概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1932年10月27日 | ||
出身地 | トーバーモア | ||
没年月日 | 2020年2月16日(87歳没) |
身長183cm、体重83kg。
ポジションはゴールキーパー。
利き足は右。
1950年代から1960年代にかけて活躍した北アイルランド代表のゴールキーパー。
マンチェスター・ユナイテッドの守護神として活躍した。
悲惨な飛行機事故として知られるミュンヘンの悲劇の英雄とされており、軽症で済んだグレッグは負傷者の治療をした。
獲得タイトル
個人
- FIFAワールドカップオールスターチーム:1958
- FIFAワールドカップベストゴールキーパー:1958
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1952-1957 | ![]() |
94 | (0) |
1957-1966 | ![]() |
210 | (0) |
1966-1967 | ![]() |
2 | (0) |
代表歴 | |||
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1954-1964 | ![]() |
25 | (0) |
リンフィールドのリザーブチーム、ウィンザー・パーク・スウィフツでキャリアをスタートさせる。
コールレーンを経て、18歳の時にアイリッシュ海を渡りドンカスター・ローヴァーズに加入。
1957年12月、マンチェスター・ユナイテッドに23,000ポンドで移籍。
これはGKの移籍金としては当時最高であった。
マンチェスター・ユナイテッドでは1957年12月21日のレスター・シティ戦でデビュー。
マット・バスビー監督の下247試合に出場し、48のクリーンシートを達成した。
1958年2月6日に起きた、多くのチームメイトが犠牲となったミュンヘンの悲劇では、ユーゴスラビアの外交官の母娘やバスビー監督を救出し、ミュンヘンの英雄と称された。
1963年のFAカップ決勝では肩の負傷の為にベンチ入り出来ず、その後もケガの連続でチームが優勝した1964–65、1966–67シーズンも満足にプレーすることは出来なかった。
1967年夏にストーク・シティに移籍し、1年で引退した。
北アイルランド代表では25試合に出場。
1958 FIFAワールドカップでは4試合全てに出場、ベストイレブンに選出された。
エピソード
1958年2月にミュンヘンで起こった飛行事故の生存者だったグレッグは、鼻血程度で済み、一度は機内から脱出したものの、負傷者を助けるために再び機内へと戻った。
20ヶ月の子供、妊娠した女性を救い、マット・バズビーに蘇生術を続けた。
指導者として
1968年、シュルーズベリー・タウンの監督に就任。
1972年11月、スウォンジー・シティ監督に就任するが、1975年2月に辞任。クルー・アレクサンドラに加入し1978年まで監督を務めた。
その後デーブ・セクストンに誘われて古巣のマンチェスター・ユナイテッドでGKコーチを務め、セクストンがチームを去った1981年まで在籍した。
次にルー・マカリの助監督としてスウィンドン・タウンに加入するが、マカリとの意見の不一致により1985年4月に解雇される。
1986年カーライル・ユナイテッドの監督就任。
1995年、大英帝国勲章(MBE)受章。
2008年7月1日、アルスター大学においてサッカーに対する貢献が認められて博士号を授与され、夏の卒業式で名誉学位を受けた。
2020年2月16日、北アイルランドのロンドンデリー県コールレインにあるコーズウェイ病院で死去した。
享年87歳。
グレッグの訃報を受けてマンチェスター・ユナイテッドの選手たちは2月17日のチェルシーFC戦で喪章を着けてプレイした。
プレースタイル
ゴールキーパーとしてのスキルや反応のよさもさることながら、その人柄に似合わぬほどタフな選手だったグレッグは、声でチームを引っ張り、威厳のある選手で、強烈な個性の持ち主だった。
ハッキリした性格に、屈強な体躯を誇った。