概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1981年10月21日(39歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 194cm | ||
体重 | 88kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「ヴィダ」、「マン・オブ・スチール」、「ロボコップ」など。
2000年代に活躍したセルビア代表のセンターバック。
マンチェスター・ユナイテッドで欧州制覇を達成した。
獲得タイトル
クラブ
- レッドスター・ベオグラード
- ユーゴスラヴカップ 2002
- セルビア・スーペルリーガ 2003-04
- セルビア・モンテネグロカップ 2004
- マンチェスター・ユナイテッドFC
- プレミアリーグ 2006-07, 2007-08, 2008-09,2010-11,2012-13
- フットボールリーグカップ 2005-06, 2008-09, 2009-10
- FAコミュニティ・シールド 2007, 2008, 2010, 2011, 2013
- UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08
- FIFAクラブワールドカップ 2008
個人
- 年間最優秀海外セルビア人選手(3): 2005(スパルタク・モスクワ), 2007, 2008(マンチェスター・ユナイテッド)
- セルビア年間最優秀選手(2): 2005, 2008
- PFA年間ベストイレブン(3): 2006–07, 2007–08, 2008–09, 2010-11
- プレミアリーグ月間最優秀選手(1): 2009年1月
- バークレイズシーズン最優秀選手(1): 2008–09
- FIFA FIFPro World XI:2009、2011
- FIFA FIFPro World XI 4th team:2013
- プレミアリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・シーズン:2008-09、2010-11
- バロンドール:2008年(21位)、2009年(16位)
- プレミアリーグ20シーズンアワード(1992–93から2011–12)
- ファンタジーチーム・オブ・ザ・20シーズン
- サーマット・バスビー・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー:2008–09
- マンチェスター・ユナイテッド・プレーヤーズ・オブ・ザ・イヤー:2008–09
- ESMチーム・オブ・ザ・イヤー:2006–07、2008–09、2010–11
- SDレッドスターベオズダのベストスポーツマン:2002
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
2000-2004 | ![]() |
67 | (12) |
2000-2001 | → ![]() |
27 | (6) |
2004-2006 | ![]() |
39 | (4) |
2006-2014 | ![]() |
211 | (15) |
2014-2016 | ![]() |
23 | (1) |
代表歴 | |||
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2002-2011 | ![]() |
56 | (2) |
クラブ
1996年にレッドスター・ベオグラードの下部組織に入り、2000年にレンタル先のスパルタク・スボティツァでプロデビュー。
ここで結果を残し、レッドスター復帰後もすぐさまポジションを獲得。
20代前半ながらキャプテンを任されるなど若くしてチームの柱になった。
2年目にはUEFA杯にも出場します。
最後のシーズンはUEFA杯オーデンセ戦で初得点、リーグでもDFながら5得点を挙げ、ダブルを置き土産にスパルタク・モスクワへ移ります。
2004年1月にはロシアの名門、FCスパルタク・モスクワに移籍した。
ロシアリーグでも持ち前のフィジカルを前面に出したプレーで存在感を示しました。
守備時は言うに及ばず攻撃面でもセットプレーで得点を挙げ、リーグでも有数のDFとなります。
モスクワでも変わらぬプレーぶりを見せ、欧州でも注目の若手DFとして益々評価は高まった。
各国クラブが続々オファーする中、2006年1月にプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドFCに移籍が決定。
移籍金は約700万ポンド。
当初は環境やリズムになじめず、層の厚さもあり困難な状況が続きしますが、出場するごとに安定感を増し、W杯を経験した後の2年目はレギュラーに定着。
リオ・ファーディナンドとワールドクラスのCBコンビを形成し、4シーズンぶりのリーグ優勝に大きく貢献しました。
