概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1931年5月16日 | ||
出身地 | Begeč | ||
没年月日 | 2014年4月27日(82歳没) |
身長・体重 | 170cm、68kg |
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ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。
1950年代に活躍したユーゴスラビア代表のミッドフィールダー。
1952年のヘルシンキオリンピックの銀メダリスト。
クラブレベルでは地元のヴォイヴォディナで長いキャリアを送った。
経歴
クラブ | |||
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年 | チーム | 出場 | (得点) |
1946〜1960 | ヴォイヴォディナ | 185 | (15) |
1961–1962 | サンプドリア | 13 | (0) |
1962〜1964 | ヤングフェローズ・チューリッヒ | 14 | (4) |
合計 | 212 | (19) |
代表歴 | |||
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1951-1958 | ![]() |
57 | (0) |
彼は地元のチームに忠実であり続け、彼のキャリアのほとんど(1946–1960)をヴォイヴォディナで過ごします。
1952年のヘルシンキオリンピックでソビエト連邦に勝利したユーゴスラビアチームに加わりました。
この1952年のオリンピックで銀メダルを獲得した。
1954年と1958年のワールドカップに2度出場し、主将なども務めた。
1961年、彼はセリエAクラブサンプドリアで1シーズン(1961〜62年)プレーするためにイタリアに移り、その後スイスのヤングフェローズ・チューリッヒ(1962〜 1964年)で選手兼任監督を務め1964年に現役を引退しました。
エピソード
試合後のインタビュー中に緊張を解消するために使用された彼の独特のユーモアのセンスと記憶に残る皮肉なコメントの両方で人気を博した。
指導者としてはスイス、オランダ、イタリア、スペインなどあらゆる国で指揮し華々しい成績を残している。
フェイエノールト、レアル・マドリード、サンプドリア、ローマ、ナポリなど強豪チームを指揮し、レアル・マドリードでは1979年、1980年、サンプドリア時代には1990年、1991年のリーグ優勝が最大の業績。
特にサンプドリア時代は1992年、現UEFAチャンピオンズリーグの前身であるチャンピオンズカップにおいて、チームを決勝に導いた。
EURO2000のユーゴスラビア代表監督を最後に監督業を引退。
ユーゴスラビア全時代を通じて最も成功した監督の一人といわれている。
2014年4月27日死去。
82歳没。
ヴェテルニクのFKヴォイヴォディナトレーニング施設は彼にちなんで名付けられました。
プレースタイル
ユーゴの選手らしくテクニックがありパスセンスに秀でていた。
一方で鋭い読みを活かした守備でもチームに貢献した。
スタミナもあり空中戦にも強くセンターバックを務めることも出来るほどの選手。
戦術理解度が高く賢い選手だった。
またリーダーシップもありチームを引っ張るキャプテンとしても活躍。