概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1956年2月13日(64歳) | ||
出身地 | ダブリン |
身長・体重 | 174cm、72kg |
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ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
フィッシュアンドチップスが大好きで、チッピーという愛称で知られていました。
当代随一のプレイメイカーとして知られたアイルランド代表のMF
アーセナルやユヴェントスで一時代を築いた。
フットボールリーグ100レジェンドやイングランドサッカーの殿堂などに選出されているレジェンドプレーヤー。
獲得タイトル
クラブ
- アーセナル
- FAカップ:1979
- UEFAカップウィナーズカップ:1980年準優勝メダル
- ユヴェントス
- セリエA(2):1980-1981、1981-1982
代表
- アイルランド
- アイスランド・トライアンギュラー・トーナメント(1):1986
個人
- PFA年間最優秀選手賞(1):1978–79
- PFAチーム・オブ・ザ・イヤー(3):1977-1978、1978-1979、1979-1980
- フットボールリーグ100レジェンド:1998
- FAIの殿堂:2001
- イングランドサッカー殿堂:2006
- アーセナル年間最優秀選手:1977、1978、1979
- アイルランドのポスト:卓越したスポーツパーソナリティ
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 (得点) | |
1973-1980 1980-1982 1982-1984 1984-1986 1986-1987 1987-1990 |
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235 (43) 76 (15) 57 (6) 58 (5) 17 (0) 89 (9) |
代表歴 | |||
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1974-1990 | ![]() |
72 (9) |
クラブ
ブレイディはダブリンで生まれ育ちますが、ロンドンに引っ越したのを機にライスと同じく15歳でアーセナルユースに加わります。
ブレイディは1973年に17歳でアーセナルFCに入団し、同年10月6日のバーミンガム・シティ戦でリーグ戦デビューを飾った。
1973年に17歳の若さでデビューを果たすと、初年度こそ思うような活躍を見せられなかったものの、1974/75シーズンからレギュラーに定着、その後2年間アーセナルは16・17位と降格争いを強いられたものの、不調の中で数少ない希望という評価を受けました。
アーセナルでは卓越したパスセンスでゲームメーカーを務め、デヴィッド・オレアリーらと共に1979年のFAカップ優勝に貢献、同年にPFA年間最優秀選手賞を受賞した。
また1979-80シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは準々決勝でイタリアのユヴェントスを下し準優勝に貢献した(決勝でスペインのバレンシアCFに0-1で敗退)。
この活躍が認められ1980年にユヴェントスに移籍すると、入団早々からスタメンの座を掴み1981年と1982年のセリエA連覇に貢献した。
1980年に国境が解放されて初めてのセリエAでプレイする外国人選手となりました。
特に1981-82シーズンはフィオレンティーナと優勝争いが縺れ込んでいたが、最終節のUSカタンザーロ戦において自らペナルティキックを決め、20回目のスクデット獲得に導いた。
一方でアーセナルはブレイディの穴を埋めることが出来ず、中位をうろつく時期に突入、リーグ優勝を果たすのは8年後の1988/89シーズンまで待つこととなりました。
1982年にユヴェントスにフランスのミシェル・プラティニの加入が決定すると入れ替わるようにユヴェントスを退団し、UCサンプドリアに移籍した。
その後は1984年にインテル・ミラノ、1986年にアスコリ・カルチョといったイタリアのクラブを渡り歩き、1987年にウェストハム・ユナイテッドFCに移籍。
どのチームでも上手く適応してそのチームの中核として働いた。
1990年に現役を引退した。
代表
アイルランド代表としては1975年から1990年までに72試合に出場し9得点を記録した。
しかしクラブチームでの実績にも関わらず、国際舞台での活躍とは縁がなく、1988年のUEFA欧州選手権1988は怪我により不参加。
またFIFAワールドカップ・イタリア大会予選突破に貢献したものの、1990年の本大会直前に代表から引退したため、選手生活を通じてワールドカップへの出場は叶わなかった。
ワールドカップではプレー出来なかったが、代表の礎を作ったのは紛れも無くブレイディだった。
エピソード
ブレイディはサッカーの家系に育った。叔父のフランク・ブレイディ・シニアは1920年代、レイ・ブレイディは1950年代に活躍。
実兄のフランク・ブレイディはシャムロック・ローバーズの選手として1968年のFAIカップ優勝に貢献し、UEFAカップウィナーズカップに出場。
もう一人の兄のパットはクイーンズパーク・レンジャーズでプレーした。
監督時代
引退後は指導者の道へ進み、1991年から1993年までスコットランドのセルティックFC、1993年から1995年まではイングランドのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCの監督を務めた後、1996年7月からは古巣のアーセナルのユースアカデミーの監督に就任した。
2008年3月7日、アーセナルの職務と兼任する形でアイルランド共和国代表のアシスタントコーチに就任し、マルコ・タルデッリと共に監督のジョバンニ・トラパットーニを補佐した。
2010年2月、ブレイディはUEFA欧州選手権2012予選に挑むアイルランド共和国代表のスタッフとして残留しないことを表明し、同年4月に契約満了により退任した。
プレースタイル
利き足の左足でボールを起用に操り、足元のテクニックに優れチームのゲームメーカーとして試合をコントロールし、攻撃を組み立てた。
トラップの技術、ドリブル、長短のパス、戦術眼すべてを備えた選手。
アーセナル公式サイトは彼のことを『攻撃的MFに必要なすべての素質-スキル、視野、バランス、強さ、パワフルなシュートと相手をドリブルで自由自在に翻弄する能力-を備え、ボールを持てば常に正しいオプションを選択する選手だった。サッカーピッチ上で、ブレイディの脳と足は見事に調和していた』と評しています。
左利きのエレガントなプレイメイカー、という胸が高まるようなスペックの持ち主で、1930年代のアレックス・ジェームズの正当後継者、近代アーセナルのロマンチック・ファンタジスタの先駆けといえるかもしれません。