概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1973年9月2日(47歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 187cm | ||
体重 | 82kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は左。
1990年代から2000年代にかけて活躍したセルビア人ストライカー。
ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロ、セルビアの代表を経験した選手。
EURO2000では大会得点王にもなった。
獲得タイトル
クラブ
- パルチザン・ベオグラード
- セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ:2回(1992-93、1993-94)
- ユーゴスラビアカップ:1回(1993-94)
- アストン・ヴィラFC
- EFLカップ:1回(1995-96)
- FCルビン・カザン
- ロシアサッカー・プレミアリーグ:1回(2008)
-
個人
- セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ得点王:2回(1993-94、1994-95)
- UEFA欧州選手権得点王:1回(UEFA EURO 2000)
- UEFA欧州選手権ベストイレブン:1回(2000)
- UEFAユーロ2000:ゴールデンブーツ、トーナメントチーム
経歴
代表歴 | |||
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1994-2003 | ![]() |
72 | (32) |
2003-2006 | ![]() |
29 | (3) |
2008 | ![]() |
1 | (2) |
92/93シーズンにユーゴスラビアの名門パルチザンでデビューすると、すぐにレギュラーとなる。
チームのゲームメーカーであった、ミヤトビッチと共に攻撃陣を牽引し、見事にリーグ優勝を果たす。
93/94シーズンには、30ゴールを挙げ、リーグ得点王に輝くと共に、チームを連覇に導く。
翌94/95シーズン、リーグ優勝はライバルであるコバチェビッチ擁するレッドスターにさらわれるが、2シーズン連続で得点王となり、東欧No.1のストライカーとなる。
そして、95/96シーズンには、イングランドの名門アストン・ヴィラに活躍の場を移す。
鳴り物入りで加入したミロシェビッチは、当時のアストン・ヴィラの不動のエースであったドワイト・ヨークと2トップを組む。
しかし、95/96シーズンこそ、12ゴールとまずまずの結果を残したが、その後の成績はいまいちで98/99シーズンにはスペインのサラゴサに放出されることとなった。
スペインサッカーとミロシェビッチのプレースタイルが合ったようで、スペインではイングランドの鬱憤を晴らすかのようにゴールを量産。
2シーズンで38ゴールを叩き出し、リーグ屈指のストライカーとして認知されるようになった。
そして迎えた2000年欧州選手権。
コバチェビッチとの激しいレギュラー争いを制し、エースストラカーとして大会に挑む。
グループリーグ初戦のスロベニア戦で2ゴールを挙げる。
チームは決勝トーナメント初戦でオランダに完敗するが、それまでの全ての試合でゴールを挙げる大活躍を見せる。
5ゴールを挙げたミロシェビッチは、オランダのクライファートに並び、大会得点王となった。
サラゴサでの活躍と、欧州選手権得点王という実績を残したミロシェビッチは、このシーズンオフ、多くのチームからオファーを受ける。
そして、選んだチームはイタリアのパルマであった。
パルマはエースとしてゴールを挙げ続けてきたクレスポの後釜に、ミロシェヴィッチを選んだのである。
クラブもサポーターも欧州選手権得点王に大きな期待をかけていた。
しかし、その期待は大きく裏切られることとなる。
クレスポは前線で自分に与えられた役割をシンプルに効果的にこなすセンターフォワードであった。
しかしミロシェビッチはボールが回ってこないと待ち切れずに、すぐに中盤までボールをもらいに行き、さらにボールを受けてもワンタッチ、ツータッチからシュートに持っていくことが多く、プレッシャーのきついイタリアではそのプレーは通じなかった。
シーズン中盤以降はベンチを温めることが多くなり、翌01/02シーズン途中には、サラゴサに戻ることとなった。
スペインに戻ると再び得点感覚を取り戻し、多くのゴールを挙げる活躍を見せた。
04/05シーズンからはオサスナでプレー。
この頃にはベテランということもあり、なかなか90分フルに戦うことはできなかったがプレイスタイルもシンプルになっており、
高い技術でポストプレーを確実にこなす大人のFWとなっていた。
セルビア・モンテネグロ代表としては2006 FIFAワールドカップに出場している。
同代表として最多の102試合に出場している。
06/07シーズンを最後に長年プレーしてきたスペインを去り、ロシアに活躍の場を求める。
体力的な衰えは隠すことはできなかったが、ベテランらしいプレーでチームに貢献。
ルビンの初リーグ制覇に貢献し、このシーズンを最後に引退した。
代表引退試合となった2008年11月19日のブルガリア戦ではPKを2本外したが、2得点した。
代表では、旧ユーゴスラビア、ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロ、セルビアという4ヵ国の代表を経験。
合計で102試合で37ゴールという堂々たる成績を残している。
エピソード
同時代に活躍したコバチェビッチとは、常にレベルの高いレギュラーの座を争う関係でしたが、仲が悪いということはなく、コバチェビッチの母親が亡くなった際には、自家用の飛行機で実家まで送ってあげるなど、むしろ関係は良好だったようです。
オサスナ時代のような落ち着きのあるプレーを若いころできていたら、イタリアでも成功していたんじゃないでしょうか。
引退後は監督の道に進んだ。
プレースタイル
長身を生かした空中戦を得意とするが、旧ユーゴスラビアの選手らしく、高い技術を持ち、単なる大型ストライカーの枠にはまらない。
長身を生かしたポストプレイを得意としており、足元の技術も優れていた。
柔らかいボールタッチからシュートに持っていく動きを得意としており、左足から放たれるシュートは非常に鋭く強烈であった。
高い技術は彼の長所でもあったが、短所でもあった、なかなかボールがまわってこない場合等では、自ら中盤まで下がりボールをもらいに行ったり、ゲームの組み立てに参加したがることが多く、逆にその動きにより、前線のターゲットをなくしたチームは全く機能しなくなることもあった。
キャリア終盤では身体的な衰えも指摘されてきていたが、強力な左足を武器にプレーした。