) |
代表歴 | |||
---|---|---|---|
1990-2002 | ![]() |
70 | (28) |
クラブ
85/86シーズンにシン・トルイデンというチームでプロデビューを果たすと、着実に成長を遂げる。
87/88シーズンには9ゴールを挙げる活躍を見せ、当時、積極的な補強策を進め、成功を収めていたKVメヒェレンに引き抜かれる。
KVメヒェレンでは、オランダ人のヨン・ボスマンやエルウィン・クーマンと共に活躍。
89/90シーズンには、実に41年ぶりの優勝を果たし、ヴィルモッツもベルギー国内有数のプレイヤーとして認められる。
91/92シーズンからは、名門スタンダード・リエージュに活躍の場を移すと、さらに大きく飛躍する。
92/93シーズンには22ゴールを挙げるなど、在籍した5シーズン全てで二桁ゴールを挙げた。
ベルギーでの活躍が大きく評価され、1996年にドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04に移籍した。
シャルケは当時、ヴィルモッツの他にトーン、ネメチ、ムルダー、マックス、デ・コック、ラタル等の仕事人が在籍する超いぶし銀集団であった。
このシーズン、国内リーグでは16位と振るわなかったが、UEFAカップでは強豪を次々倒し決勝進出を果たす。
決勝の相手はスター軍団のインテルであった。
スター軍団と仕事人軍団との対戦という異色の決勝カードは、下馬評はインテルの圧倒的有利であった。
しかし、ヴィルモッツを中心としたシャルケは、見事なサッカーでインテルを下し、チームに栄冠をもたらした。
移籍1年目からクラブをUEFAカップ優勝に導き、その後のシャルケの躍進の立役者の一人となった。
そしてシャルケの「顔」として君臨。
そのプレースタイルは労働者の町であるルール地方の人々にこよなく愛されたが、残念ながらチームの成績は振るわなかった。
ただ、その闘争的なプレースタイルからサポーターに愛され、「ミスター1000ボルト」の愛称で呼ばれた。
世界的な知名度は低かったものの、ヨーロッパではその名を広く知られ、負けず嫌いな性格と試合時に見せる闘争心から、「ワイルド・ボア(野生の猪)」の異名でも知られた。
00/01シーズン、シャルケのフロントは一つの決断を下す。
チームの顔であるヴィルモッツを放出し、ルール地方のライバル、ボルシア・ドルトムントのスターであるメラーを獲得した。
シャルケとドルトムントのライバル意識は凄まじく、ヴィルモッツを放出し、メラーというライバルチームのエースを獲得することに、サポーターは大きく抗議した。
しかしこのシーズン、皮肉にもシャルケはメラーを中心に躍進を遂げる。
バイエルンに優勝はさらわれたが、シーズン2位という好成績を収めた。
一方、ヴィルモッツはボルドーでもその果敢なプレーで人気を博す。
8ゴールを挙げると共に、パウレタの得点王獲得に大きく貢献。
チームも4位という好成績を収めた。
フランスでも成功を収めたヴィルモッツであったが、翌01/02シーズンには、フロントがサポーターの声を聞き入れる形でシャルケに復帰することとなった。
その後2シーズンシャルケでプレー。
02/03シーズンの終盤にはプレーイングマネージャーも務めたが、このシーズンの終了後にサッカー界から引退をした。
代表
ヴィルモッツの代表デビューは1990年5月のルーマニア戦だった。
1990年ワールドカップイタリア大会のメンバーにも選ばれたが出場機会は無く、ワールドカップ初出場は1994年の1994年アメリカ大会であった。
1994年当時のベルギー代表はまだエンツォ・シーフォが中心選手で、ヴィルモッツはポジションを奪うに至らず、決勝トーナメント進出の決まっていたサウジアラビア戦 (0-1) に出場したのみであった。
その後ヴィルモッツはチームの中心選手となり、1998年ワールドカップフランス大会ではメキシコ戦で2ゴールを挙げた。
しかし開催国として臨んだユーロ2000ではチームはグループリーグ敗退に終わった。
ワールドカップとユーロの2大タイトルで開催国が決勝トーナメントに進めなかったのはこの大会のベルギー代表が史上初のチームであり、中心選手であったヴィルモッツも大きな批判を浴びた。
2002年ワールドカップ日韓大会の欧州予選では8ゴールを挙げてベルギーの予選突破に大きく貢献した。
