マーク・ヒューズ

サッカー

概略

Mark Hughes, Sparky [Best Goals]
国籍 ウェールズの旗 ウェールズ
生年月日 1963年11月1日(57歳)
出身地 レクサム
身長 178cm
体重 75kg

 

ポジションはフォワード(センターフォワード)。

 

利き足は右。

 

スパーキーの愛称で親しまれた。

 

マンチェスター・ユナイテッドのアカデミー出身でファンのアイドル。

 

クラブの歴史に名を残すウェールズ代表の偉大なストライカー。

 

1992-93シーズンに長い間低迷を続けたマンチェスター・ユナイテッドを26年ぶりのリーグ制覇に導いた立役者の一人である

 

マンチェスター・U復活のシンボル、それはこのマーク・ヒューズである。

 

獲得タイトル

クラブ

マンチェスター・ユナイテッド
  • FAプレミアリーグ 2回 (1992-93, 1993-94)
  • FAカップ 3回 (1984-85, 1989-90, 1993-94)
  • FAリーグカップ 1回 (1991-92)
  • FAチャリティーシールド 2回 (1993, 94)
  • UEFAカップウイナーズカップ 1回 (1991-92)
  • 欧州スーパーカップ:1991
チェルシー
  • FAカップ 1回 (1996-97)
  • FAリーグカップ 1回 (1997-98)
  • UEFAカップウイナーズカップ 1回 (1997-98)
ブラックバーン・ローヴァーズ
  • FAリーグカップ 1回 (2001-02)
  • フットボールリーグ第1部準優勝:2000–01

個人

  • PFA年間最優秀選手賞 2回 (1989, 1991)
  • PFA年間最優秀若手選手賞 1回 (1984)
  • 大英勲章(1997年)
  • PFAファーストディビジョンチームオブザイヤー:1985–86、 1988–89、 1990–91、 1991–92
  • サーマットバスビープレーヤーオブザイヤー:1990–91
  • チェルシー年間最優秀選手:1996–97
  • イングランドサッカー殿堂
  • BBCウェールズスポーツパーソナリティオブザイヤー:2002

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1980-1986 イングランドの旗 マンチェスター・U 89 (37)
1986-1987 スペインの旗 FCバルセロナ 28 (4)
1987-1988 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン (Loan) 18 (6)
1988-1995 イングランドの旗 マンチェスター・U 256 (83)
1995-1998 イングランドの旗 チェルシー 95 (25)
1998-2000 イングランドの旗 サウサンプトン 52 (2)
2000 イングランドの旗 エヴァートン 18 (1)
2000-2002 イングランドの旗 ブラックバーン 50 (6)
通算 606 (164)
代表歴
1984-1999 ウェールズの旗 ウェールズ 72 (16)

 

1978年3月、ヒューズは14歳のときにユナイテッドと学生契約を交わした。

 

しかしその当時、このウェールズのレクサム出身の少年が、クラブの歴史に名を残す偉大な点取り屋になると予想した者はほとんどいなかっただろう。

 

ヒューズのストライカーとしての才能を見出したのは、ユナイテッドのユースチームを指導していたシド・オーウェンだった。

 

1983年にトップチームと契約を結んだ。

 

スパーキー(ヒューズの愛称)は1983年11月のオックスフォード戦で初ゴールを決め、その6カ月後にはウェールズ代表デビューを果たし、イングランドを相手にゴールを奪った。

 

1985年には、チームのFAカップ優勝に貢献し、イングランド・プロサッカー選手協会(PFA)の年間若手最優秀選手に選ばれた。

 

しかし、契約を巡ってクラブと対立し、1年後にはエヴァートンFC所属のガリー・リネカーと共にテリー・ヴェナブルズ監督率いるバルセロナへ移籍することになった。

 

だが、バルサではチームに馴染めず、結果を残すリネカーとは違い、ヒューズ本人も、28試合の出場で4ゴールに終わったカンプ・ノウへの移籍は、「最悪だった」と語っている。

 

1987年からバイエルン・ミュンヘンへ期限付きで移籍したが、ヒューズはそこで得点感覚を取り戻し、翌1988年7月にアレックス・ファーガソン監督率いるユナイテッドに、150万ポンドで復帰した。

 

ヒューズは復帰1年目から見事な活躍を見せ、イングランド・プロサッカー選手協会(PFA)の年間最優秀選手に選出された。

 

クリスタル・パレスと対戦した1990年のFAカップ決勝では、2ゴールを決めてゲームを再戦に持ち込む活躍を披露した。

 

ユナイテッドは再試合で優勝を果たし、ファーガソン監督はユナイテッドで初のトロフィーを獲得することになった。

 

