概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年4月20日(44歳) | ||
出身地 | リフォード | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 84kg |
ポジションはゴールキーパー。
利き足は右。
長くアイルランド代表で正GKを務めてきた名選手。
アイルランド代表の正GKとして若手の頃から活躍を見せ、ニューカッスル・ユナイテッドFCでも不動の守護神としてゴールマウスを長年に渡って守り続けた。
マンチェスター・シティのマンチーニ監督「世界で五指に入るGK」、代表での同僚ロビー・キーン「自分が見た中で最高のGKの一人」、ウェールズ代表ガリー・スピード「イングランドで最高のGK」など、自身を称賛する声は枚挙にいとまがありません。
獲得タイトル
クラブ
サンダーランド
- フットボールリーグ第1部:1995–96
ニューカッスル・ユナイテッド
- UEFAインタートトカップ:2006
- FAカップ:1997 – 1998
マンチェスター・シティ
- FAカップ:2010–11
アストン・ヴィラ
- FAカップ:ランナーアップ2014–15
代表
アイルランド共和国
- ネイションズカップ:2011
個人
- FAIシニアインターナショナルプレーヤーオブザイヤー:2005、2006
- ニューカッスルユナイテッドFC年間最優秀選手賞:2005–06
- PFA年間最優秀チーム:2001–02プレミアリーグ、2005–06プレミアリーグ
経歴
代表歴 | |||
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1996-2016 | ![]() |
134 | (0) |
クラブ
地元クラブでプレーしていた1992年、セルティックFCのスカウトに注目され、そのままセルティック・ユースに入団。
セルティックではトップチームに昇格することはなく1994年にブラックバーン・ローヴァーズFCに移籍した。
しかしブラックバーン在籍時代はティム・フラワーズの存在もあってわずか3試合の出場に留まり、スウィンドン・タウンFCやサンダーランドAFCにレンタルされてのプレーを余儀なくされるものの、当時ディビジョン1(2部相当)に所属していたサンダーランドでのプレーは特筆に値するものであった。
出場した17試合中16試合で完封勝利を挙げる記録的なパフォーマンスを残したギヴンは、サンダーランド所属時代の1996年3月27日にダブリンで行われた対ロシア戦で代表デビューも飾り、期待の若手として高評価を受け始めた。
1997年5月30日、前年までブラックバーンで指揮を執っていたケニー・ダルグリッシュに誘われニューカッスル・ユナイテッドへ完全移籍を果たす(移籍金は推定150万ユーロ)。
トリニダード・トバゴ代表ヒスロップや、チェコ代表スルニチェクなどベテランがいたもののレギュラークラスの活躍を見せます。
稚拙で不安定と言われるニューカッスルのディフェンスラインを高いパフォーマンスで統率し続け以降完全に正GKの座を不動のものとし、01/02シーズンから3シーズン連続フル試合出場を果たしました。
02/03シーズンはリーグ3位となり、チャンピオンズ・リーグ出場権を獲得しましたが、予備選3回戦でパルチザンに敗れ、惜しくも本戦出場はなりませんでした。
以降もコンスタントにチームのゴールを守ってUEFA杯出場圏内にチームを押し上げ、05/06シーズンはプレミア最優秀GKとなりました。
2005-06シーズンにはプレミア最優秀GK賞を受賞するなど活躍を続けていたが、2006年9月14日の対ウェストハム・ユナイテッド戦で相手FWマーロン・ヘアウッドと接触。
治療に当たったドクターに「自動車事故に遭ったようなものだ」と言わしめるほどの怪我を負ったが、同年11月18日にアウェーでのアーセナル戦で復帰。
好セーブを連発して試合を1-1のドローに持ち込んだ。
その後はケガで欠場することも多くなり、07/08シーズンシーズンの12月リヴァプール戦では1-5の大敗を喫するなど精彩を欠きます。
クラブ記録のジミー・ローレンスには34試合及びませんでしたが、462試合の出場記録を残して08/09シーズン途中にマンチェスター・シティに移ります。
初年度こそ正GKを務め、コロ・トゥーレ不在時には腕章を巻きましたが、イングランド代表ジョー・ハートにポジションを明け渡しました。
11/12シーズンにアストン・ヴィラと5年契約を結んで正GKになりますが、2年目はアメリカ代表グザンの控えとなり、ミドルスブラへレンタル移籍しました。
ストークでもバトランドの控えとなり、2年目を終えて引退しています。
代表
代表デビューの試合は1996年3月27日ロシア戦。
2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選途中のキプロス戦よりアラン・ケリーからポジションを奪って7試合で5失点、ポルトガルとオランダを相手にスーパーセーブを連発。
プレーオフを制してアイルランド代表を2大会ぶりに本大会へ導く原動力となる。
本大会においても安定したプレーを見せ、決勝トーナメント1回戦でスペインにPK戦で敗れたもののベスト16進出に貢献した。
2004年欧州選手権予選8試合、2006年W杯予選10試合、2008年欧州選手権予選9試合、2010年W杯予選12試合戦うものの敗退が続きますが、2010年5月には代表103試合出場を果たし、ケヴィン・キルバーンの記録に並びました。
2012年欧州選手権予選は11試合7失点し、母国6大会ぶり2回目の出場権を手にします。
本大会は3試合ゴールを守りますが、3連敗に終わりました。
4年後の同大会予選は5試合戦ってポジション争いを展開、本戦ではランドルフの控えとなりました。
エピソード
ギヴンは2009年2月にマンチェスター・シティへと移籍することになり、忠誠を誓ってきたニューカッスルを離れていた。
その時に起こったことを、彼は自伝「Any Given Saturday」で以下のように語っているという。
シェイ・ギヴン
「2009年、マンチェスター・シティに移籍する機会が来た。そこには、あの時のニューカッスルに無いものがすべてあった。
野心、明確なプラン、投資。ビッグプレーヤーを惹きつける魅力、そして成功への欲求。
人生においてそれを欲しがらないサッカー選手がいるだろうか?
