概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1978年9月11日(42歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 181cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ、右サイドハーフ、左サイドハーフ、ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
2000年代に活躍したセルビア・モンテネグロ、セルビア代表のミッドフィールダー。
インテル6連覇を達成したメンバーの一人。
2009-2010年にはUEFAチャンピオンズリーグも制覇した。
獲得タイトル
クラブ
レッドスターベオグラード
- ユーゴスラビアファーストリーグ:1994–95
- ユーゴスラビアカップ:1994-1995、1995-1996、1996-1997
ラツィオ
- セリエA:1999–2000
- コッパ・イタリア:1999-2000、2003-04
- スーペルコッパ・イタリアーナ:1998、2000
- カップウィナーズカップ:1998–99
- UEFAスーパーカップ:1999
インテルミラノ
- セリエA:2005-06、2006-07、2007-08、2008-09、2009-10
- コッパ・イタリア:2004-05、2005-06、2009-10、2010-11
- スーペルコッパ・イタリアーナ:2005、2006、2008、2010
- UEFAチャンピオンズリーグ:2009–10
- FIFAクラブワールドカップ:2010
個人
- ESMチームオブザイヤー:2006–07
- セルビア最優秀選手賞:2006、 2010
- インテル・ミラノ殿堂:2019
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1995-1998 | ![]() |
85 | (30) |
1998-2004 | ![]() |
137 | (22) |
2004-2013 | ![]() |
231 | (29) |
通算 | 453 | (80) |
代表歴 | |||
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1998-2013 | ![]() |
103 | (15) |
クラブ
両親が共にサッカー選手という家庭に生まれ育ち幼少の頃からサッカーを始める。
そして14歳の頃にレッドスターのユースに入団し当時はリベロとしてプレーしていた。
その後16歳にて当時のリーグ最年少記録でデビューを飾ると翌シーズンからはセントラルハーフにコンバートされ素晴らしい活躍を披露し能力の高さを見せチームの3連覇に大きく活躍する。
1997–98シーズンには19歳にしてキャプテンを任された。
1998年に自身初の海外移籍を経験しイタリアの強豪ASローマとの激しい争奪戦を繰り広げたイタリアのラツィ オへ移籍を果たす。
加入後はすぐにイタリアサッカーに順応し素晴らしいパフォーマンスを披露したが、おしくもACミランにスクデットを奪われてしまう。
中盤の一角としてロベルト・マンチーニ、パベル・ネドベド、フアン・セバスティアン・ベロンらとプレーし、2年目の1999-2000シーズンにはセリエA優勝を経験。
01/02・02/03シーズンでも素晴らしい活躍を披露し続け当時の指揮官エリクソン 監督曰くラツィオで最も完成されている選手と絶讃された。
ラツィオでは在籍5シーズン半でリーグ戦137試合に出場し、22ゴールを挙げた。
そして03/04シーズンから低迷するインテル・ミラノにとって救世主と期待されシーズン途中に加入する。
翌2004-05シーズンにはラツィオ時代の同僚のマンチーニが監督に就任。
再建を図るチームの一員としてコッパ・イタリアを皮切りにタイトル獲得に貢献。
このビッグクラブでも輝きは衰えることを知らず活躍し名門ユベントスの降格もあり05/06シーズンの王者となり、翌06/07シーズンには正真正銘のスクデット獲得に多大な貢献を果たした。
07/08シーズンも国内リーグでは素晴らしい強さを披露し続けリーグ連覇を達成。
さらに08/09、9/10も無類の強さを見せつけユベントス、ACミラン、ASローマ等の追随を許さず4連覇を達成した。
また9/10シーズンのチャンピオンズリーグにて決勝Tでは前回王者のバルセロナをモウリーニョのディフェンシブなスタイルで撃破すると決勝ではこちらも攻撃的チームのバイエルン・ミュンヘンを完全に圧倒し悲願のビッグイヤーを獲得した。