1991年にはロッテルダムで開催されたカップウィナーズカップ決勝で古巣のバルセローナと対戦し、ヒューズはチームを2-1の勝利に導く2ゴールをマークし、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

 

また同年には、再びイングランド・プロサッカー選手協会(PFA)の年間最優秀選手賞を受賞した。

 

1992年にはユナイテッドのクラブ史上初となるリーグカップの優勝に貢献し、翌1993年には26年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。

 

ヒューズはフランス人のエリック・カントナと攻撃のコンビを組み、ユナイテッドの黄金時代を形成したが、スパーキー本人も後年、「カントナによって私のサッカー人生は変わった」と述べたほどだった。

 

プレミアシップの初代王者に輝いたクリスタル・パレス戦で決めたゴールは、ヒューズにとってリーグ通算100得点目だった。

 

ファーガソン監督は「私が出会った中で最高の選手」とヒューズを絶賛したが、1994年のFAカップ準決勝では、その言葉が決して誇張されたものではないことが証明された。

 

オールドハムと対戦したユナイテッドは、ロスタイムのヒューズのボレーシュートによって敗戦を免れると、再試合で勝利を手にした。

 

チェルシーとの決勝でも、ヒューズはチームの3点目を決め、4-0の勝利に貢献。

 

優勝を果たしたユナイテッドは、クラブ史上初となるリーグと国内カップのダブル(2冠)を達成した。

 

しかし、94/95シーズン途中に新進気鋭のストライカー、アンディ・コールがニューカッスル・Uより加入する。

 


これによって出場機会が減り、シーズン終了後に移籍を決意する。
(この年と翌年に、カンチェルスキスやブルースなどのベテランが一気に放出され、マンチェスター・Uは新しい時代を迎える。)

 

移籍先に選んだのは、ルート・グーリット率いるチェルシーであった。

 

96/97シーズンはボスマン判決により、ヨーロッパ内の移籍が自由となり、チェルシーは他にゾラ、ヴィアリ、ディ・マッテオを獲得し、強力な補強を進めていた。

 

1995年1月、ヒューズは子どもの頃から憧れていたチェルシーへ移籍。

 

チェルシーは当時では非常に珍しい、ローテーションシステムを採用しており、そのチームの中でベテランの力を充分に発揮した。

 

チェルシーではジャンフランコ・ゾラらと共に1997年に自身4度目となるFAカップ、1998年に自身2度目のカップウイナーズカップ優勝に貢献した。

 

その後、サウサンプトン、エヴァートンへ移籍し、現役最後のチームとなったブラックバーンではリーグカップを獲得し、38歳でユニフォームを脱いだ。

 

ウェールズ代表としては1984年から1999年の間に国際Aマッチ72試合に出場し16得点を記録し、1999年からは代表監督も兼任して務めたが、FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権などの国際大会への出場は叶わなかった。

 

エピソード

Top 5 Mark Hughes Volleys

監督経歴

 

2002年に引退後は、ひき続きウェールズ代表監督を務め、UEFA欧州選手権2004予選では、同年10月22日に敵地のナポリで行われたイタリア戦において強豪を相手に2-1で下すなどの手腕を発揮し、最終的にグループ2位でプレーオフ進出へと導いた。

 

しかし2003年11月に行われたプレーオフでは2試合合計0-1のスコアでロシアに競り負け本大会への出場は成らなかった。

 

次ぐFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選においても引き続き指揮を執ったが、第1戦のアゼルバイジャン戦、第2戦の北アイルランド戦を共に引分けると2004年9月に監督を辞任し、古巣のブラックバーン・ローヴァーズの監督に就任した。

 

2004年9月に前任のグレアム・スーネス監督がボビー・ロブソン監督を解任したニューカッスル・ユナイテッドFCの後任監督に就任するために辞任したことを受けて、シーズン途中からブラックバーンの監督に就任した。

 

フォーメーションは4-4-2を採用してデビッド・ベントリーやモアテン・ガムスト・ペデルセンによるサイド攻撃を活かす半面、中盤のボランチに運動量を求めて攻守のリズムを生みだした。

 

1年目の2004-05シーズンに強固なディフェンスを植え付けて下地を作るとFAカップで40年ぶりに準決勝進出、2005-06シーズンには攻撃面を強化して6位で。

 

UEFAカップ出場権を得た。

 

2006-07シーズンにはクレイグ・ベラミー、ポール・ディコフらが退団したが、代わりに南アフリカ代表ベネディクト・マッカーシーやシャバニ・ノンダらを獲得。

 