特にプレーオフのチェコ戦では出場権をほぼ確実にするペナルティーキックを決めた。
本大会のグループリーグH組では、日本戦・チュニジア戦・ロシア戦の全てでゴールを挙げ、ベルギーのグループリーグ突破の立役者となった。
このうち日本戦での先制点は、オーバーヘッド・キックで放ったものであり、日本のサポーターを沈黙させた。
決勝トーナメント1回戦のブラジル戦は善戦したが0対2で敗れた。
この試合でヴィルモッツは前半36分に幻の先制ゴールを挙げたが、ファウルの判定となり得点は認められなかった。
ヴィルモッツによると、試合中のハーフタイムに主審が誤審であったと謝罪したという。
ブラジル戦の後のインタビューで誤審について聞かれると「サッカーというのは審判のジャッジを含めてサッカーだからね、何も気にしてないよ」と発言。
さらに男を上げました。
このワールドカップ日韓大会をもってヴィルモッツはベルギー代表から引退した。
チームの精神的支柱であり得点源でもあった彼の引退後、ベルギーはユーロ2004、2006年ワールドカップドイツ大会のどちらも予選敗退に終わるなど、国際舞台からはしばらく遠のくこととなった。
エピソード
日韓ワールドカップで対戦した日本代表の主将・森岡隆三は、後に「他のベルギーの選手は自分たちでも互角に戦えると思ったが、ヴィルモッツだけは次元の違う動きをしていた。これが『本気になった世界レベルの選手』だと実感した」と語っている。
ベルギー代表チーム内では「Willy (ウィリー)」のニックネームで呼ばれた。
また、かつての所属チーム、シャルケ04のサポーターからは、その負けず嫌いな性格から「負けず嫌いのWilly」、ユニフォームが泥で真っ黒になるまでピッチを駆けずり回るヴィルモッツの敢闘精神から「戦う豚」と呼ばれていた。
ゴルフが趣味で代表仲間とよくプレーをする。
指導者として
現役最終年の2003年3月にシャルケ04の暫定監督を務めた。
2004年からは古巣のシント=トロイデンVVの監督に就任したが、翌年2月に解任された。
その後は同国の国会議員となり政治の舞台に活動の場を移したものの、2005年に辞職している。
2009年からはジョルジュ・レーケンス監督率いるベルギー代表のアシスタントコーチを務めた。
レーケンスが2012年に退任すると、ヴィルモッツが後任監督に就任した。
2013年10月11日、ワールドカップブラジル大会の欧州予選でクロアチア戦に勝利し、自身が選手として出場した2002年日韓大会以来3大会ぶりにベルギー代表をワールドカップ本大会出場へ導いた。
就任当時FIFAランキング54位だったチームを4年間で史上8か国目となるランキング1位(2015年11月)へ引き上げ、2018年ワールドカップロシア大会までの契約を結んでいたが、ユーロ2016でベスト8と期待外れの結果に終わり、2016年7月15日に契約解除が発表された。
2017年3月21日、コートジボワール代表の監督に就任した。しかし就任以降の6試合で1勝しか挙げることができず、チームはワールドカップロシア大会のアフリカ3次予選で敗退したため、2017年11月にコートジボワール代表監督を辞任した。
2019年5月、イラン代表の監督に就任した。
プレースタイル
ベルギーサッカー史上最高の選手として評される天才エンツォ・シーフォの後を継ぎ、司令塔として活躍した選手。
とは言っても、プレースタイルはシーフォとは全く異なり、テクニック、創造性を売りにした天才肌の選手ではなく、フィジカルの強さ、運動量、そして闘争心をむき出しにして戦うファイターである。
長短のパスやドリブルでチャンスを作り、自らも相手ゴールを射抜きます。
また、強靭な体躯と無尽蔵のスタミナ、あふれる闘志で「ミスター1000ボルト」の異名を持ちます。
強いフィジカルと豊富な運動量、そして、強烈なキャプテンシーでベルギーを牽引するカリスマ的選手。
そのプレースタイルは闘争心をむき出しにして戦うまさにファイター。
ヴィルモッツは紹介されるたびに、テクニックの無い選手のように言われますが、決して雑な選手ではなく、実はテクニックもなかなかのものでした。(シーフォと比べるともちろん数段落ちますが・・・)
ただ、あまりにも猛烈なプレースタイルの印象が強いためそう思われているのだと思います。