アレックス・ジェームズ

サッカー

概略

 

生年月日 1901年9月14日
出生地 モセンド、ラナークシャー、スコットランド
没年月日 1953年6月1日(没51歳)
死亡地 ロンドン、イギリス

身長168cm、体重70kg。

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

1920年代から1930年代にかけて活躍したスコットランド代表の司令塔。

 

アーセナルで一時代を築き1930年から1936年に6つのトロフィーを獲得しアーセナルの黄金期の中心選手だった。

 

2005年に英国サッカー殿堂入りしました。

 

獲得タイトル

クラブ

アーセナル

  • 1部:優勝 1930-1931、1932-1933、1933-1934、1934-1935
    • 準優勝1931–32
  • FAカップ:優勝 1929-1930、1935-1936
    • 準優勝1931–32

個人

  • イングランドサッカー殿堂:2005
  • スコットランドのフットボールの殿堂:2005
  • レイスローバーの殿堂:2013

 

経歴

 

クラブ
チーム 出場 得点
ベルシルアスレチック
アッシュフィールド
1922〜1925 レイスローバーズ 98 (27)
1925〜 1929年 プレストンノースエンド 147 (53)
1929〜1937 アーセナル 231 (26)
合計 476 (106)
代表歴
1925〜 1932年 スコットランド 8 (3 )

 

スコットランド生まれで、デイビッド・ジャックほどではないものの8700£という当時しては非常に高額の移籍金でプレストンからアーセナルに移籍した。

 

アレックス・ジェームズはアーセナルで名将ハーバート・チャップマンのもと活躍した。

 

チャップマンによる革新的な戦術(WMフォーメーション)やトレーニング法の導入やクリフ・バスティン、デイビッド・ジャックといったスター選手との連携は素晴らしく、1930年代にアーセナルがイングランドサッカーを支配する礎となった。

 

チャップマンの下で1929-30シーズンに初のFAカップ優勝、1930-31シーズンに初のフットボールリーグ優勝を果たす。

 

その後ジェームズはアーセナルで数々のトロフィーを獲得し一時代を築いたが、この無敵のチームの中心はジェームズだった。

 

この時期のアーセナルは無敵の強さを誇りサッカー界を席巻し、チャップマンの採用した戦術は世界のスタンダードとなっていく。

 

エピソード

 

1939年の夏、ジェームズはポーランドサッカー協会(PZPN)の招待を受けてポーランドに行きました。

 

彼はそこで6週間過ごし、ポーランドのコーチJózefKałużaと代表チームのメンバーを指導しました。

 

彼らに現代の戦術を教え、いくつかのトレーニングセッションを主導しました。

 

戦後、彼はジャーナリストになり、サッカー賭博大会も運営しました。

 

FAカップ

 

1927年、アーセナルが初めてFA杯決勝に進出し、史上初めてBBCラジオで放送されることとなった1927年の決勝で敗北したのはチームにとっては大きな落胆のもととなり、ミスをしたGKのダン・ルイスはのちにこれをGKユニフォームのせいにし、アーセナル側がユニフォームは新品ではなく試合前に一度は選択されると主張する、という事態にまで発展した。

 

1930年のFA杯ではアーセナルはチェルシー、バーミンガム・シティ、ミドルズブラにウエストハムを破り、準決勝のハル・シティ戦にたどり着いた。

 

当時ハルは二部の最下位でアーセナルの勝利は揺るがないと見られていたが、なんとアーセナルは2-0のリードを許してしまう。

 

だが、後半何とかアーセナルは同点に追いつき、再試合の権利を勝ち取った。

 

アーセナルがこの準決勝再試合を勝ち抜けたのはデイビッド・ジャックのおかげだった。

 

ハルのアーサー・チャイルズが選手に蹴りを入れたことで退場になった(1930年代に退場になるとは、どれくらい強烈なキックをお見舞いしたのだろうか)が、この判定にスタジアムにはブーイングが渦巻いたらしい。

 

とはいえ、この雰囲気と守備にも負けず、アーセナルは何とか史上二度目の決勝へのチケットを勝ち取った。

 

決勝の相手はチャップマンがアーセナルの前に率いていたハダースフィールドタウン、というお似合いの舞台だった。

 

彼らはチャップマンのもと3連覇も達成しており、1922年に一足早くFA杯も優勝していた。

 

1930年4/26日、ウェンブリースタジアムで行われた試合は、TV放送される5番目の試合だった。

 

アーセナルのキャプテン、トム・パーカーとハダースフィールドのトム・ウィルソンがチームを率いて2列に並んでピッチに現れた。

 

これは当時は一般的なものではなかったが、チャップマンの偉業をたたえて行われたもので、この習慣は今も残っている。

 

92488人が見守る前で、当時の英国王ジョージ5世が2チームにあいさつを行ったが、それよりも目立ったのは試合中に空を横切った200m以上あるドイツの飛行船、グラフ・ツェッペリンだった。

 

アーセナルは

1 チャーリー・プリーディ
2 トム・パーカー(キャプテン)
3 エディー・ハップグッド
4 アルフ・ベイカー
5 ビル・セドン
6 ボブ・ジョン
7 ジョー・ハルム
8 デイビッド・ジャック
9 ジャック・ランバート
10 アレックス・ジェームズ
11 クリフ・バスティン

 

というメンバーをWMフォーメーションで起用して決勝に臨んだ。

 

 

この試合の17分にはのちの逸話では、ウェンブリー行きのバスの中で思いついたとされる、トリックFKがさく裂した。

 

バスティンはロングシュートが得意なことで有名だったため、まずフリーキックからジェームズが短い距離のボールをバスティンに渡すことで、相手DFがバスティンに向かって殺到しかけた所でフリーになったジェームズにバスティンがボールを返すというものだ。

 

時間もスペースも与えられた名パサーのジェームズはこれにより自由にプレイすることが出来、ここから彼が点を決めた。

 

これ以降は前がかりになった相手にアーセナルが効果的にカウンターを繰り出すことができた。

 

83分には低い位置でボールを拾ったジェームズがハダスフィールド陣の裏へロングボールを放ち、これに追いついたジャック・ランバートが試合を決める2点目を挙げることに成功した。

 

この結果、アーセナルが史上初のタイトルを獲得し、この後は黄金時代が続くことになる。

 

実は1929/30シーズンアーセナルのリーグ順位は14位だったのだが、この優勝がチームに必要不可欠な自信を与えたのだ。

 

この次のシーズンアーセナルは初のリーグ優勝を果たすことになる。

 

このあとの5年間でなんと4度のリーグ優勝を果たし、1936年には再びFA杯も優勝した。

 

 

プレースタイル

 

彼は稀代の司令塔・プレイメイカーとして知られています。

 

ジェームズは、創造的なミッドフィールダーとして高いレベルのフットボールの知性、卓越したボールコントロールと最高のパスの名手として有名でした。

 

魔法のようなボールタッチと素晴らしいパスを持ち、そのボール捌きは当時を知る人はベルカンプのようだった、と振り返っています。

 

トム・フィニーは彼のプレーを「インスピレーション」と「純粋な魔法」と表現しました。

 

ベルカンプ、ロシツキー、エジルと今まで脈々と受け継がれるアーセナルのロマンチック・ファンタジスタの元祖といってもいい存在かもしれません。

 

得点数と違い、アシスト数は当時の正確な記録が残っていないため数は分かりませんが、30年代のアーセナルが毎年のように100点以上を記録していたことを考えると、恐らく彼が歴代最多アシスト記録を持っているのではないでしょうか。

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