同シーズンはUEFAカップとの日程の兼ね合いに苦労し、リーグ戦は10位という結果に終わったがFA杯ではベスト4に進出した。

 

また、マッカーシーが18得点をあげ得点ランク2位となるなど前述の退団者の穴を埋める以上の活躍を見せた。

 

ヒューズ自身も2007年10月にはプレミアリーグ月間最優秀監督賞を受賞した。

 

2007-08シーズンはバイエルン・ミュンヘンからパラグアイ代表FWロケ・サンタクルスが加入。

 

ヒューズはサイド攻撃を強化させ「ヨーロッパ・カップに出場する常連クラブを目指す」という目標を掲げた。このシーズンには移籍初年度のサンタクルスが19得点(得点ランク4位)、マッカーシーが8得点と攻撃陣を牽引しリーグ戦で7位となり再びUEFAカップ出場権を獲得した。

 

2008年6月、マンチェスター・シティFCがヒューズ獲得に動き、契約途中であったため違約金をブラックバーンに支払う形で退団が決定した。

 

ブラックバーンでは約4シーズン指揮を執り安定した成績をもたらした。

 

なお、ヒューズの後任にはマンチェスター・ユナイテッド時代の同僚であるポール・インスがプレミアリーグ初となる黒人監督として就任した。

 

2008年6月2日、スヴェン・ゴラン・エリクソンの後任として、マンチェスター・シティFCの監督に就任した。

 

マンチェスター・シティでの1シーズン目は10位に終わるものの、2シーズン目となった2009-10シーズンは大型補強もありアーセナル、チェルシーに勝利。

 

第17節の時点でリーグ最少の2敗に留めるなど好調を維持したが、7試合連続の引き分けもあり、サンダーランド戦の試合ハーフタイムに解任を告げられた。

 

この解任について選手時代にヒューズを指導したアレックス・ファーガソンは

 

このような行為は受け入れられない。20試合くらい負けていたのであれば構わないがヒューズの場合はわずか2試合だ。物事にはやり方というものがある。— ヒューズの解任について、アレックス・ファーガソン

 

とマンチェスター・シティ側の対応を批判した。

 

2010年7月29日、リバプールFCの監督に就任したロイ・ホジソンの後任としてフラムFCの監督に就任した。

 

契約期間は2年。

 

2010-11シーズンを8位(11勝16分11敗)の成績で終え、シーズンを通じて退場者を1名出したのみだったことからUEFAフェアプレーランキングで2位となり、同ランキング1位のチェルシーFCがUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得していたこともあり、UEFAヨーロッパリーグ予選の出場権を獲得したが、2011年6月2日に同月末で監督を退任する意向を表明した

 

2012年1月より、クイーンズ・パーク・レンジャーズFC監督に就任したが、11月に成績不振のため解任された。

 

2013年5月30日、トニー・ピューリス監督の後任としてストーク・シティFC監督に就任した。

 

ストークは移籍市場ではたった620万ポンド(約11億円)しか投資していないにもかかわらず、2013-14シーズンは当時クラブ史上最上位となる9位でシーズンを終えるなど、クラブ首脳陣からはその手腕が高く評価された。

 

2015年3月28日、ストーク・シティと新たに4年契約を結んだことを発表した。

 

期間は2019年夏までとなっている。

 

2017-18シーズンはチームが降格圏に沈んだことを受けて2018年1月6日をもって解任された。

 

2018年3月14日、選手時代に所属したサウサンプトンFCとシーズン終了までの契約で監督に就任した。

 

2017-18シーズンは最終的にチームを残留に導いた。

 

翌2018-19シーズンは14節終了時点でわずか1勝、18位と降格圏に低迷したため、12月3日解任が発表された。

 

プレースタイル

Mark Hughes – Sparky's Dream [Best Goals]
Mark Hughes for Manchester United

前線で体を張ったポストプレーと強烈なシュート、そして前線からの凄まじいまでの守備が彼のプレースタイルであった。

 

典型的なイギリススタイルのセンターフォワードと言える。

 

どんな場所からでもダイレクトにゴールを陥れる。

 

屈強な体を生かした巧みなポストプレー、豪快なシュートが特徴でサポーターからスパーキーの愛称で親しまれた。

 

80年代、まだマンチェスター・ユナイテッドがリバプールの後塵を拝していた頃、マーク・ヒューズは確実なプレイで、ゴールを重ねて一人、気を吐いていた。

 

特に技巧派ではないが、不思議とボールが彼に集まってくる、という稀なタイプのプレイヤーであった。

 

フィジカルが強く、どんな体勢であってもボールをゴールに飛ばす術には人一倍、長けていた。

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