最終的に、私とマイケル・ケネディ(代理人)は、マイク・アシュリー会長との会談を行った。未来を決めるためにね。
マネージャーのオフィスに行った。そこにはマネージングディレクターのランビアスもいた。
私は彼らが言わなければならないものを聞くつもりだった。しかし、結局全部マイケルに任せることにした。
そういうことは契約交渉には起こるものだ。選手はそれを信頼できる誰かに任せるしかない。
会談が始まると、私は部屋から出て車に戻った。マイケルはすぐに来た。助手席に座ると彼は言った。
『我々はここに残れない。あれは真剣さも、形も、その格好すらもないオファーだ』
それは新戦力の選手に提示されていたものよりもかなり低かった。彼らは人生を保証されるくらいの長期契約で来ていた」
「ニューカッスルは私を残すために何もしなかった。こちらはキャリア全てを捧げる覚悟だったし、自分は全盛期だった。プレミアを優勝できるクラブも欲しがっていたわけだ。
しかし、ニューカッスルはタイトルを狙うような素振りも見せなかった。最も忠実な選手を保つことを考えていたか?一言で言えば、NOだ。
彼らは『移籍要求の書面にサインしなければ、退団は認めない』と言った。
それにサインすることは、移籍金の10%が彼らに渡ることを意味した。600~800万ポンド(およそ8.3~11億円)だったから、少なくとも60万ポンド(およそ8276万円)がそうなる。
10年以上クラブに忠誠を尽くしてきた選手より、60万ポンドを手にしたかった。そういうことだ。
ニューカッスルは私よりも移籍金に興味を持っていた。彼らが私を行かせた。ジェームズ・ミルナーも行かせた。
クラブの経済状態がピッチ上よりも重要だったのだと語っている。それが私を悲しませている。今もなお」
「私を本当に苛つかせたのは、『シェイ・ギヴンが移籍を要求した』と発表されたことだ。
『シェイ・ギヴンが移籍を要求し、取引を強制したので、残念ながら彼をキープすることができなかった』
ジョー・キニア監督も記者会見で言った。
『我々は彼をニューカッスルに残すために尽力し、長い契約を提供した。長い間このクラブにいて、偉大な選手だった。しかし、彼は適切なタイミングだと感じたのだ。実際には、我々は渋々彼が行動を起こすことを許すほかない状況であった』
おいおいちょっと待てよと。
その裏にはクラブのクソみたいな政治があった。私が出ていってからも、何も良くなっていなかった。
『我々はシェイ・ギヴンの貢献に感謝する』とだけ言ってくれれば、それで十分だったのに」
プレースタイル
185cmと大きくないものの、高い身体能力でハイボールを確実に処理します。
至近距離からのシュートや1対1の局面で冷静な対応を見せる総合力の高いGKです。
類稀の反射神経を武器に好セーブを連発する。
普通のゴールキーパーならディフレクトに逃げるシュートも脅威の握力でキャッチしてしまう。
持ち前の反射神経で近距離からのシュートに滅法強く、またGKとしては平均的な身長ながら、ハイボール処理も巧みにこなす。
中でもパンチングに定評があり、彼のパンチングは非常に遠くまで飛ぶことで有名。
ニューカッスルの脆弱なディフェンスラインを水際で支えた最後の砦である。
味方の迂闊な守備からシュートを撃たれたり、たまに味方DFのとんでもないクリアボールやバックパスが彼の元に飛んできても冷静に処理するその安定感は際立っている。
好セーブのたびに解説者やサポーターが漏らす「ギヴンがいて良かった…」の声は絶えることがない。
大量失点を喫した試合でも、専門誌やスポーツ新聞での記者採点が一人だけ高いこともしばしばである。
ただし、2004-2005シーズンにはプレースキックへの対処に不安定な面があると指摘されたことも。