翌シーズンにはリーグ2連覇を達成すると、チャンピオンズ・リーグでも決勝チェルシー戦でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる働きを見せ、クラブに10年ぶりのビッグイヤーをもたらしました。
2007-08シーズンはチームのプレミアリーグ、UEFAチャンピオンズリーグ制覇。
翌08/09シーズンは2枚のレッドをもらいながらも34試合に出場し、チェルシー戦など通算4得点を挙げると、本業の守備では14試合無失点というリーグ記録を打ち立て3連覇に貢献しました。
チャンピオンズ・リーグでもインテル戦で得点を決めるなど準優勝となりました。
また、クラブW杯でもガンバ大阪相手に得点を決めるなど世界一の座に就きました。
プレミアリーグではチームの14試合連続無失点の記録を樹立するなど、リーグ屈指のディフェンダーとなった。
10/11シーズンに腕章を託され、終盤のチェルシー戦で優勝を決定づける得点を決めました。
リーグ3連覇や2年連続CL決勝進出にも貢献しPFA年間最優秀選手賞の受賞も有力視されたが、大一番となったリヴァプールFC戦で決定的なミスを犯したことなどから同僚のライアン・ギグスに受賞を譲る。
しかしその後、サポーターの選ぶチーム年間最優秀選手に選ばれた。
13/14シーズンは国内リーグで25試合と持ち直し、チャンピオンズ・リーグでもバイエルンとの準々決勝1stレグでヘッドを決めました。
2014年2月7日、2013-14シーズン限りでマンチェスター・ユナイテッドを退団することをクラブの公式サイトで発表した。
2014年3月5日、翌2014-15シーズンからセリエAのインテル・ミラノへ加入することが発表された。
2014年8月31日、トリノ相手のセリエAデビュー戦でいきなりレッドを受けますが、ラノッキアやファンとの3バックを固定しました。
しかし、インテルでは背中や腰の負傷に悩まされて満足のいくプレーが出来ない時間が増え、2015-16シーズン中はヘルニアの手術をするものの、ベンチ要員の域を出ることはなかった。
2016年1月18日、インテルとの契約を解除。
1月29日、現役引退を発表した。
代表
U-21代表を経て、当時の代表監督デヤン・サヴィチェビッチにより招集され、2002年10月12日のEURO2004予選の対イタリア戦でフル代表デビューをスタメンで飾った。
2006年W杯欧州予選ではゴラン・ガヴランチッチ、ムラデン・クルスタイッチ、イヴィツァ・ドラグティノビッチと「フェイマス・フォー」と称された4バックの一員として予選突破に貢献した。
本戦出場を決めたものの、予選最終戦のボスニア・H戦の後半に退場処分となり、グループリーグ初戦のオランダ戦は出場停止でした。
その後、練習中に左ひざを痛め、結局試合出場はならず、チームはアルゼンチンに6-0の大敗を喫するなどグループリーグで敗退した。
2008年欧州選手権予選は7試合のプレーも実らず本大会出場を逃します。
2010年W杯予選では8試合プレーし、2大会連続出場を果たしました。
本大会ではドイツに勝ったものの2敗を喫し、またもグループリーグ突破はなりませんでした。
セルビアとモンテネグロの国家分離により発足したセルビア代表でも守備の要として活躍した。
2011年10月24日、代表引退を表明した。
エピソード
リヴァプール戦で熱くなる傾向があり、入団以来3枚以上レッドカードを受けています。
かつてのイングランド代表FWダレン・ベント。
『Talksport』で「これまで対戦した中で最も厳しかった相手」を聞かれると、以下のように話したとか。
「一番厳しかった相手はヴィディッチだよ。速く、ためらいもない男だ。恐ろしかった。とても鋭いヤツだ。
5センチの長いスタッドを使っていてね。正直に言って、アキレス腱やふくらはぎがやられる。
ところが、何が面白いって…彼はいつも膝のようなもので背中を蹴ったり、ふくらはぎを蹴ったりするたびに『ごめんよベント、すまない』と謝ってくるんだ。4回もやった後にね!
しかし、彼は本当にいい選手だったね。彼とリオ・ファーディナンドはすばらしいパートナーだった。
ただ、遥かにヴィディッチは怖かったね。とてもアグレッシブな選手だった」
2014年にインテルへと移籍する際にはこのようなお別れセレモニーも行なわれたヴィディッチ。
仲間には非常に愛され、敵には非常に恐れられる選手であった。
プレースタイル
ユナイテッドでキャプテンも務めた百戦錬磨のセンターバック。
強靭なフィジカルと激しいプレーで知られたセンターバックだった。
強靭なフィジカルで相手を吹っ飛ばし、ヘディングが異常に強い。
その守備は鉄壁を誇り体を投げ出した守備を特長とする一方、ケガで離脱する頻度も少なくない。
高身長を活かして空中戦を制圧し、エリア内で高い壁を作ります。
スピードに難があるものの、特徴である粘り強いマンマークはそれを感じさせず、常に相手にプレッシャーをかけます。
空中戦に抜群の強さを発揮するCBで、セットプレー時の攻撃参加も相手に脅威を与える。
またかつてMFをプレーした経験もあり、足元も確かな技術を持っている。