スクデット6連覇を達成。
2009-10シーズンはジョゼ・モウリーニョ監督の下で主要タイトル3冠(チャンピオンズ・リーグ、セリエA、コッパ・イタリアでの優勝)を経験した。
2013年7月6日、インテル退団が決定。
代表
代表では1998年4月に行われ た韓国戦にてデビューを果たすといきなり2得点を挙げる活躍を見せる。
その後ワールドカップ等でもチームの中心として活躍し現在も若手を牽引し続けている。
ワールドカップ:1998フランス大会では3試合に出場し2勝1分けで決勝Tへ進出したが1回戦でオランダに敗れた。
2006ドイツ大会では3試合に 出場したがグループリーグ2戦目のアルゼンチン戦に6-0の大敗を喫するなど1勝もできず敗戦した。
2010南アフリカ大会では2大会続けて死のグループに入ってしまった。
自身は3試合に出場したがグループリーグ最終戦のオーストラリア戦にて引き分けで決勝T進出の可能性があったものの敗れてしまい早々に姿を消した。
エピソード
2009年10月17日のジェノアCFC戦で相手キーパーのマルコ・アメリアのミスキックを見逃さず、センターライン付近(ゴールより約54mの位置)からダイレクトでゴールに蹴りこんだ。
試合後にこのゴールを振り返って「10年から15年後になっても、子供たちに聞かせられるゴールだ」と語った。
2011年4月6日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント準々決勝1stレグのシャルケ04戦において、相手キーパーのマヌエル・ノイアーがヘディングでクリアしたボールをセンターライン付近から蹴り返し、ダイレクトボレーシュートを決めた。
前半キックオフからわずか25秒後のことであった。
引退後
2014年7月4日、インテル時代に師事したアンドレア・ストラマッチョーニが監督に就任したウディネーゼ・カルチョのアシスタントコーチに就任した。
2015年、インテルのアシスタントコーチに就任した。
プレースタイル
サッカーセンスは天才的でありMFならどのポジションでも高いパフォーマンスを披露するセルビアを代表するプレイヤーである。
自他ともに認めるユーティリティプレイヤーで中盤ならサイド、ボランチ、トップ下どこでも自身の能力を発揮できる。
とくに正確なキックに定評がある。
彼のプレースタイルを一度見れば誰でも嫉妬してしまう。
トップ下で世界最高峰のプレーを披露したと思ったらサイドハーフやセントラルハーフ等にポジションを変更しても世界最高峰のプレーは変わらず披露できてしまう。
パス・ドリブル・シュート・オフザボール・ボディバランス等どれをとっても欠点呼べるものはなく監督なら誰しもが彼を起用するであろう。
またディフェンスにも積極的に参加し相手キーマンを潰すこともしばしば見られる。
スタミナも豊富で攻守の切替が素晴らしくとても頼れる存在である。
器用なプレイメーカーでありながら、チームの為に走り続けることを厭わない、ベテランの時代に差し掛かってもその意識には微塵の揺らぎもない選手でした。
スタンコビッチは実にフットボールセンスに恵まれた選手でトップ下のときは、極上パスも出せましたが、非常にミドルシュートが好きな選手で、自ら打てば、GKの横っ飛びを嘲笑うかのようにサイドネットに突き刺さっていましたね。
マンチーニ監督からは、絶大な信頼があり、トップ下、左サイド、右サイド、DMF、中盤ならどこでもこなせる非常に器用な選手でした。
スタンコヴィッチ自身も「複数のポジションを任されるのは優秀な選手の証だ」と自ら言い、マンチーニの起用法に文句をつけたことは一度も無かったそうです。
晩年は、インテルにオランダ代表のスナイデルが加入してからは、だいぶDMFのポジションを任され、プレッシングに走り回り、縁の下の力持ち役として活躍していました。
若き時代は、トップ下の他にも、左サイド、右サイドでも出場し、どちらサイドで出場しても、FWに綺麗なセンタリングを供給していました。
非常に器用で巧い選手だったと思います。
引退してからは、やや過小評価気味になってはいますが、フットボールセンスの高さ、テクニックの上手さは、インテルがセリエAで強かった時代は、世界の5本の指に入るようなテクニックの高さ、芸術的な選手でした。
プレーが似ている選手は、同じユーゴスラビア代表で、ユベントスやインテルで活躍したヴラディミール・ユーゴビッチ選手や、トップ下でプレーしているときは同じユーゴスラビア代表だったストイコビッチ選手を彷彿とさせるような華麗なプレーもちょくちょく魅せていました。