概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1957年2月28日(63歳) | ||
出身地 | リール |
身長・体重 | 191cm、81kg |
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ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ、左ウイング)。
利き足は左。
愛称は「Caje」、「 Sterke Jan (Strong Jan)」。
豊富な運動量と闘志溢れるプレーでチームの精神的支柱だったアタッカー。
記録が破られるまでベルギー代表最多となる96試合出場記録を持つ1980年代のベルギーを代表する選手である。
2004年3月にペレが選ぶ偉大な選手125人(FIFA100)の一人に選出された。
獲得タイトル
クラブ
クラブ・ブルッヘ
- ベルギー1部:1979年-1980年、1987年-1988年、1989年-1990年
- ベルギーカップ:1985年-1986年、1990年-1991年; ランナーアップ:1978年-1979年、1982年-1983年
- ベルギースーパーカップ:1980、1986、1988、1990、1991
- ジュール・パパートカップ:1978、1991
- ブルージュ・マティンズ:1979、1981、1984、1990
- ジャパンカップ・キリンワールドサッカー:1981
- アムステルダム・トーナメント:1990
代表
ベルギー
- UEFA欧州選手権:1980年(準優勝)
- FIFAワールドカップ:1986(4位)
- ベルギースポーツ功労賞:1980
個人
- マン・オブ・ザ・シーズン(ベルギー・ファースト・ディビジョン):1979-80、1982-83、1985-86
- ベルギーのゴールデンシュー:1980、1985、1986
- ベルギーサッカー選手・オブ・ザ・イヤー:1984、1985、1986
- ベルギーフェアプレー賞:1986
- ベルギースポーツ功労賞:1990
- 20世紀のベルギーゴールデンシュー(1995):2位
- 最高のゴールデンシューチーム(2011)
- ベルギーで最もキャップのある選手:1989-2017(96キャップ)
- UEFA欧州選手権チーム・オブ・ザ・トーナメント:1980
- バロンドール5位:1980
- バロンドールのノミネート:1981 、1985 、1986
- Onze de Bronze:1981
- FIFAワールドカップオールスターチーム:1986
- ワールドサッカーマガジンワールドXI:1990
- FIFA 100(2004)
- フットボールタイムズトップ50レジェンド(2017)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1974-1978 | ![]() |
110 | (39) |
1978-1992 | ![]() |
407 | (191) |
代表歴 | |||
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1977-1990 | ![]() |
96 | (23) |
クラブ
クラブでは選手生活の大半をクラブ・ブルッヘで過ごし、13年間在籍した。
国際舞台での活躍により、イタリアのACミランから高額のオファーを掲示されたが、これを固辞しベルギー国民から支持をされる事になった。
代表
ギー・ティス監督の下で中心選手として1980年のUEFA欧州選手権1980準優勝。
1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では前回優勝国のアルゼンチンを下し2次リーグ進出。
ベルギーはダークホース的な存在でしたが、固い守備から鋭いカウンターで決勝まで勝ち上がります。
クーレマンスはこの大会の活躍で一躍有名になりました。
この大会の優秀選手投票では、優勝した西ドイツのルンメニゲに次ぐ2位にランクされています。
1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では準々決勝スペイン戦では1-1で引き分けPK戦の末に勝利したが、その先制点をあげたのはクレーマンスだった。
ゲレツ、ベルコーテルンと繋ぎ最後はクレーマンスが、華麗にダイビングヘッドを突き刺した。
同国最高成績のベスト4進出と、これらの成功に携わった。
またメキシコ大会では、準々決勝のスペイン戦でダイビングヘッドを決めるなど、3得点を記録した。
3ゴールをあげたこともさることながら、そのキャプテンシーでチームを鼓舞し続け、小国だったベルギーを世界に知らしめた。
1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会にも出場し、3大会連続出場を果たしが、決勝トーナメント1回戦でイングランドに延長戦の末0-1で敗退。
この後、代表から引退をした。
82、86、90年のワールドカップに3大会連続で出場しておりベルギー代表96試合は同国の出場記録である。
エピソード
端正な顔立ちで非常に人気が高かった。
監督業
膝の負傷の影響の為、1992年に現役引退した後にKSCエーントラハト・アールストの監督に就任。
クラブのUEFAカップ予選出場とジュピラーリーグ昇格に導くと、1998年にKVCウェステルローの監督に就任、6年間指揮を執り、2001年にはベルギーカップを獲得、UEFAカップ出場に導いた。
2005年には選手時代を過ごしたクラブ・ブルッヘの監督に就任した。
しかし、成績不振の為に2006年4月に解任。
翌2007年からはKVCウェステルローの監督に復帰している。
プレースタイル
プレースタイルは大型で戦術眼が鋭く、中盤でパスもさばきチャンスメイカーとしても一流だが、前線に出ると高い決定力を持ち合わせ、精神的支柱としてもチームを鼓舞をし続けた、当時ベルギー最高のストライカー。
強靭なフィジカルと長身で空中戦に強くドリブル突破と得点力が魅力の選手。
運動量もありサッカーをよく知る賢い選手だった。
基本的な技術が高く、そのキックの精度からのフリーキックも武器の一つ。
闘志とリーダーシップもあるのでキャプテンとしても活躍した。
長身なので言うに及ばずヘディングは強く、大柄な割には足もそこそこ速くて、左サイドから長いドリブルでカウンターの主役になることもあったぐらいです。
中盤に下がってプレーすることもあり、運動量は豊富で守備もそつなくこなす万能な面もありました。